許せば自分が救われる

スピリチュアル系の本を読んでいて、ふと思った。

本当は、憎むよりも愛するほうが、ずっと楽なんだよねえ。

誰かをずっと憎むのって、疲れる。

エネルギーが必要だもの。

魂は、愛することのほうが得意だし、それが自然なんだ、きっと。

わざわざ、憎みたくないよね。

そして、ずっと憎み続けるなんてことは、

とてもとても、つらいことなんだよね。

相手がどうとかいうより、

憎み続ければ、それは自分をいじめてるのと同じことで。

その憎しみをおろせば楽になれるのに、

あえて重荷を背負うのは、ちょっと引いた視点からみたら、

ひどくバカバカしいことなのかもね。

だってさあ、みるからに重い荷物をいっぱい背負って、

重いんです、苦しいんです、つらいんです、

どうして私がこんな目にって、泣き叫んでるようなもので。

まあ落ち着きなよ。

その両手の荷物と、背中に背負った荷物を下ろして、

熱いお茶でも一杯飲みなよって、薦めたくなるかも。

そして荷物を下ろした人はきっと、

キョトンとした顔で、目を丸くするだろうね。

あれ、なんか急に楽になったんですけど、なんてね。

体中が軽いです。これなら、どこまでも歩いていけそう、なんて。

それで、よほど大事な荷物かと思いきや、

意味のない岩石だったりね。

これ運んでどうするんだよっていう。

目的もないまま、持てる限りの石を運んで

ひーひー言ってるのが苦しさの原因だった、なんてさ。

誰かを憎み続けることは、そういうことなのかもしれないと、

ふと思ったのでした。

緑道に降る雨

 遅い時間に投票所へ向かったら、雨だった。一日家で寝てたから、雨が降っていることにも気がつかなかった。玄関のドアをあけたら空気がひんやりしていて、秋だなあとしみじみ。

 そう。もう8月も明日一日で終わり。空気の匂いは、すっかり秋である。

 投票を終えた後、お気に入りの緑道を通ってスーパーへ買い物に行く。ここの緑道、最近みつけたのだけれど、かなり雰囲気がいい。車が来ないから、ぼーっとしながら散策するのには最適。立ち並ぶ家々から、食器の音がしたり、夕餉の匂いが漂ってくるのを楽しむ。

 ときどき、はっと胸をつかれるような家がある。私が気になるのは、どうも廃墟というか、人の気配のない家が多い。

 まだ新しい家なのに、ひっそりしずまって、両隣のにぎやかな話し声の中、そこだけがぽっかりと、異質な空間となっていたり。

 

 要塞のように固く閉じられた雨戸を見ると、ここが最後に開いたのはいつだったのだろうと、意識が空想に飛んでしまう。

 そして、ツタの這う家。窓も半分はツタに覆われて。やがてすべてが覆い尽くされるのも、時間の問題かと思われるような、人々から忘れ去られたような家。

 あるアパートの2階に、ふと目がとまった。古びたドア。なにか気になる。

 ドアに続く外階段を見たとき、その理由がわかった。なんと、錆びて崩落した部分があるのだ。かろうじて残った部分も、人の体重がかかれば、たやすく崩れ落ちてしまうだろう。

 つまり、そのアパートの2階には、もう誰も住んでいないのだ。かなりの時間、そこには誰も立ち入っていない。立ち入ろうとしてもできない。唯一の道が、途切れているのだから。

 扉を開ければ、どんな風景が広がっているのだろうと思った。時間がとまっているはずだ。最後にそのドアを出た人は、どんな思いでそこを出ただろう。一度は振り返っただろうか。その眼には、どんな光景が映ったんだろう。

 それとも。新天地へ向かうあれやこれやで精一杯で。振り返る余裕もないまま、慌しくそこを出て行ったのだろうか。思いなど欠片も残さないで。

 夜の緑道は、雨ということもあって、人気がなかった。傘に当たる雨の音が心地よかった。昼間の喧騒も埃ぽさもすっかり洗い流されて、まるで異次元に迷い込んだように思えるほど、静かだった。

 私は一年前に、ある人がつぶやいた言葉を思い返していた。

 その人は、こう言った。

 「とりたくない人は、とらなくていい」

 内心嫌なことがあっても、いつも笑顔で、気持ちを決して露にすることがない人だった。私はその人が笑顔でいるところしか見たことがなくて、だからその人が初めて口にした辛辣な言葉を、そして一瞬の不機嫌な背中を、驚いてみつめていた。

 面と向かって言われたわけではないけれど、それは私に向けられた言葉だと直感した。だって、私は「とりたくない人」だったから。

 とりたくないものは仕方ない。だってそれは苦痛だった。とりたくない気持ちも理由も、わかってくれているのではないかと、甘い期待を寄せていた。立場が逆なら、その人だって、とりたくないのではないかと勝手に想像をしていた。

