ダンス・オブ・ヴァンパイア観劇記 その10

 7月17日ソワレ。帝国劇場でダンス・オブ・ヴァンパイアを観劇しました。以下、ネタバレを含んだ感想ですので、舞台を未見の方はご注意ください。

 毎日のように見ているのに、行く度に心が激しく揺さぶられる舞台。私の周囲の山口ファンの間では、評価が真っ二つに分かれている。

 私はこのテイストが大好き。なにより、音楽が素晴らしいと思う。伯爵登場シーンはほとんど歌詞を覚えたのだが、今日は山口さんが作詞をした箇所を発見。一幕最後で、「悲しみさえも至福に変わるのだ」を「不幸さえも」と歌っていた。それが、あまりにも堂々と歌っているものだから、初見だったら絶対気付かないと思う。そういうところプロだなあ。全く動揺を見せずに歌いきっていた。

 いつもと違うといえば、「昼間は何にもできません」というところ、普段は妙なアクセントをつけて言うので笑いがおきるんだけど、今日は普通にしゃべっていたので客席の反応はなし。アクセントに慣れた観客には、違和感があったと思う。あれには山口さんの意思を感じた。うっかり忘れたとかじゃないと思うな。あの台詞はたぶんアクセント込みで覚えていると思うので、それを普通の調子に戻したということは、山口さんなりの演技プランがあったのか。

 笑いではなく、挑発的な空気を醸し出すことを意図したのかなと思う。その後すぐ、アルフレートを誘惑するシーンにつながるから。

 あの誘惑シーン。伯爵がアルフレートに苛立ちを感じているのが伝わってきた。ドジなアルフ、ほわ~んとしてなにも考えていなそうなアルフに鋭く迫るところを見ると、伯爵は過去の自分をそこに見ているんだろうか。自分の道を行くがいい、とか、夢は成長すれば叶うから、とか、伯爵がアルフに語るのを聞いていると、まるで自分が言われているような気持ちにもなる。

 激しくつめよって、次の瞬間には甘く囁いて、さすが伯爵です。アルフならたやすく洗脳されてしまいそう。歌詞を聴いていると、けっこういいこと言っているんだよね。

 一幕最後のロングトーンは相変わらずこれでもかとばかりに広がって、その間私は、ひたすら息を吸い続ける。なんとなく。しかしこの肺活量はすごすぎ。どこに空気をためているんだろうと思う。帝国劇場のような広い空間にあれだけ声を響かせることができる人って、やはり天性のものがある。これは努力ではどうしようもない部分だと思う。ただただ、聞きほれてしまう。

 伯爵登場シーンの「私は祈り 堕落をもたらす 救いを与え 破滅へ導く」この部分が好きだ。美しくて明るい、壮大な光景がぱーっと目の前に広がる気がする。海を見下ろす崖の上で、伯爵が歌ってるような。だけど、歌ってる内容は滅茶苦茶悲劇。

 祈ることで人を堕落させ、誰かを救うことで結果的に破滅させてしまうのは、吸血鬼だから?だとしたら伯爵は、もう開き直って悪者になるしかないよなあ。もう、すがすがしいほどの諦めの歌ではないですか。そしてわが身を悪だと歌う伯爵が、なぜか神々しく見えてしまう。背筋を伸ばし、まっすぐに前を見て歌う伯爵の威厳に、気圧されてしまう。

 この作品を見ていると、自分の中の感情が揺り動かされて、変化していくのがわかります。自分が変わっていくのを感じる。大好きです。

ダンス・オブ・ヴァンパイア観劇記 その9

 7月15日ソワレ 帝国劇場で『ダンス・オブ・ヴァンパイア』を見てきました。8度目の観劇です。以下、ネタバレも含んでいますので未見の方はご注意ください。

 

 今までで一番感動した回でした。って、いつもそんなことを言っているような気もしますが、本当なのです。それだけ進化しているのでしょうか。『抑えがたい欲望』で、伯爵の思いがひたひたと体中を包み込んで、動けなくなりました。そしてそのまま、拍手もできませんでした。あまりにも感動してしまって、動くことすらできずに、余韻に浸っていました。その状態が、そのままサラ噛み付きシーン、そして舞踏会の始まりまで続きました。

