『マリー・アントワネット』千秋楽に思う

 帝国劇場で上演されていた舞台『マリー・アントワネット』が千秋楽を迎えた。カーテンコールの模様は、公式HPのブログの中で見ることができる。

 以下、この舞台に関する感想ですが、ネタバレも含んでおりますのでご注意ください。

 実は千秋楽、ギリギリまで見に行くかどうか迷っていた。カリオストロの新曲「illusion」をもう一度聴いておきたい、という気持ちがあったからだ。

 これは私の勝手な予測なのだが、たぶん、将来的に再演はあると思う。それだけお金をかけた作品だし、素材は悪くないと思うので。別角度から手直しを加えれば、かなり面白い作品になると思う。このまま眠らせてしまうとは考えにくい。

 ただ、その将来的な再演を待つにしても、少し先の話になるだろうし、聴くなら今回の公演がチャンス、なのである。

 私が思うに、カリオストロ伯は舞台の中で、とても浮いた存在になっていたような気がする。すべてを操っているというよりも、登場人物とは別世界に生きていたような。それは恐らく、演出の指示だっただろうし、今回の演出は「役者に任せる」タイプではなく、どちらかと言えば、厳密にすべてを指示通りに演じさせるタイプだったのだろう。

 演出の思いと、観客の思いが乖離しているとき。舞台上に立っている役者が、もし観客の気持ちに共感したとしても、そこでいったいなにが出来るだろう、と思う。

 言葉と動き。その2つの型が決まっていたら、自由になるものは、目の表情と声にこめる情感ぐらいだろうか。

 それは、とてもとても、難しい作業である。目の表情なんて、よほど近くで見なければわからない。角度の問題もあるし、見える人なんて限られる。そして声に自分の思いをこめたとしても。

 言葉の力は、それ以上に強力だと思うのだ。言葉とは反対の思いを歌にこめたら、そのチグハグ感は逆に混乱を招くだろう。

 「大嫌い」と言葉にしつつも、声の調子で「愛してる」と伝えるような、そんな場面ではないのだから。

 どうしてカリオストロ伯が舞台の中で浮いているんだろう、という思いは、演じている山口祐一郎さん自身にもあったのかなあと思った。カーテンコールの動画の、「半年間やったんだぞ」という叫びに、それを強く感じた。

 もちろん、冗談のように叫んでいて、特に深刻な場面ではないのだが。この一言が、一番山口さんの心境を表していたのかなあと。自分の中で、「なぜこの台詞?なぜこの動き?」という疑問はあっただろうし、空席のある客席を見て、じれったい気持ちにもなっただろう。

 ただ、やっぱり演出家=指揮者は絶対だから。当たり前だが、役者が勝手に動くわけにはいかない。そういう動きを、許容する演出家もいるだろうけど、全員がそうではない。こうしなさいと言われたら、そう動くのが役者だし、それが仕事というものである。

 

 なんとなく、自分の仕事と重ね合わせて見てしまう部分があった。

 誰でも経験があることだと思う。上からの指示で、納得のいかないこと、矛盾していることがあったとする。それを「これこれこうだから、このままだとこういう恐れが・・・」と報告したとき、「ああ、そうだね。じゃあこうしよう」と、すぐ適切な処置をとってくれる上司と、言われている意味がわからず、「俺の言うことは絶対だから。とにかくやれ」という上司と、二種類いるのだ。

 「俺の言うことは絶対だから」という上司が、いざ失敗したときに責任をとってくれる人ならいい。だが、絶対服従を強いて、かつ結果に関して責任をとらないタイプの場合、現場で作業する人間は葛藤する。

 

 このままじゃ駄目なのに・・・このまま続けたら、こんな危険があるのに・・・わかっていて、どうしようもできないもどかしさ。しかも、いざ結果が凶と出たとき、指揮官が知らん振りだったら。事情をよく知らない人が見たとき、それは、現場が勝手にやったことの結果のようにも見えたりする。それはとても悔しいことだ。なにもかもわかった上で、不本意なことをやり続けなければならないストレス。

 私は今回の舞台、本当に惜しかったと思っている。楽曲は名曲だ。マルグリットの歌う「心の声」「100万のキャンドル」マリーとフェルゼンのデュエット、どれも胸にすっと入ってくる。だけど舞台全体のまとまりはというと、バラバラな印象しかない。

 そして、登場人物に共感できない。

 演出家というよりも、その上の人の問題なんだろうなあ・・・・。演出家を選んだのも上の人だし、その演出家のプランを受け入れたのも上の人だし。たぶん演出家は演出家で、かなりのストレスを抱えていただろう。凱旋公演にみられる変更は、演出家の手によるものではないと思う。

