花束の夢

 こんな夢をみた。

 目線よりも高い位置、クリスタルの大きな花瓶にざっくりと活けられた大きな花束。赤白黄色、入り乱れたその色彩がとても美しかった。私はうっとりそれを見つめていた。

 そのとき気付く。

 そうだ、水を換えてあげてない。もう3日くらいほったらかしだ。

 花は、毎日水を換えなければすぐに元気をなくす。それに時々は茎先も切って、切り口を新しくする必要がある。それなのに私はなにもしていなかった。

 しかし目の前の花は生命力にあふれて、まるで手を伸ばすかのように私の目の前に葉を伸ばしている。なにも手を加えていないのに、この元気さといったらどうだろう。世話をしないほうが生き生きしてるなんて、私の今までの知識が間違っていたのだろうか。

 あんまりきれいだから、触ろうとして私が手を伸ばすと、なんと花がするすると縮み始めるではないか。私が触れようとしたのは、中でも一番きれいな黄色のアルストロメリア。斑は少し不気味だけど、その鮮やかな色は一際目を引いた。

 私の手から逃れるように、丈が短くなっただけじゃなかった。見る間に、花弁は茶色く変色し、萎れてしまった。まるで早送りの映画のように。

 まさかね。きっとなにかの偶然だろう。こんなことあり得ないから。

 そうして私が別の花に触れた瞬間、その花も小さくなり、色を変え、無残な姿を晒した。私が触れない花は、対照的にそのまま咲き乱れている。さすがに2度目ともなれば、それが私のせいだということは紛れもない事実で。

 「あの人が枯らせた!」

 すぐ横にいた誰かの、強い非難のこもった声に、言い訳できない。触っただけで花を駄目にするなんて、どんな怪物だよ・・・と自分でも思う。

 何か弁明しようとして、でもできなくて、途方に暮れたところで目が覚めた。

 起きて、あんまりいい気分じゃなかった。

 この頃思うのだけど、夢占いって夢の内容なんかみなくても、起きたときの気分で吉か凶かの判断はできるんじゃないだろうか。

 どんな荒唐無稽なものであれ、直感で気分の良し悪しはあるから。

 最初に見た花束の、鮮やかな色彩がとても印象的な夢だった。

ラピスとその日の夢

 ラピスのネックレスをしていたら、紐が切れた。革紐だから、切れても仕方ないとはいえ、なんだかガッカリ。石は無事なので、さっそくネックレスチェーンを買いにいった。

 今度は金属にしようと決める。その方が丈夫だから。お店でウロウロしてたら、店員のお姉さんが声をかけてきた。

「なにか、お探しですか」

 綺麗で優しそうな人。私のテンションはいきなり上がった。

 こういうのも、運の一つというか。その日会う人がどんな人かで、自分の立ち位置が決まったりすることがある。ツイてる一日は、最初から最後まで、ツイてる。そんなものである。

 お姉さんは色白な人で、胸元にも両手指にも、銀のアクセサリーをつけていて、それがとても似合う。私が買おうと思っていたのもシルバーだから、嬉しくなってしまう。

「石は持ってるので、チェーンの部分だけを探してるんです」

「そうですか。じゃあ、ちょっとあてて感じを試してみましょうか」

 お姉さんがためらわずにさっと持ってきたのは、なんと私が持っているのより一回り大きなラピスの石だった。そして、適当なチェーンをとり、その石にあてて見せてくれた。

「こんな感じになりますね。石だったら、こんな感じのチェーンが似合うと思います」

 偶然とはいえ、またまた私のテンションが上がる。だって、私の石もラピスだから。ラピスは汎用性があるのかな。お姉さんがためらいなくラピスを持ってきたのは、幸運の兆しかな。

 そんなウキウキ気分で、直感でコレと思ったいぶし仕上げのものを買った。銀のキラキラした光沢を、わざと消したもの。最初から、黒っぽくなっているのだが、石の質感には磨き上げた銀色の光よりも、この沈んだ黒色の方が合うような気がした。