 

 実はその日劇場で、マチネを見た友人に会った際、「祐一郎さん、ちょっと声の調子が悪かった」という報告を受けていたのです。だから、「そうかー、今日はちょっとお疲れの日なのか」と残念に思っていたのですが、とんでもない。ソワレには見事に復活です。それにしても山口ファンは、歌の調子に関しては厳しいのかも。別の友人も、後で「マチネは変だった。あれは手抜きだ」と断言していたので。手抜きってことはないと思いますけどね。舞台に臨む姿勢は人一倍厳しい人だと思うので。調子が悪いことはあっても、手を抜くことはありえない。千秋楽まで力の配分に気をつけて走り抜ける慎重さはあるだろうけど。

 山口ファンは、ほんのちょっとした変化にも敏感なんでしょう。何度も通う人が多いから。

 私が聴いた限りでは、ソワレは最高でした。

 伯爵は伯爵としてそこに存在していて、孤独の影をひきずっていました。サラやアルフの前では完璧な悪を演じる一方で、独りになったときにみせる本音がせつない。

 吸血鬼同士でもわかりあえないんだろうなあと思いました。仲間をいくら増やしても、伯爵と深いところで分かり合える人はいなくて、だからいつまでたっても独りぼっち。墓場で仲間達と「人間を倒そう」とワイワイ盛り上がるようなこともなく、ただ冷めた目で世界を見つめている。月のない闇夜に一人になったときだけ、素直な気持ちで過去を振り返る。

 伯爵は、教授たちが城にやってきたとき、本当に嬉しかったんだと思います。輝く髪の娘をなぜ失わなければならなかったのか、その謎を教授が解いてくれるのではないかと、どこかで期待する気持ちがあったんではないでしょうか。何万冊もある本の前で狂喜乱舞する教授の姿を見ると、なんとなく私はせつない気持ちになるのです。過去に、伯爵は恐らく必死で本を読みあさったんだろうなあと、その姿が想像できるから。時間だけはたっぷりあります。輝く髪の娘を失った後、その理由を、答えを捜し求めて、伯爵は書庫で膨大な資料を丹念に読み込んでいったのではないでしょうか。

 あの本の山は、その遺産に思えてならないのです。

 その遺産の前で、無邪気に喜ぶ教授・・・・幸せな人です。

 「抑えがたい欲望」の中で、「この私がわからない自分でさえ」と嘆くのは、一番知りたいことがわからない伯爵の悲鳴だと思いました。救いを求めてる。どれだけ時間をかけても、すべての本を読みつくしても、謎は解けなかった。その絶望の果てが、神を否定することだったのでは、と思うのです。

 だけど救いを求める気持ちは完全に消去できないし、人間としての良心もある。だから十字架への恐怖は続く。それは心の奥底で、神様を信じているから。

 コウモリの研究を愛読していた伯爵は、教授の論理的思考に期待していたでしょう。もしも教授と通じ合えたなら、吸血鬼となった自分の謎を解くことができるかもしれないと。そうすれば、あの娘を失わねばならなかった運命を、受け入れることができます。

 ところが教授とアルフは、あくまで吸血鬼退治が目的。手を組める隙などどこにもありません。コウモリとなって屋上に現れた伯爵は、期待していた分、怒りが倍増したんではないかと思います。

 期待は、ときに重荷ですね。夢なんてみなければ、落胆せずにすんだのに。教授に絶望し、アルフを誘惑する伯爵の歌が大迫力です。余裕と自信に満ちて、圧倒的な攻めの構え。威厳にみちて、堂々の存在感。うっとりと聞きほれました。 

ダンス・オブ・ヴァンパイア観劇記 その8

 7月14日マチネ サラ:剱持たまきさん アルフレート:泉見洋平さん

 帝国劇場で『ダンス・オブ・ヴァンパイア』を見てきました。以下、ネタバレを含んでいますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 