 2006年の公演時、それが、演出家本人が、純粋に自分の手だけで描いた世界観だったんだろう。ただ動員の問題があって、客からのクレームもあって、上から「こうしろ」と言われて、ギリギリ譲歩したのが今回の、凱旋公演だったような気がする。

 「illusion」は、演出家の立場からすると、入れたくない曲だっただろう。

 以上のことを踏まえた上で。最後の最後に、山口さんはどんな「illusion」を歌うのだろうという興味があった。最後だからと、独善的な自分の思いをこめた「illusion」にするのか、それともあくまで、型通りにはみ出さない歌で終えるのか。あるいは、どっちつかず、演出の意図と自分の思いのせめぎあいの中で、中間点に線を引いて歌いあげるのか。

 それを見届けたくて、千秋楽へ行きたいと思った。それだけのために(^^;

 結局行かなかった。だから、公式HPの動画で少しでも雰囲気を味わえればと思ったのだが、「半年間やったんだぞ」という山口さんの言葉が、全てを表していた気がする。「illusion」を聴かなくても、山口さんがなにを考え、どんなスタンスでこの舞台を務めたのか、伝わってくるものがあった。 

カリオストロは須臾の夢をみる

 須臾の夢って、どんな夢? そんな質問メールが祐一郎ファンの友達から送られてきた。添付されていたのは、例の色紙の画像である。

 帝国劇場で上演中の『マリー・アントワネット』の出演者が、それぞれ自由にメッセージを書いた色紙が、ロビーに飾ってあるのだ。山口さんは、「須臾の夢」と書いて、その横にサインを書いた。非常にシンプル。他には何の説明もない。

 い、今さらですか?と、ちょっと苦笑いしてしまう私。辞書引けばいいじゃん、と思いつつも「しばしの夢」という意味だよ。と返信した。その後で、いやいやこれは、単に言葉の意味を聞いてるんじゃなくて、山口さんが何を思ってそんな言葉を書いたのかという質問かな、と考え直す。

 言葉が長ければ情報量は多くなる。だけど、この「須臾の夢」という言葉が伝える映像、感覚は、その短い言葉に見合わないほどに、多いような気がする。

 単純といえば、単純なんだけど。

 役者も客も、一定時間、同じ場所で同じ夢をみるのだ。いろんな場所から帝劇を目指して集まり、そして幕が下りれば、また自分たちの世界へ帰っていく。儚い幻に一喜一憂して。ほんの一瞬だけ、同じ空間を共有する。

 厳密に言うと、同じ夢をみているとは限らない。同じ歌を耳にし、同じ役者を目の前にしても、客の心に映る景色は、少しずつ違うものになると思うので。それぞれがどんな夢をみているのか、それは本人にしかわからない。

 観劇って、とても贅沢なものだと思う。消えてしまうもののために、たくさんの人の労力が費やされる。終わった後に、形として残るなにかがあるわけではない。

 なにかは心の中に刻まれて、それは誰の目にも、本人でさえ見えないものだ。

 私は終演後のロビーで、人波に流されていくときの、なんとも言えない寂しさを「須臾の夢」という言葉から想像した。どんなに熱い感動があっても、その幻の中に生きている人は誰もいない。現実の生活がちゃんとあって、これから皆がそのリアルな世界へ帰っていくのだと思うと、言葉ではうまく言い表せないような、不思議な感慨に打たれる。

 「須臾の夢」と書いたのは、冷静な目を持ってるからだろうなと思った。演じている自分と、その世界を堪能する観客を、俯瞰して見ているもう一人の自分。幻に溺れることなく、ただじっと見てる。その心地よい冷たさが、山口祐一郎という人の魅力の一つなんだろうと、そんなことを思った。そしてその突き放したような目線が、カリオストロという役に重なっている。

 ふと思い出したのは、2006年クリスマスの日、カリオストロ伯が(いや山口祐一郎さんか)歌ったWhite Christmas の一節。もちろん全部歌ったわけではないが(それやったらコンサートになってしまう)、私は聴いた瞬間、泣いてしまった。

 その場にいたわけではなく、MAの公式ブログにアップされた動画を見ただけなのだが。

 鮮やかに広がったイメージ。カリオストロ伯が窓辺で降る雪を、ガラス越しに見てる。カリオストロはどうしようもなく一人で、だけどそれをどうこう、自分ではまったく頓着していなくて。

 ただただ、際限なく降り続く雪を眺め、そしてその向こうにある、温かな灯りや、笑い声や、七面鳥の匂いを感じてる。

 こんなに寂しいWhite Christmasを聴いたのは初めてだ、と思った。寂しさに頓着しないカリオストロ伯と、その真っ白な心を覗いたような気がして。映像のカリオストロは笑って手を振っているのに、その声が伝えてくる幻の映像(妄想しすぎか)(^^;の、どうしようもないせつなさ。

 山口さんはすごい役者だなあ、と思った。あの場に立っているカリオストロ伯の独りオーラの、なんと強いこと!!

