月は昇り、銀色の魚は跳ねる

 数年前に読んでから、ずっと心に残っている文章があった。

 まるで詩のようで。言葉なのに、それを目にしたとたん、映像も音も匂いも、鮮やかに広がるのだ。

 それは圧倒的な力を持っていて、読んだ私は、しばらくその世界に浸っていた。

 今日、とある橋を通りかかったとき、ふとその文章を思い出した。

 文章は、真夜中の情景を描く。

 主人公は橋の真ん中で、欄干にもたれて川面の魚が跳ねるのを見ている。月は高く昇り、青白くさざ波を照らす。

 魚は銀色の鱗を持ち。白い腹をみせては、空中に踊る。

 夜更けのオフィス街は静まり返り、まるで世界には主人公しかいないかのように、時間がとまる。

 主人公は独りなのに、その光景は寂しさよりも、強烈な美しさを感じさせるものだった。その瞬間は、切り取られた絵画のように完璧なもので。

 その静けさや、空から降る光の強さに。読み手の私はすっかり魅せられて、息を呑んだ。ただ見つめていた。本当に綺麗なものを目にしたとき、声を出すことはできないから。ただただ、感嘆して見てる。綺麗だなあって。そして心は勝手に、震え出すのだ。

 その情景は夏だ。昼間の熱風とは違う、いくぶん涼しい風が主人公を吹き抜ける。その風に吹かれて、主人公は魚を見る。月を見上げ、川の向こうの見えない景色に思いを馳せる。

 主人公の立つ世界はクールだけれど。

 その世界をじーっと眺めていると、やがてそこにある熱に気付く。 

 主人公の体を巡る血液の熱さなのである。

 橋の真ん中で、世界にたった一人立ち尽くす主人公。その体をめぐる血潮の熱さが、伝わってくる。なんなんだ、この感覚はと、俯瞰している私は思う。

 主人公も人間なんだなあって。

 その鼓動が、なんだか愛おしくなって耳を澄ませる。規則的なその音と、温かさに、手を触れたくなってしまう。

 そうかー、夜風に吹かれているのはだからなのかーって。

 幻だから、どんなに手をのばしても実際に、現実世界でその絵を体感することはできないんだけれども。

 私が今日通ったその橋は、本当にその詩の、モデルだったのかもしれないと思った。

葉ずれの休日

 数年ぶりに熱海に行ってきた。温泉でのんびり~と思ったのだが、意外にも一番癒されたのは、温泉よりも2泊目の宿で聞いた、葉ずれの音だった。

 眺望は決してよくない。窓の外には、木々が広がっていた。洋室のベッドに寝転がって目を閉じると、強い風が木を揺らす音が聞こえた。

 ああ、懐かしいなあ。そう思った。

 

 そう、この音は、初めて就職した会社の研修所で聞いたのと同じ音だ。あの頃も、朝から晩までびっちりのスケジュールで、休む暇もない緊張が続いて、土日はバタンキューで、ベッドにゴロリ、動けないままに葉ずれの音を聞いていた。

 研修所で同室の友人たちは、元気に外出していった。人気のない寮の静けさ。午後3時くらいの感じだ。

 風が木を揺らして、それは思いのほか、重厚な音で。波音のように、それは際限なく繰り返すのだ。よく晴れた日ざしが、室内に忍びこむ。

 過去の私はそのとき、ぼんやりと未来のことを思っていた。

 未来の私はなにを考えているだろう?と。

 熱海の小さな宿で。

 こうして同じ葉ずれの音を聞きながら目を閉じている自分のことを、想像はしていなかった。

 やっぱり。どんなに時間がたっても。

 私は私だなあと。そんなことを思った。本質的なところは変わらない。あの頃の私にもし、なにか伝えることがあるとしたら。

 素直になるってことだ。

 誰かへの意地のために、選択肢を狭めないでって言ってあげたい。余計な考えを全部捨てたら、自分が本当に求めてるものが見えてくるから。

 何にも考えないで、うとうとしていた。生産的なことなんてなんにもできず。起きているのか眠っているのか、半分起きていて、半分夢の中で。

 

 なんとも贅沢な時間だったけれど、癒された。

 音や匂いには、一瞬にして時間を超える効果がある。

 熱海で聞いた葉ずれの音に、過去の幻をみた休日だった。

スーザン・ボイルさんの歌声

 歌い手によって、曲の印象が全く変わってしまう、というのを体感しました。

 レ・ミゼラブルの「夢やぶれて」です。

 Britain’s Got Talent というオーデション番組で、審査員3人から、文句なしの合格をもらったスーザン・ボイルさん、47歳。

 見かけは、本当に普通の、どこにでもいそうなおばちゃんなのです。その番組に出演し、舞台の上に立ったとき、審査員だけでなく観客の反応も冷ややかなものでした。どうせ、不合格に決まってる、みたいな。

