モーツァルト!観劇記 2回目

 

 昨日の観劇記の続きです。ネタバレしておりますので、未見の方はご注意ください。 

 今回の観劇で驚いたこと。やたら目立つお方がいたのです。そのお方の名は、シカネーダー。登場したときから紫の衣装で、怪しいシルクハットをお持ちの劇場支配人。

 名前からして、常人ではありません。モーツァルトに、芸術ではなく娯楽の音楽の方が難しいのだと説きます。群舞というのでしょうか。シカネーダーを中心に皆が踊るシーンがとても華やかで、楽しかった。ダンスのきれが、他の人と全然違っていました。それと、スターのオーラがすごかった。目立つ、目立つ。

 彼を見ながら思いました。私、この人をどこかで見たことあるなー。誰だろう。そして、舞台が進むにつれ思い出したのです。「青江冬星なんだわ」と。

 青江冬星といえば、「はいからさんが通る」の登場人物の一人。その2次元の人物が、今、私の目の前で踊っているのです。足の長さ、スタイルのよさ、ダンスのうまさ、もう彼から目が離せませんでした。そこはかとなく漂ううさんくささ。山師を思わせる笑み。

 「うわー、青江さんを3次元で見られるなんて」興奮しながら見ていました。いったいなんという役者なんだろうか。この人は、絶対これから人気がでるはず。だって、持ってるオーラがスターのものだもの。家へ帰ってきて、名前を調べてびっくりです。なんと吉野圭吾さんなのでした。以前、「レ・ミゼラブル」でアンジョルラス役をやった人ではありませんか。

 アンジョルラス役は、正直合ってなかったと思います。私は吉野アンジョルラスを見ましたが、学生達をひきつけるだけのカリスマ性を感じなかったし、そもそもパワーが弱いのです。客席に訴えかけてくるなにかが、絶対的に足りない。もう一度、吉野アンジョを見たいとは思いません。

 でも、当たり役というのはあるのですねえ。このシカネーダーは、吉野さんが演じるからこそ、あれだけの魅力が出ているのだと思います。とにかく、人の心をがしっと掴むなにかがある。うさんくささの向こうが、気になってついつい、足を踏み入れてしまう感じ。

 とてもきれいな人なのですよね。きれいな人が演じる、怪しい人物。身のこなしが一つ一つビシっと決まっていて、美しかったです。

 私は「はいからさんが通る」では少尉派でしたが、青江さんが好きな人はぜひ劇場で、前方席で吉野シカネーダーを見てください。もしはいからさんの実写映画を作るなら、青江冬星役は彼以外にいないでしょう。

 ちょっと「モーツァルト」から話が脱線したので、元にもどすとして。モーツァルトの父を演じた市村正親さん。さすがベテランという感じでした。私は思うのですが、すごく個性を抑えて演じていたような。思う存分に演じたら、父親の方が目立ってしまうから、わざと抑えていたのでしょうか。市村さんの持つエキセントリックな部分が影をひそめて、そのぶん常識的な父親が前面に出ていたと思います。

 もう少し、破天荒な父親像でもよかったかなあと残念でした。モーツァルトの父親ですもん、普通のお父さん的イメージはあんまりないです。モーレツパパの、変人ぶりを見たかった気がします。そうすれば、モーツァルトとの対立ももっと激しくなったでしょう。

 天才を育てたという自負のある人物ですから、モーツァルトに対する複雑な思いをもっと前面に押し出して、個性的に演じてもよかったんじゃないかと思います。

 モーツァルトの前に現れる謎の人物(黒衣に白仮面)も、市村さんが演じてましたね。私はあれを見た瞬間「ファントム!」と心の中で叫んでしまいました。今にも、クリスティーヌに愛を乞うセリフが聞こえてくるのではないかと、そんなことまで思ってしまいました。舞台の袖から、タキシードの山口ラウルが現れるのではないかと、そんな妄想をしてしまったり。

 モーツァルトの妻、コンスタンツェを演じたのは西田ひかるさん。西田さんがこんなにうまいとは思っていませんでした。歌に心がこもっていて、さびしさがひしひしと伝わってくるのです。コンスタンツェがモーツァルトに捧げた無償の愛。お金はなくても、あの頃が一番楽しかったと振り返るシーンは、ホロリときてしまいました。そうなんだよなあ。「そのままの僕を愛して」なんてモーツァルトは言ってるけど、素の、なんにも持ってない彼を心から愛してくれたのは、妻だったのにねえ。それに気付かないところがモーツァルトの傲慢さなんだよな。

 モーツァルトより、よほどコンスタンツェの方がかわいそうだったような気がします。

 モーツァルトは、自分の好きなように生きたもの。苦しんだりもしたけど、でも自分の思う道をまっすぐに生きた。それを支えてくれる人もいた。

 影を逃れて、の意味がよくわかりませんでした。モーツァルトは、昔の自分に捕われていた? 自分の影に怯えていた? どっちも違うと思うのです。子供の頃の自分と今の自分は矛盾していないでしょう。むしろ、モーツァルトが苦しんだのは、自分の才能が世間に認められないところだったと思います。こんなに素晴らしいものを作っているのに、思うようにお金が入ってこなかったり、名声が得られなかったり。それと、どんなに才能があっても、貴族にかなわないという階級制度への憤りだったり。自分にプライドを持っている人だったら、うまくいかない人生に苛立つということはあると思うのです。

 

 

 天才は天才を知る、というけれど、モーツァルトは孤独だったでしょう。自分を本当の意味で理解してくれる人は、なかなかいなかったから。父親でさえ、世の中に羽ばたいていこうとするモーツァルトを引き止めた。モーツァルトが天才だということを、わかってくれる天才はなかなかいない。

 子供の自分=音楽の才能 という隠喩だったのかなあ。だから、子供の頃の自分が、いつも作曲をしながら大人のモーツァルトについてきたのか。

 でもモーツァルトは、自分の持つ才能を「いらない」とか「逃れたい」なんて思っていなかったと思う。自分の才能に誇りを持っていたし、それでこそ自分だと思っていただろうから。

 

 この「モーツァルト!」という作品。貴族たちの扮装が、けっこうおもしろかったです。演奏会に現れた女性のカツラ。船がのっかっていたり・・・・・。かつらの高さがどんどん高く、しかも装飾的になっていった時代のことを少しは耳にしたことがあるのですが、なるほどこういうことかと思いました。実際見ると、笑えます。でも、その人だけでなく他の人も派手なカツラなので、全体としてみるとけっこうまとまっていて、流行とはこういうことなのだなあと納得しました。ここで一人地味な人がいたら、かえって目立ってしまう。

 楽曲的にはそれほどぐっとくる曲はなかったのですが、目に楽しいミュージカルだったような気がします。

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