 やっぱりたまきサラは声がいいなあ、と思ったのでした。女性を感じさせない声というか、エロくない。ここは大事です。サラが色っぽすぎたら嫌です。色っぽさが過ぎると、伯爵が城に招く意味がなくなってしまう。サラは透明感があって清純なイメージ。だから中性的な魅力がいいなあと思います。剱持さんの声は清潔感があって好感が持てますね。ちょっと現実離れした感じで、遠い世界の人のよう。

 

 泉見アルフは、常に一生懸命。人間味を感じました。

 最後まで成長しない駄目男っぷりも笑えます。これ、絶対成長物語なんかじゃない、成長できない少年の物語です。志は立派だけど、全く結果が伴ってない。サラを守りたいのなら、もっと強くならなくては。吸血鬼に杭を打てず、逃げ出すタイミングさえ逃してしまうアルフの弱さ。サラとアルフは手をとって新しい世界に駆け出したけれど、賑やかな街に着いたらすぐに、サラは別の相手をみつけるだろうな。

 伯爵の誘惑の歌は、相変わらず魅力的でした。

 「それで満足か?」「教えこまれただろう、欲望は罪だと」「肌は衰える、満足なはずはない」詞の一部だけ書き出すと過激な感じですが、あの舞台の中だとどこか違う世界の物語みたいで、生々しくないのです。臨場感はあるけれど、それが美しくてうっとりするほど魅力的。下品にならずにこの歌を歌えるのは、山口さんだから。これ、別の人が歌ったら全然違う感じに聞こえると思う。

 コウモリでの伯爵登場シーンはあくまで優しく。怖くはないと囁きながら、甘い言葉でサラを誘惑します。そしてサラの動揺を見透かしたように、今度は激しく揺さぶりをかける。緩急使い分けた伯爵の言葉に、どうして抗うことなどできるでしょう。サラが急速に伯爵に惹かれて行くのがわかります。後はきっかけさえあれば、自ら鳥かごを飛び出すはず。計画の通り。伯爵にとって、サラを手に入れるのはたやすいこと。余裕たっぷりです。

 伯爵がサラを獲物としてしか見ていないのは、血を吸った後の舞踏会の素っ気無さでわかります。首をわずかに傾けてサラに微笑みかける伯爵はとてもキュートなのですが、その後のダンスは驚くほどあっさり。単純な振り、平凡な音楽。退屈な日常を表しているのでしょうか。祭りが終われば、また同じことの繰り返し。永遠の時間が流れていくだけとは、こういうことなのかと思いました。

 血を吸うまでがクライマックスであり、その過程が吸血鬼にとっての喜びであり、後はもう興味もない。そんな空気を感じました。

 それは、サラも同じことだったのではないかなあと思います。見たこともない、華やかな異世界への憧れ。素敵なドレス、舞踏会、永遠を生きる伯爵への興味。しかしいったん手に入れてしまえば輝きは急速に失せてしまう。また新たな刺激が欲しくなる。

 サラが伯爵を本当に愛していたのなら、最後、アルフと一緒に逃げ出すことはなかっただろうなあと思います。サラは、見知らぬ世界に恋していただけ。だから伯爵の誘いで家を飛び出したけれど、それはきっかけにすぎない。お城では満足できない。もっと、もっと広い世界へ。サラもまた、尽きない欲望の虜になったのですね。満たされることがなければ、常に飢えるだけ。

 屋上にいる教授とアルフのところに現れる伯爵。このときの歌、大好きです。伯爵の、余裕たっぷり皮肉な声がたまりません。何から何までお膳立てる必要はないのですね。堕ちるのには、きっかけさえあればいい。ほんの少し背中を押せば、ほんの少し夢をみせれば、人間はたやすく堕落してしまうのかもしれません。後は勝手に、坂を転がり落ちていく。

 このミュージカルの曲は、まさに山口さんのために書かれたような曲だなあと思いました。伯爵役、似合いすぎです。他に誰が演じられるか、想像もつきません。あのオールバック、冷たい目、襟元の羽、大きなマント、裏地のシックな赤。歩く姿は威厳があふれていて、孤独で、さしのべる手をはねつけるような厳しさを持っていて。