 私が思わず涙してしまうほどに、冷気を孕んでいた。

 私は『マリー・アントワネット』という作品があまり好きではない。苦手だ。皆がバラバラに動いている気がするし、なによりも、あの作品の中でカリオストロは「要らない存在」にされているように思えてならない。

 今回演出をした方の構想には、そもそも、入っていなかったんじゃないだろうか。だけどキャスティングが先にあって、どうしても使わざるを得なくて、無理やりパズルにはめこんだら、こうなりました、みたいな居心地の悪さを感じる。

 でもカリオストロをもう少し主要な存在にして、彼の目からみたフランス革命、という描き方をしたら、カリオストロに操られる人間模様と運命をテーマにしたら、ハラハラドキドキ、胸の奥に響くような素敵な作品になったんではないかと、改めてそう思った。感性は人それぞれだから、私の見たい作品が万人に受けるものではないと、それはわかっているけれど。

 個人的な願望ではあるが、あの White Christmas を歌ったカリオストロが、存分に舞台で暴れまわるところを観たかったなあと、本当にそう思うのだ。

『マリー・アントワネット』はどこへ行こうとしているのか

 帝国劇場で上演中の『マリー・アントワネット』についての感想です。ネタバレ、厳し目の意見などを含んでおりますので、未見の方などはご注意ください。

 素材は悪くない、それどころか恵まれてると思うのだ。『マリー・アントワネット』は有名だもの。その名前だけで、面白そうだな、と興味をひかれるご婦人は多いと思う。帝国劇場の客層というと、やっぱり女性がメイン。それも、30代以上の、いろんな意味で余裕のあるおばさまが多い。

 宝塚で『ベルサイユのばら』が大ヒットしたのもうなずける。フランス、革命、華やかなドレス、悲恋、お姫様。

 女性のツボを、きっちり押さえてる。

 『ベルサイユのばら』を見て感激した人なら、帝国劇場で『マリー・アントワネット』を上演すると聞いたら、一度は見てみたいなと思うだろう。

 キャストだって、実力派揃い。マリー役の涼風真世さんの透き通った歌声。マルグリットのWキャストで、力強い歌声を響かせる新妻聖子さん、笹本玲奈さん。

 そして、カリオストロを演じる山口祐一郎さんの魔法の声。

 その他のキャストも、歌と演技には自信ありの人ばかり。テレビ的な知名度からいうとどうしても舞台役者は不利だけど、逆に言えば今回は、知名度のためにテレビの世界から人寄せパンダで引っ張ってきた人がいない舞台。

 これが舞台の醍醐味、だと思うのよね。

 ほんの数年前まで、ミュージカルを全く見たことがなかった私が偉そうに言うのもなんだけど、生の舞台のよさって、テレビとはまったく違うところにある。どうしても舞台は敷居が高くて、そもそもチケットってどうやって買うわけ?とか、客層はどんな感じなの?とか、実際に見るまではいろいろ不安があるものだ。

 だけど、本当に「いい役者が、いい演出で、いい素材の舞台を務めた」のを、その場で体感したなら、テレビ以上の感動を得ることができる。

 映像マジックが効かないから。その瞬間が、そのまま勝負になる。板の上に上がったら、赤裸々にその人が炙り出されると思うのだ。撮り直し、なんてものもなし。よさはそのままに、駄目なところも駄目なままに、残酷なほど正直に、舞台は進んでいく。

 前置きは長くなったが、要するに何が言いたかったかというと、公式のHPで空席状況を見た驚き、だ。席に余裕有を示す丸印が、ずらーっと並んでる。千秋楽以外、売り切れてる日がない。その中で不自然に、5月3日だけ売り切れ。

 何故か? 山口さんのトークショーがあるから。

 いいの?それで・・・・と思う。トークショー頼みってどんなんだろ。あれだけ恵まれた素材で、恵まれた作曲家で、恵まれた脚本家で、恵まれた役者を揃えて、恵まれた制作費で、その結果がこれ?