 そして、その夜、夢をみた。

 グランドピアノの前に座っている。目の前にある譜面。練習していなくて、弾ける自信が全くない。すぐ後ろに待機している先生が、私に弾くようにと促した。

「できません。無理です」

「どうしてですか」

 ここで、夢の中の私は驚く。今までにも似た夢を何度もみたような気がするが、そのたびに許されてきたから。それ以上追及されることなんて、なかったような気がする。あれ、いつもと違う、と、違和感がわきあがるのを感じる。夢の中の先生は理由を問い詰めるので、私は曖昧にごまかすのは無理と悟り、正直に話す。

「すみません。練習してないんです。あと一日ください。一日あれば、ちゃんと弾けます」

「駄目です。いいから弾きなさい。それが今のあなたです。恥ずかしくても、今弾きなさい」

 先生の強い言葉に、覚悟を決めて弾き始める。不思議なことに、音が異常に小さくて周りにははっきり聞こえない。そのことに、ほっとする。間違った音を出しても、これなら目立たない。音が小さいのはピアノのせい。私はちゃんと弾いてるんだもの。

 だけどそのうち、ピアノの音は自然に大きくなった。私も少々間違えながらも、弾くことに慣れていった。曲は、ボロボロというほどひどい出来ではなかったから、自分でも安心した。これならまあ、許されるレベルかなと。ただ、楽譜は開いても開いても、なぜか折り目で閉じてしまうので、これには苦労した。

 弾き終えると先生は、こう評した。

「あのね、ピアノの上が汚い。ちゃんと片付けなさい」

 ピアノの上には、白いロープが散乱してる。私はそれを見て、ロープを綺麗に巻くんじゃなくて、ロープそのものを捨てなきゃ駄目だ、と確信する。どんなにきっちり巻いたとしても、ロープはロープ。ピアノの上に置けば、乱雑に見えてしまう。さあ、ロープを全部捨てよう。

 決意したところで目が覚めた。

 ラピスのおかげなのかなんなのか、意味深な夢をみたように思う。

 ピアノを弾くかどうかの葛藤がなにを指すのか、目が覚めたとき、自分の中ではよくわかっていた。それは、完璧主義からの脱却。

 完璧にならなければ動く自信がない、というのは昔からずっとそうだったな。それが許されないことのような気がしてた。だから、自分で納得するまでは動かない。周りがいくら、「大丈夫じゃない?」と促したとしても。

 まだ、完璧じゃない、そう決めて動かないのは、自分自身。明日にはもっと、上達するから。今日より明日のほうが、失敗する確率は低いから。そう思って、なかなか最初の一歩が踏み出せない。失敗するのが恐くて踏み出さなければ、傷つくこともないけど、でもなにひとつ変わらない。そしてまた一日が過ぎれば、「明日はもっと」と、永遠に来ない理想の未来に手を伸ばし続けるのだ。

 夢をみて勇気がわく、というのも変だけど。目が覚めたときに不思議と、納得している自分がいて。夢で教えられた通りに、考え方を変えてみようと思ったのだった。

ヤギの夢

 こんな夢をみた。

 ヤギがバスを引く夢である。一匹の白いヤギが、まるで牛車のごとくバスを引っ張っていた。私はその背中に手をあてる。

 そのときの手に感じた、ヤギの骨の感覚がすごくリアルで。皮下脂肪がないから、毛と皮の下はすぐに、骨にあたる感じでごつごつしてた。私はヤギの背を撫でていた。

 ヤギの毛は真っ白ではなくて。柔らかいというより固かった。どこにでもいるような、どこかでみたようなヤギだった。特別大きくもなく、小さくもなく。

 ヤギの引くバスを見送った後、そのバスに運転手がいないのに気付いて、慌てて追いかける。暴走するのでは?という恐れが頭をかすめたけど、心のどこかで、「大丈夫」と思っている自分がいた。結果、運転手がいないというのに、そのバスは進路を外れることもなく、静かに道の端に寄って停まった。

 場面は変わり、私は授業を受けている。

 

 またか、というほど繰り返しみる夢の一つ。学校の夢だ。いつも夢の中で、はて、私の年はいくつだったけ、と思うのだが、思考には曖昧な霧がかかっていて、答えは出ない。ただ、なんとなく学校に通ってる年じゃないよな、というのは自分でわかっているようだ。