 別に山口ファンだからというわけではなく、本当にこの役は合っていると思いました。魅力的です。

ダンス・オブ・ヴァンパイア観劇記 その7

 ダンス・オブ・ヴァンパイアを帝劇で見ました。これで計6回観劇したことになります。

 7月12日ソワレ1Fセンター後方 サラ:大塚ちひろさん アルフレート:浦井健治さん

 7月13日ソワレ1Fセンター後方 サラ:剱持たまきさん アルフレート:浦井健治さん

 以下、ネタバレも含む感想ですので、舞台を未見の方はご注意ください。

  

 2日連続で見てきました。『ダンス・オブ・ヴァンパイア』恐るべし。どんどん進化してるような気がします。後になればなるほど舞台が洗練されていく。出演者の技量が上がっている気がします。やはり、慣れてくると余裕が出るんでしょうか。

 12日に気になったことといえば、シャガール役の佐藤正宏さんの声が、少し調子悪そうに聞こえたこと。気のせいかもしれないですが、お大事になさってください。単純で憎めない佐藤さんのシャガール、好きです。「娘はもう18~♪」という歌い始めの、夢見るような、親ばかっぷり炸裂のところがいいですね。あんまり単純すぎて憎めないキャラ。奥さんのレベッカも、なんのかんの言って愛してるし。愛人のマグダも、シャガールのことはまんざらでもない様子。本当に嫌なら、もっと冷たく突っぱねるでしょう。

 13日は、今まで見た中で一番感動した回でした。

 伯爵が出てくるポイントがすでにわかっているから、ちゃんと心の準備をして、歌詞も頭の中でなぞるようにして聴いたからよけい、感動したのかなあと思います。なにせ初回のときなどは、伯爵がサラを舞踏会に誘いに来たシーンで大爆笑して、その箇所をまともに聴けなかったですから。

 私的メインイベントの歌「抑えがたい欲望」の最後、山口さんの声が少し割れたというか、震えたような気がして一瞬びっくり。あれ、大丈夫かな、どうなっちゃうの?と思いながら聴き入っていました。その後、なにごともなくふうっと声が広がって劇場を充たして、これでもかーっとばかりに勢いを増したのはさすがです。山口さんてすごい。絶対期待を裏切らないもの。

 ここは、これくらい大きく歌って欲しいな~と思うと、必ずそこまで上げてくれる。途中、あれまだ声小さいなと思うのはあくまでも途中だからであって、そのまま驚異の肺活量で歌いきる。毎回、堪能してます。あの声に満たされると、細胞が活性化するのを感じます。帝劇の席のどの位置にいたって関係ない。そこにある空気が全部、山口さんの声でいっぱいになる。素晴らしいです。

 ダンサーの踊りもいいですね。一流のバレエの公演を見ているみたいで、美しいです。サラの夢の場面も、アルフレートの悪夢の場面も、両方好き。最後の総出演のところもいいし、ダンスシーンは目を奪われます。バックに流れる激しい音楽も、心拍数を上げる効果絶大です。見ているうちにドキドキして、自分も体を動かしたくなってしまう。

 歌っていなくても、肉体の動きで感情を表現するのですよね。芸術です。見ていると、伝わってくるものがあります。こんなに本格的に踊るのを見られるなんて、おいしすぎる舞台です。歌もいいしダンスもいいし、照明も美術もセンスが最高。

 最後にバンっと登場する伯爵の「してやったり!!」顔ですが、これを考えた人は偉い。これがあることによって、作品にうまくオチがついていると思います。誰が考えたんだろう。海外の公演でもこれはやってるんだろうか。もしこれが日本独自の演出なら、日本人のセンスってすごいかも。

 暗くならなくてすむのです。最後に笑って終われるっていいことです。後味の悪いミュージカルなんて嫌。あの伯爵の顔、見ているだけで幸せになります。数秒間しか見られないのが本当に残念。お守りにしたい。東宝様、ぜひあの顔写真のグッズを販売してください。

 13日はクコールが、伯爵に軽く頭突きしてました。教授とアルフレートに紹介するシーンです。いつもはすりすり甘えてるのに、今回は激しいバージョン。でも、私はいつものすりすりの方がいいと思いました。そのときの伯爵の甘い声が好きだからです。「くぅこぉおおる」(愛い奴め)という心の中の声を秘めた声。