 まして、何を歌うのかと聞かれて、“I dreamed a dream” ですもん。この難曲を歌い上げることが、この素人のおばちゃんにできるはずがない。会場にいる誰もが、そう考えているようでした。

 でも、おばちゃんは全く動じません。会場の、どこか馬鹿にしたような雰囲気の中でも、卑屈になることなく、まっすぐ前を見ています。

 そして曲が流れ、スーザンさんの声が流れ始めたその瞬間! 誰もが息をのんだのです。私もです。目の前にいるこの人から、この声が出ているのか? それが信じられなくて、ただ呆然と、彼女の表情を見ていました。

 声は、20代の女性のものに思えました。それほど若く、力強いものでした。どよめく会場にも、スーザンさんは全く動じません。ただ淡々と、自分の信じる歌を、自分の歌を、歌い上げるのでした。

 審査員の顔つきが、豹変するのが見ものです。どうせたいしたことはないだろう、と鼻で笑っていたようなその顔が、見る間に、「本物を見た」という恍惚の表情に変わるのです。

 尊敬と、憧れが見てとれます。心を動かす存在を前に、ただ、敬服するしかないのです。特に、サイモンという毒舌で有名な審査員が、笑顔になるのがすごいんですよね。この方は、アメリカン・アイドルという番組でも審査員をしていて、すっごく厳しい批評で有名なんです。

 審査員なんだから、お世辞ばかり言っていられないのもたしかなんですけどね。見てる方が「もう少しオブラートに包んだ言い方をしてあげればいいのに」と同情してしまうくらい、思ったことをポンポン、遠慮なく言ってしまうという。

 アメリカン・アイドルを見ていた方ならわかると思うんですが、過去にはサイモンがあまりにひどい言い方をするので、他の審査員がたしなめることもあったり。

 そのサイモンが、笑ってるんです。とても満足そうに。こんな風に笑うサイモンを、初めて見ました。お世辞を言わないサイモンですから、本当に素直に、スーザンさんの歌が気に入ったんだと思います。

 私はレ・ミゼラブルという舞台を何度も見ましたが、そのときには、あんまりこの“I dreamed a dream” (邦題は「夢やぶれて」)という曲、ここまで綺麗な曲だとは思わなかったんですよね。落ちぶれた我が身を嘆くファンティーヌの、哀しみが伝わってくる曲だ、とは思いましたけど。

 綺麗だとか、優しい、とか、癒されるとか。

 レミゼの舞台のときには、全く抱かなかった感情がわいたのです。

 歌詞は、本当に悲劇なんですが。でもスーザンさんの声が伝えるものは、どこまでも優しい、まるで天上から降る音楽のようで。

 こんなに美しい曲だったんだなあと、その印象の違いに驚きました。そして、曲の途中で、スーザンさんがにっこり笑って、うなずくんですよね。その姿が、なんだか女神様みたいだなあって思いました。いいのよって、言ってくれているような。なんだか、自分の抱えてる全てのものを認めてくれて、許してくれて、いいのよって、そういってくれているようで。

 歌詞は全然、そんな歌詞じゃないんですけどね。

 でもその瞬間、本当に慈愛の表情で、うなずいてくれるスーザンさんの姿に、癒されました。

 震えながら消えていく、最後の音。

 スタンディングオベーション。会場に広がる興奮がリアルに伝わってきて、胸がいっぱいになりました。

 スーザンさんは47歳。未婚で、無職で、猫と一緒に暮らしていて。芸能人という容姿ではなく、どこにでもいる街中のおばちゃんで。

 この声、会場を熱狂させるだけの才能を持ちながら、誰にも見出されることなくひっそりと生きていたその人生を思いました。舞台上に初めて姿を見せたときの、あの、会場の蔑んだような空気は、今までの人生にもきっと、ずっとあったものなんだろうなあと。

 審査員の一人アマンダも、歌う前の会場の空気を指して、“I know everybody was against you”という言い方をしていました。against という言葉に含まれる強い響きは、そのままスーザンさんが生きてきた道のりに、重なるものがあったのかなと思いました。