 どうして観客に受け入れられなかったか、責任者は真剣に考える必要があると思う。勿体無さすぎる。演じる役者も、毎日消化不良な思いを抱えてるんじゃないだろうか。本当はこんなはずじゃなかったのに、本当は、本当は・・・。

 これは勝手な想像ですが、忠告する人って、絶対いたと思うんだよね。「こうした方がいい」とか、「これはちょっと」とか。

 その人たちの声を、誰かが押しつぶしたんだろう。

 そりゃ確かに、私は山口ファンである。トークショーは嬉しい。だけど、トークショーで私たちを楽しませてくれる山口さんを見るより、やっぱり舞台の上で、圧倒的な存在感で世界を操るカリオストロを見たかったよ。

 カリオストロの繰り出す魔法の中で展開する、絢爛豪華な貴族たちのパーティー、マリーとフェルセンの悲恋、革命の激しさ、マルグリットの変遷。観客の心が当時のフランスに飛んで、なんの疑いも抱かずに夢の世界に揺蕩うことができたなら。それが時には陶酔感や笑いだけでなく、悲しみや嫌悪感や絶望であっても、観客は舞台上のすべてを受けとめたし、「また見たい」と思ったんじゃないだろうか。

 帝劇ロビーに飾られた山口さんの色紙。「須臾の夢」という言葉に、役者の真髄を見た。

 そうだよ、役者は夢を見させるのが仕事だもの。客は夢を見たいのよ。どんな現実を抱えていようとも、ひと時の夢を見るために劇場に来る。ワクワクしたいから。楽しみにやってくるんだよ。その夢に応えようと思ったら、製作側は自己満足してる場合じゃない。観客のニーズをリサーチすることも大事だし、生の意見を参考にすることも大事。

 トークショー頼みになってしまっている現実が、悲しいです。

 あともう一つ気になったことが。グッズを販売するのはいいのですが、どうして最初からやらなかったんだろう? 劇場で、演目にちなんだ商品を見たり、買ったりするのも楽しみの一つなのに。

 あんまり高いものはともかく、1000円以下で実用的なもの(食物や消耗品)なら、女性は気軽に買うと思う。ただし、食物はおいしくなくてはダメ。ここはポイント。今回、新発売のラムネ・・・パッケージのデザインはいいけど、ラムネって、何故ラムネ?駄菓子みたいなものよりも、量は少なくてもいいから、高級でおいしいものの方がいい。それは、帝劇に来るお客さんの年齢層を考えてみればすぐわかると思うんだけど。10代中心ならともかく、ある程度高齢の女性が多い中、ラムネという選択は違うのではないか? たとえば一粒でいいから、カリオストロ印の高級チョコレートを売り出してみたら?

 幕間に、劇の感想などを語りながら気楽につまめるオシャレなお菓子や飲み物が、売店にあったらよかったのにと思う。せっかくフランスが舞台なのだから、当時のマリーが好んでいたお菓子など、再現したら素敵だったのにな。

 まあそうは言っても、売店の商品うんぬんは所詮、瑣末なことだけど。本編の舞台さえよければ、他のことなど吹っ飛んでしまうもの。

 つくづく惜しい。勿体無い、と思う。無限の可能性を秘めた舞台だったのに。残念です。

カリオストロ伯の舞台裏

 舞台『マリー・アントワネット』には公式HPがある。その中にブログのコーナーがあって、キャストの楽屋紹介をやっているのだが、ついに!

 カリオストロ伯を演じる山口祐一郎さんの楽屋が紹介された。

 ああ・・・期待してたけど。山口さんのことならなんでも知りたいと思っていたけど。でも、見終わった後の私の気持ちは複雑だった。

 これは失敗企画だったような気がする。他の役ならともかく、MA(マリー・アントワネット)の中で、黒幕たるカリオストロを演じている今、あの楽屋を見たくなかった。素の楽屋を晒す必要性を感じない。

 どうして、演出しなかったんだろうなあと思う。どうせ全てを晒すわけがない。当たり障りのないところを写真に撮るなら、いっそ、完璧なるカリオストロ像を作り上げればよかったのに。この点については、山口さんというよりも、ブログ作成者のクリスティ、そしてその上司に苦言を呈したい気分。

 生活感アリアリのプラスチックケース。「あ、私も使ってる♪」なんて喜ぶ気持ちよりも、現実をみせつけられたようでちょっと寂しい。

 舞台上で美声を響かせる異世界の人も、幕が下りれば自分と変わらない人間なのだよね。公演の間だけ、帝劇の楽屋に荷物を置いて、化粧をし着替えをし、そしていつか公演が終われば、あのプラスチックケースに全てを詰めて去っていく。

