ダンス・オブ・ヴァンパイア観劇記 その20

 では、昨日の続きです。『ダンス・オブ・ヴァンパイア』のネタバレが含まれていますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 ソワレでは珍しいものを聴きました。それは、「抑えがたい欲望」の最後で、伯爵は声を細くせずに一気に歌い上げてしまったのです。いつもだと、いったん弱く、細くしてからぶわーっと盛り上げるのですが。最初の一声が少し不安定な感じだったので、安全策をとって、ボリュームを落とさずにいったんでしょうね。

 舞台は何度も見てますが、一度も声を弱めないこういう歌い方をしたのは初めてだったように思います。小さくなるかな?という予想を裏切って、そのまま盛り上がっていったので少しびっくりしました。やっぱりいったん弱くなった方が、後のバズーカが活きてくるので効果的です。普段のテクニックの凄さを思い知りました。

 「今こそここで予言をしよう」と言うときの姿が、ヴァンパイアでなく神様に見えてしまったのは私だけでしょうか。清らかなオーラが立ち上っているようで、思わず手を合わせたくなってしまったというか。悪の帝王でなく、人々を教え導く聖者のように見えてしまった。穏やかな表情には迷いがなく、微笑みさえたたえているような。仏さまのようにも思えました。

 その前に出てくる歌詞、この訳詞も素晴らしいです。

 人間や愛を信じること。金、名誉、芸術、勇気に救いを求めること。奇跡や罪や罰に頼りたくなること。どれも、痛いほどその気持ちがわかる。つらいことがあって神様に助けを求めるとき、私もいつもそうしてるから。伯爵はなんでもお見通しというか、そういう経緯を自分も辿ってきて、そしてあえて「だが違う、真実はひとつだ」と言い切ってしまう。そこに心を打たれるのです。欲望という言葉の前に、「卑しく恥ずべき」なんて修飾をつけてしまうところは、実はすごく真面目な人じゃないかという気がする。

 清清しいほどの強さ。欲望こそがこの世界を支配するという、伯爵の結論。この歌を聴くと、いつも胸がいっぱいになります。山口さんの声の持つ力と、歌詞と、曲、照明も、その前後の舞台の空気も、出演者全員の存在も、すべてが合わさってあの瞬間に凝縮されているような。

 伯爵と教授が初めて対面するシーン。今回はS席下手後方だったのでわりと伯爵の表情なども見えたのですが、これは不気味ですね。真夜中に石造りの冷たいお城を訪問して、出てきたのがあの伯爵だったら相当怖い。全編通して、私が一番、伯爵を怖いと感じるシーンかもしれない。凄みを感じさせるというか、得体の知れない相手を目の前にしたときの恐怖です。

 「長い孤独にうんざりして」というところでは、本当に時の流れを感じました。なにも変わらない、空虚な時間の流れ。やっと現れた教授は、敵になるかもしれない。それでも、なにもない時間よりはよほどましだし、もしかしたら通じ合える部分があるかもしれない。久しぶりにまともに話せる相手とめぐり合えた伯爵の興奮が伝わってくるようです。

 アルフの腕を強くつかんで持ち上げる、ロングトーン。つかまれた指の感触まで、リアルに想像できました。その痛さが、心地いい。あの力強さが、伯爵の魅力なのですよね。迷いをふっきる、力強い指針。

 去っていく背中。一度振り返って客席を見据えるのがいいなあと思います。あのまま退場するのではなく、会場に見得を切るところがポイントです。一幕の終わりにふさわしい絵だなあといつも感心するのです。

 さて、今日は伯爵が、城の貴族たちを見下ろして、煽るシーンの持つ意味について考えてみたいと思います。そう、あの電飾で飾られた螺旋階段の上です。これから始まる舞踏会を前に、興奮した吸血鬼たちの息遣いまで聞こえてきそうな迫力のシーン。

 