 それでも、スーザンさんは全然、卑屈じゃなかったのです。自分に自信を持つ姿は美しいです。決して傲慢になることなく、かといって、卑下することもなく。私は私。その強さが、全身からあふれていたような気がします。会場の雰囲気がどう変わろうとも、内側にあふれる自分自身への信頼感は、決して揺らがなかった。

 歌い始めから最後まで、一貫してブレがありませんでした。

 だから、みんな聴き惚れたんだと思います。それはスーザンさんの世界だったから。みんながそれに飲み込まれて、スーザンさんの内面世界を垣間見たような。

 さっそくCNNのラリーキングライブに、ゲストとして呼ばれたスーザンさん。司会のラリーに、「髪形や服装、スタイルは変えるのか?」と問われて、「なぜそんなことをしなければならないの?」と、あっさり切り返していました。

 たしかに、スーザンさんが舞台で着ていたベージュ?金?のドレス、とっても似合ってた。

 スーザンさんが急に、まるでハリウッド女優のように大変身したら、きっと彼女固有の魅力は、薄れてしまうでしょう。

 ラリーキングライブに出ていたときの服装も、なにげない装いではありましたが、お洒落でしたね。落ち着いた茶色が、白い肌を引き立てていて。落ち着いた色だからこそ、大振りのネックレスが華美にならずに、ちょうどいいバランスだったような。

 その人にはその人にしか出せない美しさがある、そう思いました。

 スーザンさんの歌には、悲愴感がなかったです。

 まるでどこまでも、夢の世界のようで。歌詞にある“hell”(地獄)という激しい言葉も、スーザンさんの声にかかれば、淡い色彩の、夢の出来事だった。

 この日のために、この日の輝きのために、全部必要なものだったのかな?と思いました。スーザンさんが生きてきたその全ての、どれが欠けてもこの日はなかった。

 まるで魔法のような瞬間です。 

 この曲でなければ、これほどの感動はなかったでしょうし。その日のスーザンさんの服装も、声も、表情も。

 審査員も、会場の観客も、その全てが絶妙のバランスだった、と思います。

 レミゼを観にいって、聴き慣れたはずのその曲が。歌い手と場所によって、こんなにも印象を変えるのだと、それは新鮮な驚きでした。 

行く春に

 お昼休みにビルの外へ出たら、今にも降りだしそうな暗い空。その光の加減と、嵐の前のような静けさに、ふと胸を衝かれた。実際には、街には人のざわめきと車のエンジン音が、いつものようにあふれているのだけれど。

 まるでチャンネルを切り替えたみたいに、聞こえてるけど、聞こえてない、みたいな。日常の音はそこにあるけど、まるで別の次元にある、他人事のようだった。

 そんなことより、この暗い空。

 雨を予感させる灰色の雲。懐かしい胸の痛み。

 雷が鳴るんじゃないかと予感するほどに、辺りを支配する不穏な空気。

 ああ、あのときもこんな雲の色だった。

 雨が降り出すのを、軒下で眺めてたなあ、と思い出す。

 こういう感覚、好きなのである。痛いんだけど、嫌いじゃない。どこかでワクワクしている自分がいる。

 ときどきあるこの感覚は、本当に不思議だ。

 それは音楽だったり小説の一節だったり、誰かの語る言葉だったり。たまたま通りすがり、見かけただけの建物の佇まいにも、同じ刺激を受けることがある。

 郷愁というのが、一番正しい表現なのかなあ。ノスタルジィ。甘くて苦くて、時間も場所も全部、超越してしまうような感覚。

 そして、いつもと全然違う(ように私には見えた)街を歩き始めてすぐ、雨が降り始めた。最初は遠慮がちに、そしてすぐ、激しく叩きつけるように。

 道路に積もる細かな埃が舞い上がり、そしてまた、空中の雨に絡み取られて落ちる。独特の匂いがたちこめる。

 ああ、この匂いも好き。暗い空と、激しい雨と、降り始めだからこその、この埃臭さと。

 雨音は究極のヒーリングミュージックだと思う。

 信号待ちのとき、数秒間目を閉じて耳を澄ませた。傘を打つ雨の音が近い。

 雨が降っても、もう刺すような冷たさはなくて。冬は終わったのだと実感した。生温かいような空気。この雨で桜はほぼ完全に散って、また季節は動いていくんだなあ。陽光の桜の季節は終わり、すぐに新緑の眩しい、初夏がやってくる。

 今年は絶好のお花見ポイントを見つけたので、昼休みには毎日のようにお花見を楽しんだ。あんまり人もいないから、ゆっくりできる場所だ。

 一番よかったのは、散り始めの頃。よく晴れた日。ぼーっとしながら、座って桜を見てた。桜と、その向こうに見える青い空と。公園は学校に隣接していて、吹奏楽部の演奏がBGM。