 13日は久しぶりに、というか私にとっては2度目の剱持サラバージョンでしたが、私はサラに関しては剱持さん派ですね。大塚さんを聴いた後で剱持さんを聴くと、違いがはっきりわかります。これは好みの問題だと思うのですが、大塚ちひろサラは小悪魔すぎるんです。意地悪とも、残酷とも感じるくらいに知恵がある。アルフレートを手玉にとりすぎ。手のひらで転がしすぎ。

 私の好みとしては、サラはあくまで無邪気な存在であってほしいんですよ。若い娘なりの残酷さは、その一歩手前の微妙な位置で踏みとどまっていてほしいという思いがあるんです。無意識にわかっていることでも、意識では気付いてほしくないというか。無邪気さが意識的にではなく、結果的に罪になるような雰囲気を望みます。その点では、剱持さんの透明感はぴったり。

 歌声も、透き通って妖精みたい。お城や伯爵、外界への憧れを夢見る女の子の幼さが、よく表れていたと思います。大塚さんは現実感を感じさせるイメージなんですよね。今、この現代にいる女の子という感じ。剱持さんは、絵本の中に存在する女の子のイメージ。

 お風呂のシーンも、剱持さんだとむやみに色っぽくなくていいです。自分の魅力に気付いているようで気付いていない、そういう微妙なラインが伝わってきます。子供時代の意識が抜けきってないのがいいのです。レディよ、もう18よと言いながら、本当にそう思ってるのかなあと思わせるような動作や口ぶり。可愛いです。

 そして伯爵。

 魅力的すぎ。観客婦女子全員の心を鷲掴みですね。あんな七色の声で歌われたら、誰が逆らえるというのでしょう。サラの心をつかむことなんてたやすいこと。サラが、アルフレートの制止にも関わらず「いいの、もう」と、お城に向かって走り出すシーンが好きです。サラの心が、完璧に奪われたのがわかる。陶酔しきった、夢見るような目、もうお城しか見えてない。若いということは、燃えやすいということです。

 

 私の好きなシーン。好きな台詞などを挙げてみます。

 ありすぎて困る・・・・。観劇記はこの先もずっと書き続けると思うので、そのときそのときでだんだん書いていこうとは思いますが、まずは思いつくものから。

 「粉々になって」これ歌ってるときの伯爵が大好き。なんて優しい目でサラを見るんだろうと思います。後方席だから表情までよく見えないのですが、もうね、声にあふれてるんです。感情が。だから容易に想像できてしまう。螺旋階段を上がってくるサラを迎える、伯爵の目。

 「お前を呼んでる」これは血を吸った後の伯爵とサラのやりとりの一部。私と同じセンスを持つ山口ファンなら、「あ、あそこの台詞」とわかってくれるでしょう。ニュアンスが、「粉々になって」と同じ。ひたすら甘く、優しく、溶けてしまいそうな声。聴いてるだけでうっとりです。

 ああそれから、壇上で吸血鬼たちを煽るシーンもいいですね。ロック調で激しく歌い上げる。「それで満足か?」衣装もかっこいい。黒地で、胸には白っぽい装飾。オールバックによく似合います。宣伝写真よりも、動いて舞台に立っている姿は数倍素敵です。

 宣伝写真で思い出しました。読売新聞に全面広告が出たのですが、写真の構成が今ひとつで残念でした。一番大きな写真は、山口さんが歌っているところの写真。なんでこれなんだろう・・・。それよりも、帝劇の柱に貼られているクロロック伯爵の画像にしたら、絶対インパクトあるのに。

 帝劇正面入り口を入った、右手の柱にその巨大ポスターはあります。柱の二面を使った状態なのですが、この伯爵の写真がものすごくかっこいい。なぜこれをもっと使わないのか不思議です。私だったら、これをメインに広告に載せますね。本当はサラに噛み付く画像でもいいんだけど、全面広告だと刺激が強すぎるかなと思うので、それは2番目の大きさで。

 耽美でゴシックでゴージャスで荘厳で、激しくてせつない舞台。それが『ダンス・オブ・ヴァンパイア』です。私はこの舞台のテイスト、大好きです。

ヘルベルト考

 ミュージカル『ダンス・オブ・ヴァンパイア』についての感想です。ネタバレも含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 