 たくさんの人が学ぶ中、私も席について講義を受ける。

 講義が終わって、前方で騒ぎがおこっているのに気付く。

 ささいな勘違いから、暴れだした人がいるのだ。ある2人を殴りつけている。最初は腹立ちまぎれに軽く突いたりしていたのが、次第にその行為はエスカレートしていく。周囲は唖然として、ただ見ているだけ。誰もとめようとしない。

 次第に、その人は理性を失って、狂ったように暴れ始めた。それは私の知っている人だった。その人が、自分でもまずいと思いながら、行動にコントロールがきかなくなっていく様子がよくわかった。

 とめなきゃ。でもそこにいくまでに時間がかかる。周囲の人、とめてくれ、と心で叫びながら私は走っていく。

 遅かった。2人は床に倒れて、ショックのあまり動けなくなってる。肉体的な痛みや怪我というより、その人を理解できない恐怖でガタガタ震えてる。なぜ殴られてるのか、なぜその人の怒りが自分たちに向いているのか、わけのわからなさに脅えている。

 周囲の非難の目が、自分に突き刺さるのをやっと実感したその人が、「大変なことをしてしまった。なぜ自分はこんなことをしたのか」と、一転。今度は自分自身を、滅茶苦茶に責め始めたのがわかる。私は最初、理性を失ってしまったその人に同情してしまうのだが、床に倒れた2人の姿に息をのむ。

 あんまりにも可哀想すぎた。

 2人はただ泣くばかりだったが、ひどい傷を負っているのがわかった。起き上がることもできずに、無残な姿を晒していた。

 この2人の倒れた姿が、あまりにも鮮明で。

 目が覚めたとき、私の心臓は激しく鼓動していた。夢というよりは、さっき目の前で見た現実のようだった。

ローレンツ博士とバタフライ効果

カオス理論の提唱者、E・ローレンツ博士が、4月16日に90才で亡くなりました。
 ご冥福をお祈りいたします。

 私が以前、ブログでちょっと触れていた、蝶のはばたきの話。あの中に出てくる、私が読んだ本の著者が、このローレンツ博士の「バタフライ効果」を引用していました。あの本を読んでそんなに日が経たないうちに博士の訃報を聞いて、びっくりです。ちなみに「ジャングルの奥深く」というのは、私が読んだ本の著者の表現なので、ローレンツ博士が実際、そういう描写をしていたわけではありません。

 バタフライ効果。ブラジルでチョウが羽ばたくと、それが米テキサス州で竜巻を引き起こすという話。

 初期値の違いが、複雑な計算の結果には大きな影響を及ぼす、ということをわかりやすく例えたものだそうです。

 あらためて、人の運命について考えこんでしまいました。

 逆に言えば、1つも間違いのないデータで計算すれば、結果は出るってことですよね。1つも間違いのないデータ。1つも間違いのない計算。そんなものが可能であるかどうか、どれだけ時間がかかるか、どれだけのコンピュータを必要とするか、そういうことを全部無視したならば。

 なにもかもわかる。
 粛々と、決められた通りに進行していく。
 そこにはなにひとつ、不確定要素なんて存在しない。

 でも、実際には必要なデータが膨大すぎて。それを計算するなんて複雑すぎて。世界がどう動くかなんて、それがわかる人は誰もいない。物事の流れが決まっているのに、それをわかる人がいないなら、物事の流れは決まっていないのと同じこと?

 ここで唐突に、鬼束ちひろさんの歌う『流星群』の歌詞を思い浮かべてしまいました。

>貴方が触れない私なら無いのと同じだから

 この曲を初めて聴いたとき、不思議な感慨にとらわれてしまって。

 いくら存在しても、意味を見出せないなら、無いのと同じなのかなあと。たしかに、ただ存在するだけで、与える影響がゼロなら、無いのとどう違いがあるかって話なんです。影響することで、伝わることで、初めて存在が証明される?