 今演奏している生徒たちも、数年経てばこの学校を卒業し、ここにはいなくなる。それでも桜は、同じように咲くんだろうなあ。

 強風ではないけれど、風が吹くたびに花は、どうしようもなくこぼれ落ちた。そんなに急いで散らなくてもいいのに。花が次から次へ、音もなく舞い落ちるさまは本当に綺麗だった。それで私は、宇宙の始まりについて考えたりした。

 連続して、一つの物事が次の事象を引き起こすなら、その始まりはいったいなんだろう? 絶対的な無からはなにも生まれない。なにも変わらない。変化し続けるこの世界の始まりは、いったいなんだろうか。変化の始まりなど、あるのだろうか? 変化の向こう側にあったものとは、いったいなんだろうか。

 そもそも、こうして考えている今の私を生み出したものとは、何なのだろう???

 古来、桜を読んだ歌はたくさんあるけれど。

 万葉集の桜児(さくらこ)の話など、一見美談のようでいて、実はそうでもないなあと思った。

 昔、桜児という娘がいて、二人の男がどちらも彼女に惚れてしまう。二人が争うのを悲しんだ桜児は、「私が死ねば、争いはなくなる」と自ら命を絶つ。

 残された二人の男は、それぞれに彼女の死を悲しむ歌を詠んだ。

 私が男なら。彼女の傲慢さに唖然とするだろう。桜を偲ぶ歌を詠むことは、なかったかもしれない。だって、「彼女はただ選べばよかった」のに。なぜ選ぶことすらせず、気持ちを明らかにすることもなく、死んで解決をはかろうなどと愚かなことをしたのだろう。どちらを選ぶのも自由で、どちらを選ばないのもまた自由で。

 彼女が下した決断を、きっと、二人は受け入れただろうに。

 

 結局彼女は、二人をある意味、「どうせわかってくれない」相手だと思いこんでいたのではないかと。私が残された男の一人なら、ショックだ。彼女がいなくなったこともそうだが、それ以上に、自分はそこまで信頼されていなかったのかと嘆くだろう。

 そして、愛した人は、自分の心が作り上げた幻だったと知るだろう。「二人の人に愛された。争うのを見るのは嫌」そんな理由で死を選ぶような人だとわかっていたら、きっと好きにはならなかっただろうなあ。

 毎年桜の季節が来ると、去年はどう過ごしていたんだっけ?と思う。そして、ああ、また1年が経ったなあと思う。

水仙の芳香に包まれて

 水仙と菜の花の花束をもらいました。部屋の中はすっかり春になっています。

 水仙は部屋に、菜の花は台所に飾りました。

 菜の花の明るい黄色は、キッチンの片隅がよく似合う。大量の水仙は、部屋で眺めていたいなあと思ったので、クリスタルの花瓶にざっくり生ける。

 ちょっと壮観。水仙をこんなに飾ったのは初めてのことかもしれない。

 そして部屋中に満ちる芳香!!

 正直、水仙をもらったときは「あんまり好きな花じゃないのになあ」なんて思ってしまったのも確かで。そもそも、水仙の匂いは苦手な部類だった。

 なのに、漂い始めたその香りを吸い込んだとたん、アレ?と頭の中をはてなマークが飛び交う。

 あれ、この香り、私好きかもしれない。なんだか落ち着く。いつまでも、その中にいたい気持ちになる。穏やかな、優しい気持ちになる。

 昔は苦手だった水仙に、これほど心癒されるとは。

 好みは一貫したものでなく、そのときそのとき、少しずつ変化していくものなのだなあと、感動を覚えたのでした。

 週末は、2つの展示会に出かけた。

 まずはウィリアム・モリス。モリスのデザインには心惹かれる。多くのデザイン画を残し、アーツ・アンド・クラフト運動の源となった人。東京都美術館で、「生活と芸術 アーツ&クラフツ展 ウィリアム・モリスから民芸まで」が開催されているというので、さっそく足を運んだ。

 これは、まず今回の宣伝のポスターがよかった。黒く、切り絵のような文字が「ARTS & CRAFTS」と、どーんと真ん中に描かれている。それだけでも、インパクトがあるのに、こんな言葉まで添えられている。

 「役にたたないもの、美しいと思わないものを家に置いてはならない。」

 この言葉を選んだセンスに、敬意を表する。まさにこれが、モリスを表現するにふさわしい言葉なんだろうなあ。

 