 今日は、ヘルベルトについて語ってみたいと思います。以下、私の空想が延々と続きます(^^)あくまで私の空想ですので、そんな考え方もあるのかと軽く流してください。

 なぜ孤高の伯爵に息子がいるのか、という話です。私の勝手な解釈ですが、恐らく実の息子ではないでしょう。

 「抑えがたい欲望」の歌詞から推測するに、伯爵の愛情度は、輝く髪の娘>牧師の娘>ナポレオンの供だろうと思うのですが、その3人とも子供をもうけるまでの濃密な関係には至らぬまま、伯爵は愛する人を失ったはずです。なぜなら、愛した人の血を吸ったらその人は死んでしまうから。

 知り合ってそう長いこと、一緒にいられなかったのではないでしょうか。

 サラが大丈夫だったのは、伯爵がサラを本当には愛していないから。サラは伯爵にとって、久しぶりに味わう少し毛色の変わった獲物にすぎません。

 空想ですが、ヘルベルトは、輝く髪の娘の面影を持った孤児ではなかったかと。ヘルベルトが10歳位のときにたまたま伯爵が、墓場で病のため行き倒れていた彼を見て、城へ連れ帰ったような気がします。伯爵は彼の瞳に、娘と同じ純粋な輝きを見て心を惹かれるのです。しかし空腹と疲労、寒さのために子供の体力は限界点を超えており、このままでは死んでしまうということで、伯爵はヘルベルトの首に牙を突き立てたのでしょう。ヘルベルトを吸血鬼化することで、彼を死から救ったのです。

 そしてヘルベルトは20才位までは人間と同じように成長し、そのまま時間がとまって今に至るのではないでしょうか。ヘルベルトは孤児であったから、愛情を注ぐ伯爵を本当の父と慕い、また命を救ってくれたことに感謝しているのではないかなあと思います。伯爵はヘルベルトに愛した人の面影を見ています。その愛にも関わらず、なぜ血を吸っても彼は死ななかったのか。それは、異性への愛ではなかったからということでしょうか。

 ただ、もしヘルベルトが健康な状態であったなら、伯爵は血を吸うことはなかったでしょう。伯爵は、吸血鬼になることを幸せなことだなんて、絶対考えていないと思います。世界中に仲間を増やそうとしている人ではありますが、自分が愛した人を吸血鬼にしたいとは、全く思っていないはずです。気の遠くなるような孤独は、伯爵自身が一番わかっているのですから。自分の運命を呪ってもいるはずです。どうして同じ運命を、愛する人に味合わせたりするでしょう。

 幼いヘルベルトが死にかけたとき、伯爵は迷ったと思います。このまま安らかに死なせるべきか否か。神が実在するならば、この幼子は死後、この世の苦しみから解放され天上へ召される。それが幸せなのか。苦し気なヘルベルトの呼吸音を聞きながら、伯爵はわが身を振り返り、輝く髪の娘の死に様を思い出します。この腕の中で、微笑みながら冷たくなった愛しい人。そのときの、身も凍る絶望感。なす術もなく、ただ見ていることしかできなかった無力感。この子供を助けることが、あの娘を救うことにどこかしらつながるような気がして、伯爵は決心し、血を吸ったのでしょう。

 伯爵はヘルベルトを愛しています。彼を自分の息子として迎えました。城の者たちも、彼を伯爵の息子として敬っています。でも血はつながっていない。だから、孤独なんだと思います。もしも伯爵が誰かを愛し、その人との間に子供まで儲けて、しかもその子が吸血鬼なら、あの「抑えがたい欲望」を歌う伯爵はいないはずです。あの歌を聞いた人ならわかるでしょう。彼が独りぼっちだということ。血のつながりって、すごいことだと思います。血のつながりは鎖です。どうしようもなく断ち切れない鎖。目には見えなくても、その命ある限り体に巻きついて離れない。

 妄想しすぎという気もしてきましたが(笑)

 まだまだ、妄想は続きそうですが、この辺でやめておきます。明日は、観劇記を書く予定です。