 でもきっと、存在するだけで、ゼロってことはありえない。無で、同時に有だなんて、そんなの矛盾してる。どんなに小さくても、そこに存在するだけで、周りはその存在に影響を受ける。

 しかし同時に、あまりにも小さすぎる動きに、なんの意味があるのかっていうのもまた、わかる話で。たとえば私が空を見上げる一連の動作に、足元のアリが、右方向へ歩くか、左方向へ歩くか。それが、実際問題どんな影響を与えるというのか。

 ビッグバンが起こった瞬間に、この世のすべては決まっていたのだという説がありますね。つきつめてしまえば、そういうことなのかなあと。ただし、これを信じてしまえば、すべての努力が無駄になってしまうし、自由意志など存在しない。
 しかしその一方で、安らぎを覚えてしまう自分がいたり。

 
 そういえば薬師丸ひろ子さんの歌に、こんな一節がありました。『 Woman~Wの悲劇より 』です。

>ああ時の河を渡る船に
>オールはない 流されてく

 
 櫂のない船で、大海原を漂っている。
 そう考えると、気が楽になる部分もあって。責任がなくなる。

 たとえば自分の行動に、罪悪感を感じて落ち込んだ夜も。波に揺られる船に、なにができただろうかと考えると、気持ちが軽くなる。船はただ、波に運ばれていくだけだから。自由意志なんて、どこまで自由意志でありえるだろう。

 深く深くつきつめて考えていくと、確かなものはいったいなんだろうって話になってきます。過去は過去。だけどそれをありありと思い出すとき、それは現在とも言えるわけで。だって映像も、音も現実と同じ位に甦るし、それに触れた自分の感情も、当時と同じように、揺れるわけで。同じように反応している。
 現実に今、目の前にあるから、ないからという話じゃないんですよね。要は、自分の心が、勝手に反応してしまうから。

 感情こそが、真のバロメーターだっていう説、以前に本で読んだことがあります。感情バロメーターほど頼れる存在はないと。理屈でも条件でもなく、ピンとくる感覚。

 そして、繰り返しみる夢の世界。これも不思議。もうとっくに取り壊されている建物も、夢の中では当時のまま、それに全く矛盾を感じない自分て、なんなんだろうか。夢の中の自分は、存在意義に対する疑念なんてちっとも感じていない。

 夢の中では、同じことを繰り返しているのも謎です。後悔があって、別の行動をすればよかったと思うなら、せめて夢の中では思うままに、やってみればいいのに。昔と同じことをして、そこに意味はあるんだろうか。だけど夢の中の自分には、選択肢がありません。決められた状況に、決められた動作を繰り返すだけ。枠の外に飛び出す勇気なんて、ないのです。

 ローレンツ博士死去のニュースに、あらためていろんなことを考えたのでした。

夜の風景

 素敵な夢をみた。ある一軒家のカギを渡される夢である。「自由に使っていい」と言われて、大喜びする。月光の中に浮かび上がるその家は、荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 門扉の向こうには庭もあり、植物を眺めながら月光浴ができそうだった。そこは静まり返った空間で、ゆっくりと寛げそうで、そのことがとても嬉しかった。

 その家に入り、再びカギを閉めてしまえば、もう本当にひとりきりで、誰に煩わされることもない。

 渡されたカギを握り締めると、ほんのり冷たく。その冷たさがまた、心地よくて。カギを握り締めて、私はその家を見上げていた。外から見ただけでも、その内部のしんとした空気が伝わってきてワクワクした。

 中に入る前に、目が覚めてしまったのは残念。せっかくだから、内部の探検もしたかった。

 山に行って、誰もいない場所でぼーっとしたいと思うから、こんな夢をみるんだろうか。

 夜の風景といえば、今でも印象深いのは、アメリカで見た、グリフィス天文台へ向かう途中の道から眺めた街の夜景。

 天文台での思い出より、そのとき車の窓から見た景色の方がずっと鮮明に、記憶に焼きついている。

 夜景スポットはたくさんあるし、それから数えきれないほどの夜景を見たけど、あれを超える景色に出会ったことはない。はっと、胸をつかれるというのは、ああいうことなんだろうと思う。うわあっと思って、ただ見ていた。ずっと。

 そしてあれから何年たっても、ときどき思い出すのだ。

 なにも劇的なドラマがあったわけでもなく。別に恋人とドライブしていたわけでもない。私の目に映った灯りは、その一つ一つが人生を感じさせて、飽きもせず言葉もなく、ただ眺めていたのだ。

 またあの、グリフィス天文台へ向かう道を、いつか車で行くことがあるんだろうか。そのとき自分の胸には、どんな思いが去来するのだろう。