 日常の中に、芸術を取り入れようとするモリスの思想。手工芸のよさを訴え、大量生産で質の低下した製品を憂い、美を追求し続けた彼の思想は、うねりのように時を越え国を越え、広がっていった。

 身近にあるもの、いつも目に触れるものだからこそ、日常の品には気を配るべきなのかもしれないと思う。いかに自分の心が喜ぶものを、傍に置くか。毎日のことだからこそ、その品がその人を表し、生活を支配することにもなる。

 先月には汐留ミュージアムで開催された「アーツ・アンド・クラフツ展 −イギリス・アメリカ−」を見に行ったのだけど、このときに印象に残ったのは、「ローレライ」と題されたアルトゥス・ヴァン・ブリッグル作の小さな花瓶。色も地味だし、特別変わった形でもないのだが、よーく目を凝らしてみると浮かび上がるのだ。ローレライが。花瓶の表面に!

 花瓶の表面ある微妙な凹凸が、ローレライを表していて、一度それに気付くと、その繊細な表現にただただ、ため息をつくばかり。いろんな角度から、しげしげと眺めた。

 曲線だけでローレライを表現する。抽象的だからこそ、いくらでも美しい姿を想像することができるし、その瞬間ごとに違った像を描くことにもなる。

 花瓶の口を、ローレライの腕がちょうど、抱きしめたような形になっていた。本当はどうなのかわからないけど、私には二つの腕が、花瓶の縁に沿うような形に見えて、その曲線がいいなあと思った。

 こういう花瓶を、そっと飾ってみたい。

 誰も気付かないんだけど、実はローレライが宿っているという地味な花瓶。

 汐留ミュージアムで見た「アーツ・アンド・クラフツ展」では他にも、デザート用の小布(たぶん、食器の下に敷く布だと思う)がよかった。一見、なんの変哲もない白い布だけど、よく見ると僅かに色の違う、質の違う糸で、ちゃんと模様が織り込まれているという。

 デザートを出されたお客さんの、誰が気がつくのかな?とか、そんなことを想像するのも楽しい。

 東京都美術館の展示では、一番よかったのが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのステンドグラス。聖なる雰囲気に、身が清められるような心地がした。いつまでもそのステンドグラスを見上げていたいような、祈りを捧げたいような気持ちになった。

 週末、もう一つ出かけた展示会が、三井記念美術館の「三井家のおひなさま」である。私はお人形が好きなので、どんなお人形に出会えるのだろうと、かなりの期待をして出かけた。

 まずなにより、三井記念美術館の建物自体、雰囲気が抜群なのである。美術館は7階に位置しているのだが、そこへ向かうためのエレベーターが、レトロで素晴らしい。エレベーターの現在位置を知らせるのは、アナログの表示板。いざ扉が開き乗り込めば、なんと壁は木製。

 展示会場の、重厚な洋館の雰囲気。展示室1と2の、少し暗めの光の加減なども素敵だったなあ。

 おひなさまの展示室4は、他の部屋に比べて明るい照明だと思った。人形の顔や装束がよく見える配慮が嬉しい。お人形の展示、それもおひなさまは、やはり明るめが似合う。障子越しに差し込む春の陽光が、一番似合うお人形だもの。

 私が惹かれたお人形は、北三井家十代・高棟さんの最初の妻となった、貴登さんの内裏雛。古今雛の流れをくむというその顔立ちや、雰囲気がいいなあと。昔は、お嫁入りして最初に迎える桃の節句に、新妻のためにおひなさまを誂える風習があったのだという。女雛の宝冠、瓔珞が豪華だ。

 年表を見ると貴登さんは、17歳でお嫁入りしている。そして25歳で亡くなってしまう。どんな気持ちで、結婚式を迎えたのだろう。広いお屋敷の中、どんな気持ちで、この人形を見つめたのだろう。

 なんだかこの内裏雛には、貴登さんの心が残っているような気がして、不思議な気持ちになった。

 その他に心に残った人形は、風俗衣装人形の中の、「御殿女中」。細い目、凛とした佇まい、プライドが透けて見えるような、リアルな息遣いを感じた。黒の着物がきりりと美しい。うかつに手を伸ばせば、即座にぴしゃりと撥ねつけられそうな。

 この人形を真夜中に、お屋敷の廊下にそっと置いたなら。当たり前のように、すっすと歩き始めるかもしれないと思った。

 春はそこまで来ていて。ひなまつりに関連した展示があちこちで開かれているのが嬉しい。充実した週末を過ごすことができた。