 私は、「抑えがたい欲望」からこのシーンまでの、怒涛の流れが好きですね。とめられない大きな力を感じるというか、動き出した運命の歯車の勢いに、ただただ圧倒される。坂の上の大きなボールが、ゴロゴロと転がりだすようなイメージもあります。

 そして、人々を見下ろして「さあ諸君」と呼びかける伯爵の姿に、その言葉に、「悲劇」の印象を受けるのです。言葉にするのは難しい、複雑な気持ちになってしまう。あの場面を見ているときの私の気持ちを、一言で言うなら「悲劇」なのです。

 サラという獲物を獲て、すぐにでも喰らいつきたいのを堪えてまでなぜ、伯爵はあのような派手な舞踏会を催したのか。華やかな舞台で、退屈な時間を紛らわせたいというような単純な理由だけではないと思うのです。食欲を満たす以上の意味が、あの舞踏会にはあったような気がする。

 それは、伯爵が自らに課せられた運命への宣戦布告というか、徹底抗戦の意志を明らかにした場面だと思うから。神様への挑戦といってもいいかもしれない。

 「神よ、見るがいい。私はこの娘を誘惑し、娘は自ら呪われた生を選んだ。私はもはや、この運命に惑わされることはない」的なメッセージがこめられているのではと想像しました。1617年に輝く髪の娘を失って以来、初めて伯爵が運命を甘受した劇的な瞬間ではないでしょうか。

 自分が心から愛した娘の命が、自分のせいで失われてしまった罪悪感。それと戦いつづけた伯爵の長い時間が終わる。サラは喜んで伯爵に血を吸われ、自らの意思で吸血鬼となった。伯爵は娘の願いを叶えただけ。そして、その血はこのうえなく美味。たとえ一時でも、伯爵の渇きは癒される。単純で、原始的な欲望と充足感。

 たぶん、サラの血を他の人が吸うことは予定されていなかったでしょうね。サラは伯爵にとっての特別な獲物だから。「サラという生贄を得た」という伯爵の言葉に皆が沸くのは、痩せこけた農夫ではない華やかな仲間が増える嬉しさだったり、滅多にない派手な舞踏会の主役にふさわしいという賞賛だったり。また一人こちらの世界にやってきて自分達と同じような闇の世界の住人になるのだという、他人が自らと同じ地獄に落ちるのを見るサディスティックな喜びだと思います。

 だから、「あと2人の獲物が待ってるのだ」という言葉は、食欲に翻弄される彼らにとっての思いがけない朗報だったでしょう。華やかな舞踏会の空気を楽しむだけでなく、そこに、渇きを癒すごちそうが登場したのですから。そして、舞踏会の空気は一気に最高潮に達するのです。

 「抑えがたい欲望」の中で、伯爵は「この私がわからない自分でさえ」と悲痛に歌っていますが、伯爵は吸血行為にいつも、金の髪の娘だったり、牧師の娘だったりの幻影がちらついてその罪悪感やモラルから逃れられなかったのではないかなあと思うのです。ヴァンパイアとしての自分の運命の謎を解くことも叶わず、かといって渇きは癒されない。生きていくのに血は必要なのに、その血を吸うたびに失った人の記憶が胸を刺す。

 自分の弱さを思い知るというか、すぐに克服できると思ったのに心が言うことをきかない状態。

 その打開策として、伯爵が切り開いた道があの舞踏会であり、サラだったのかなあと思いました。

 夏休み中なので帝劇にはお子様の姿も見えましたが、この演目はあんまりお子様向きではないかも(^^;描いてる内容が複雑だし、吸血鬼の客席いじりも、子供には相当の恐怖ではないでしょうかね。かといって、帝劇の中心客層と思われる熟年女性にターゲットを絞った演目とも思えないし。これを上演しようと計画した東宝の決断はすごいなあと思いました。あまり若者にお勧めの作品とも言えないですね。学生の団体観劇には絶対ふさわしくないしなあ。

 ただ、これは一部の熱狂的なリピーターを呼ぶ作品だと思いました。これは、子供向けでなく大人のための舞台ですね。

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