 でもそれは違ってたんだなあと、今日しみじみ思った。

 冷たい言葉を口にしたその人は、次の瞬間、何事もなかったかのように笑顔の仮面をつけていた。私も、ただ、笑ってた。辺りにいた他の人たちも、うきうきとはしゃいでた。

 誰も、その言葉の意味に気付かなかったのではないだろうか。その人と、私以外。

 いや、そう思うことさえ、もはや私の思い過ごしなのかも、しれないけれど。

 初めて本音をみせてくれた。それくらい、あの瞬間には気を許してくれたのかもしれない。だけどその本音は、はっきりと私を拒絶していた。

 自分ではけっこう、空気を読めるつもりでいたんだけれど。その人のことも、わかっているつもりでいたけれど、あのとき聞いた言葉は、どんな推測よりもパワーがあった。

 だとしたらずっと、私は勝手にいろんなことを思いこんでいたんだなあと、今はそれがわかる。

 雨の中で、その人のことを考えていた。一年もたって、やっとその言葉の意味が、ちゃんとわかった気がする。

 ただ単純に、聞いてみたいことも、話してみたいことも、いっぱいあったんだけれども。それは私の勝手であって、相手の気持ちに背いたことだったと。

 なんで私はこの緑道で、一年も前のことを鮮明に、今になってこんなにも考えているのだろうと、冷静に考えれば笑ってしまうような話なんですが。心に残る言葉というのは、あるものです。たとえその場では流してしまっても、深く残った言葉は、なにかの瞬間にふと、浮かび上がる。

 この緑道や、ツタの絡まる家や、壊れた外階段に、感慨深い夜でした。

祈りの場所

 今日は終戦記念日です。

 明治神宮へ行ってきました。駅から明治神宮までの道はよく晴れていて、日差しがまぶしかった。

けれど一歩鳥居をくぐると、壮大な森に囲まれた北参道に、強い太陽光は直接届きません。

 360度。どの方角からも、セミの鳴き声が聞こえます。雨のように降り注ぎます。木の匂いと、セミの声と、湿気を含んだこの暑さと、小石を踏みしめて歩く自分の足音と。

 明治神宮は、本当に不思議な場所です。落ち着くというか、とても癒される場所ですね。私は明治神宮の空気が好きです。

 蝉時雨の中、前を歩く若いカップルを追い越しました。その直後、女性が感慨無量の声色で、ため息交じりにこうつぶやくのが聞こえました。

 「静かね・・・」

 一瞬の沈黙の後、それに同意する男性の低い声が聞こえました。

 私は、はっとしました。

 静か? この蝉時雨が? 

 

 その女性の声は、私の胸に深く響きました。女性が心底、感激しているのが伝わってきたからです。単なるおしゃべりというのではなく。

 証明する手段などありませんが、なんの根拠もありませんが、私はその女性が感動した気持ちをそのまま、その純粋な思いをそっくり、自分も感じとったような気持ちになったのです。

 自分も同じ思いだった、というのではなくて。その人が感じた真摯な気持ちが、心にそのまま飛び込んできた、というか。

 暑さと溶け合ったこの蝉の声を、静かと感じることに、私は不思議な感慨を覚えました。

そうかー、静かだと感じたのか。幾重にも重なるこの、波のように絶え間ない蝉の声。それが、女性の耳には聞こえていても、心は音として捉えていなかったということで。彼女の目の前には、荘厳な小石の参道と、それを包む森の静寂だけが広がっていたわけです。

 同じ場所に位置していながら、私と彼女が感じたものは、まったく違う景色だったのですね。

 もしかしたら、彼女は交通量の多い道路沿いの部屋で、車のエンジン音やクラクションに囲まれた生活をしているのか? それとも繁華街の、人のざわめきが一日消えることのない、賑やかな通り沿いに暮らしているのか? だったら蝉の音は自然と一体化して、もはや音とはいえない静寂のジャンルに、無意識に分類されてしまうものなのかなあ。

 いやいや、もしや。

 禅の高僧の境地。瞑想の向こう側の世界に、彼女は飛んでいたのかもしれない。すべての音が消え去った、無我の境地に。

 「静かね・・・」という彼女の声はとても印象深く、考えさせられるものでした。

 私は瞑想が苦手です。呼吸に集中すると、苦しくなるのです。いつも何気なく、当たり前のようにしている動作が、意識したとたんに苦痛になります。

 吸えば吐きたくなり、吐けば吸いたくなり、深い呼吸を心がけるほど、耐え難い欠乏感に襲われてしまうのです。実際にはなにも不足していないのに、酸素が不足するのではないかという恐怖感で、苦しくなってしまうのです。

 でも、見知らぬ彼女が経験した静寂の世界。それが瞑想の向こうにあるのなら、また瞑想をやってみたい。参道で、私はそんなことを思ったのでした。

 本殿でお参りをしました。手を合わせて、何か特定のことを祈るというよりも、ただ、祈っていました。何を、という目的語、抜きです。こうして祈る場があることに、感謝しつつ、ただ祈りました。

 明治神宮の森は、人工の森だそうです。約100年前に、荒地だった土地に、全国から10万本もの木が奉献され、11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕があったとのこと。

