マリー・アントワネットを自分が演出するとしたら(妄想篇その2)

昨日の続きです。舞台『マリー・アントワネット』のネタばれを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

アントワネットをどう描くかというのは、主人公でもあるわけだから、一番重要になってくると思う。私がMAをあまり好きになれなかった一因は、主人公のアントワネットに共感するところが少なかったから。特に、あのフェルセンとの熱いキスはドン引きだった。

 宮殿に民衆が押し寄せてきたシーン。恐怖を感じたアントワネットが子供たちを連れてその場を逃げ出そうと、ルイ16世に脱出を促したとき、彼は「逃げるならあなたたちだけで行けばいい」というようなことを言った。そのとき私は、当然アントワネットが、「あなたには私たちを守ろうとする気持ちがないのね」とヒステリックにわめくんだろうなと予想した。

 だけど、アントワネットは静かに、「わかりました。あなたに従います」というようなことを言って、なんの文句も言わずに、静かに王様に従ったのよね。

 このとき私は、静かな感動を覚えたのです。アントワネットを見直した、といってもいい。そりゃ、心から愛せる夫ではなかったかもしれないが、彼は一国の主。そして、家族の長。死を賭けた究極の場面で、一国の王妃として、王に従う決意をした彼女。

 泣き喚いて、彼の品格を貶めるようなことはしなかった。

 このとき初めて、本当の夫婦になれたんじゃないか、という気がしたのです。

 な・の・に。その後、ルイ16世がギロチンで処刑され、牢獄で子供たちと囚われの生活を送っていたとき。救世主のごとくあらわれたフェルセンに、すがりつき抱き合い、熱いキスを交わした。私はこの場面、がっくりしました。

 これで、すべてが台無しになってしまった。

 私が演出するなら、フェルセンの顔を見て走り寄り、抱きつこうとする寸前でマリーの足を止めさせます。理性の力で、必死に自分を自制するマリー。

 震える声で、「ありがとう。子供たちの命を助けたいの。どうか力を貸してください」そういって、フェルセンに泣きそうな顔で必死に微笑んでみせたら。もっと泣ける場面になると思うのです。

 フェルセンも、観客も、マリーがすがりつきたい気持ちをわかってる。でもマリーは決して、フェルセンに抱きつくことも、泣き出すこともしない。

 彼女はフランスの王妃。もう、自分の恋心など、心の奥底に閉じ込めてしまった。フランス王妃として、そして母親として、王位を継ぐ子供たちの命を助けることだけを考えている。その威厳が、舞台上では痛々しく、そして神々しく表現されることでしょう。

 最初は、マリーがなぜ自分の腕に飛び込まないのか、不審げだったフェルセンにも彼女の心がわかり、彼はマリーに向かって優しく微笑む。そしてわざと、他人行儀に、うやうやしく彼女に話しかける。二人の身分の違いを、自分に言い聞かせようとでもするように。そうすることが、フェルセンにとって精一杯の思いやり。マリーも察して、あくまでも王妃としての威厳を崩さない。

 こうすることによって、悲劇の度合いは高まると思うし、マリーに共感できるのではないでしょうか? 自分の子供が見ている前で、恋人と熱いキスを交わすなんて、考えられません。あのキスを見てしまうと、その後いくらマリーが裁判でひどい言葉を浴びせられ、処刑されることになろうと、どこか冷めた気持ちで見てしまうのですよね。

 マリーという女性の一生を考えたとき、ひとつの流れができるような。なにも知らない無邪気な少女時代。贅沢を当然と思い、マルグリットの憎悪に火をつけたあのシャンパンかけ事件。そしてフェルセンとの恋。

 悪い人ではない夫。だけどどうしても好きにはなれない。政略結婚。

 少しずつ心がフェルセンに傾き、2人で歌った悲しい歌。どうして自分は王妃なのか?王妃でなければ自由なのに。だけど、2人が愛し合うのは罪だとわかってる。

 革命の嵐の中。マリーは自分が王妃であること。夫が王であること。その意味をようやく理解し、その運命に真正面から立ち向かったのではないでしょうか。だから、あのとき、ルイ16世の言葉に従って宮殿にとどまった。あのとき、フェルセンとの恋は死んだのだと思う。私なら、そう解釈します。いつまでも少女時代の夢を追いかけてはいない。時間がたてば、人は大人になるのです。

 処刑前の法廷で、子供を虐待したと裁かれたときに毅然と否定したマリーの姿。涼風真世さんの熱演に、観客からすすり泣きの声が聞こえたのを覚えています。それがもし、フェルセンとのキスを敢えて拒絶したマリーであったなら。

 子供を守ろうとする母親の姿にもっと、説得力が出たでしょう。

 石川禅さんの演じるルイ16世は、すごくよかったです。悪い人ではない。でもマリーに恋をさせる魅力は全くない。そういう人物像がはっきり表現されていました。だからマリーが、まだ年若く夢見る少女だったマリーがフェルセンに憧れ、恋におちていく過程を、観客は自然なものとして受けとめることができた。

 私だったら、マリーが心ある人たちに連れられ、国内の実情を知るべくひそかに街を歩き回るシーンを劇中に入れますね。

 やっぱり、国内の貧しい人たちの現状を知らなければ、マリーは本当の意味で大人にはなれなかったと思うから。甘い恋うんぬんの前に、その日生きるためのパン一つなく、惨めに死んでいく民衆がいる現実。「王妃さま、これが今のフランスです」と告げられ、言葉をなくしたマリー。その場で劇的な変化はなくても、そういう経験をしたら自分の立場や運命を考えざるをえないと思うから。

 こういうシーンがあってこそ、ここに残るというルイ16世の言葉に、素直に従うマリーの場面が活きてくると思う。

 もう一人の主役、マルグリットについて。一番違和感があるのは、やはり娼婦におちるシーン。生活のために身を売らねばならない状況って、女性にとっては死に等しいのではないかと私は考えます。マルグリットは潔癖そうだし、花売りでなんとか食べていければ身を売るようなことはしないでしょう。食べていけなくても、甘んじて死を受け入れる覚悟はあるような女性だと思うのです。

 そんなマルグリットが、最初は戸惑い、そのうち楽しそうに(そう見えてしまった)踊り、娼婦という仕事を受け入れる。私が演出するなら、ここはもう、絶対に楽しいダンスにはしないですね。むしろ、嫌がり、逃げ出そうとするマリーを容赦なく捕まえ、黒い影が底へ底へ引き入れていく、そんなダンスにします。

 マルグリットは、自分のためというより誰かのため、たとえばお世話になったアニエスが病気とか、年下の子供たちを食べさせるためとか、やむにやまれぬ事情があって、最後の手段として娼婦になるという設定にします。甘い言葉で誘う女衒や娼婦仲間たち、そして実際の仕事の地獄。

 どん底で、華やかなマリーのうわさを聞く。憎悪はますます大きくなる・・・そういう描き方をすることで、二人のマリーの落差がはっきりしてくると思うのです。

 ボーマルシェとカリオストロの位置づけ。私だったら、黒幕のカリオストロ。その周りを陽気に走るボーマルシェ、みたいな感じにします。狂言回しの役は、ボーマルシェでOK。カリオストロは喋ると存在が軽くなってしまうから、場面場面を操る謎の存在にして、不気味な印象を植え付けて。ボーマルシェはときどき、余計なことを喋りすぎてカリオストロににらまれ、慌てて逃げ出す。

 カリオストロはボーマルシェを小さな存在と見ているから、歯牙にもかけず。ボーマルシェは、世渡り上手で、カリオストロを恐れながらもちゃっかりと場面説明を続けて。

 

 そんな感じにしたら、舞台ももっと盛り上がるかなあと思いました。

 長くなりましたので、続きはまた後日。

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