 うっそうと茂った森の様子を見る限り、ここが100年前には荒地だったとは、とても信じられないような光景です。

 杉や檜ではなく、なぜ樫や椎などの照葉樹林が植えられたかというと、そこには当時の内閣総理大臣大隈重信と、林苑関係者のバトルがあったそうですね。方向は違っても、両派とも立派な森を作ろうという固い意志は、一致していたのだと思います。

 だから林苑関係者たちは、総理大臣の不興をかってでも、照葉樹林を進める根拠を粘り強く説いたのでしょう。そして総理大臣も、意地で関係者の意見を握りつぶすのではなく、照葉樹林という意見をきちんと熟慮して、最終的には納得したのですね。

 その結果が、この素晴らしい森です。空気が澄んでいて、ここへ来ると元気がでるような気がします。明治神宮にかけた人々の思いがそのまま、この森を守っているのかもしれません。

 この日本の国を守ってきた、神様とご先祖さまに感謝します。ありがとうございます。

月は昇り、銀色の魚は跳ねる

 数年前に読んでから、ずっと心に残っている文章があった。

 まるで詩のようで。言葉なのに、それを目にしたとたん、映像も音も匂いも、鮮やかに広がるのだ。

 それは圧倒的な力を持っていて、読んだ私は、しばらくその世界に浸っていた。

 今日、とある橋を通りかかったとき、ふとその文章を思い出した。

 文章は、真夜中の情景を描く。

 主人公は橋の真ん中で、欄干にもたれて川面の魚が跳ねるのを見ている。月は高く昇り、青白くさざ波を照らす。

 魚は銀色の鱗を持ち。白い腹をみせては、空中に踊る。

 夜更けのオフィス街は静まり返り、まるで世界には主人公しかいないかのように、時間がとまる。

 主人公は独りなのに、その光景は寂しさよりも、強烈な美しさを感じさせるものだった。その瞬間は、切り取られた絵画のように完璧なもので。

 その静けさや、空から降る光の強さに。読み手の私はすっかり魅せられて、息を呑んだ。ただ見つめていた。本当に綺麗なものを目にしたとき、声を出すことはできないから。ただただ、感嘆して見てる。綺麗だなあって。そして心は勝手に、震え出すのだ。

 その情景は夏だ。昼間の熱風とは違う、いくぶん涼しい風が主人公を吹き抜ける。その風に吹かれて、主人公は魚を見る。月を見上げ、川の向こうの見えない景色に思いを馳せる。

 主人公の立つ世界はクールだけれど。

 その世界をじーっと眺めていると、やがてそこにある熱に気付く。 

 主人公の体を巡る血液の熱さなのである。

 橋の真ん中で、世界にたった一人立ち尽くす主人公。その体をめぐる血潮の熱さが、伝わってくる。なんなんだ、この感覚はと、俯瞰している私は思う。

 主人公も人間なんだなあって。

 その鼓動が、なんだか愛おしくなって耳を澄ませる。規則的なその音と、温かさに、手を触れたくなってしまう。

 そうかー、夜風に吹かれているのはだからなのかーって。

 幻だから、どんなに手をのばしても実際に、現実世界でその絵を体感することはできないんだけれども。

 私が今日通ったその橋は、本当にその詩の、モデルだったのかもしれないと思った。

葉ずれの休日

 数年ぶりに熱海に行ってきた。温泉でのんびり~と思ったのだが、意外にも一番癒されたのは、温泉よりも2泊目の宿で聞いた、葉ずれの音だった。

 眺望は決してよくない。窓の外には、木々が広がっていた。洋室のベッドに寝転がって目を閉じると、強い風が木を揺らす音が聞こえた。

 ああ、懐かしいなあ。そう思った。

 

 そう、この音は、初めて就職した会社の研修所で聞いたのと同じ音だ。あの頃も、朝から晩までびっちりのスケジュールで、休む暇もない緊張が続いて、土日はバタンキューで、ベッドにゴロリ、動けないままに葉ずれの音を聞いていた。

 研修所で同室の友人たちは、元気に外出していった。人気のない寮の静けさ。午後3時くらいの感じだ。

 風が木を揺らして、それは思いのほか、重厚な音で。波音のように、それは際限なく繰り返すのだ。よく晴れた日ざしが、室内に忍びこむ。

 過去の私はそのとき、ぼんやりと未来のことを思っていた。

 未来の私はなにを考えているだろう?と。

 熱海の小さな宿で。

 こうして同じ葉ずれの音を聞きながら目を閉じている自分のことを、想像はしていなかった。

 やっぱり。どんなに時間がたっても。

 私は私だなあと。そんなことを思った。本質的なところは変わらない。あの頃の私にもし、なにか伝えることがあるとしたら。

 素直になるってことだ。

 誰かへの意地のために、選択肢を狭めないでって言ってあげたい。余計な考えを全部捨てたら、自分が本当に求めてるものが見えてくるから。

 何にも考えないで、うとうとしていた。生産的なことなんてなんにもできず。起きているのか眠っているのか、半分起きていて、半分夢の中で。

 

 なんとも贅沢な時間だったけれど、癒された。

 音や匂いには、一瞬にして時間を超える効果がある。

 熱海で聞いた葉ずれの音に、過去の幻をみた休日だった。