 化粧台の上に、見たくはない物体を発見してしまった。バックグラウンドを知らずに買っているんだろうけど、私だったら絶対買わない物。

 それが企画なら、仕方ない。取材なら、喜んで受けますよ・・という意志を、カリオストロの扮装をして微笑む山口さんに感じた。本当は人一倍、自分のテリトリーに誰かを入れることに抵抗感を感じる人なんだろうけど。

 髪の毛アップのカリオストロ。暖簾からひょいと顔を出してお見送りのカリオストロ。あぁ、普通の人だ。半分仮面を外したカリオストロ。

 素顔の山口さん、楽屋裏の山口さんが見たいという気持ちはあれど、今回のブログのような紹介は、私はあんまり好きじゃない。

 愚痴ってばかりもなんなので。もし私が企画するとしたらこんな風にしただろうというのを書いてみます。

 まず、部屋は真っ暗にして、ろうそくの光のみ。暗いだろうから、あちこちにたくさんのろうそくを立てます。床には、ダークレッドのじゅうたんを敷き詰め、畳の面が見えないように。壁には、不思議な柄のタペストリー。猫足のテーブル、年代物のソファ。

 フードをかぶり、巨大水晶の前でなにやら思案顔のカリオストロを、横からパチリ。ろうそくの光の陰影が、妖しさに拍車をかけるはず。

 それから、ソファに座り、くつろいだ様子で黒猫を撫でる姿をパチリ。このとき、フードは外していて、端正な顔がはっきり見えていることが大事。黒猫は本物で、毛艶のよいものを希望。黒毛と、それを撫でる細く長い指の白さが、対照的に映るように。

 なんなんだこの部屋は~!と叫びたくなるくらい、不気味で得体の知れない部屋に装飾してほしい。ブログの本文も、「カリオストロ様はご機嫌斜めのご様子で~」とか、「なにやら新しいアイデアに心を奪われておられるようで」とか、すっかりなりきって書いてほしい。

 読む方も書く方も、ヤラセがわかっている前提で、いっそ遊びに徹した方が面白いのではないかと思う。今回の楽屋訪問は、裏が見られて嬉しかったという思いよりも、「夢をみさせてほしかった」という思いが強く残る回だった。

『マリー・アントワネット』観劇記 その8

 帝国劇場で現在上演中の舞台『マリー・アントワネット』についての感想です。ネタバレも含みますので、未見の方はご注意ください。

 

 そういえば、主役のマリー・アントワネットに関してあまり書いてなかったなあと思ったので、涼風真世さん演じるマリーについて、感想を少し。

 私は涼風さんの演技と歌、素敵だと思いました。そして、『エリザベート』を涼風さんで見たいなあと思ってしまいました。一路真輝さんが演じたのとは、また違うシシィが見られると思います。

 涼風さんの持ち味は、天真爛漫さでしょうか。少女時代のマリーの無邪気さが、心地よく伝わってきます。嫌味がないというか、天然というか。去年の帝劇公演時より若返っているような。

 無理に子供っぽく演じようとするあざとさがないのは、涼風さんご自身の持ち味かなあと思いました。元々大人っぽい人が無邪気さを表現しようとすると、どうしてもわざとらしさが出てきてしまうけど、涼風さんは大人っぽいというより少女のイメージ。

 

 だけど裁判所のシーンで、母として毅然と法廷に立つ姿は凛々しかった。その落差に、感動がありました。ただ笑っていただけの少女時代とは違う、成長したマリーの姿がそこにはあったと思うので。

 井上芳雄さんがフェルセンを演じていたとき、実際にはかなりの年齢差があったのですが、2人とも若々しくてよく似合っていたと思いました。今拓哉さんの演じるフェルセンを見たとき、初めて井上フェルセンのよさに気付いたといってもいいかもしれません。ああ、そうだったのか・・・みたいな。

 2人とも無邪気で、太陽のように明るくて、恵まれた環境に育ってきて。お互いがお互いの、そういう暖かな部分に惹かれあったのかなあと。若いから、一度炎がついたら、感情が燃え上がるのもよくわかりますし。

 今さんの、大人の男なフェルセンを見たとき、「こういう人がマリーを愛するかなあ。マリーも、こういう人に惹かれるかなあ」と、少し疑問に思ったのです。

 MAという作品。私はあまり好きではないのですが、不思議なことが一つあります。それは、私にとっては、MAもエリザベートも、同じように感じるのですが何故か、『エリザベート』は人気の演目なのですよね・・・・。

 私が『エリザベート』が苦手な理由は、主役のエリザベートに共感できないからです。見ているうちに、腹立たしくなってしまうのです。そのあまりのわがままっぷりに。

 宮廷に自由がないと嘆くけれど、実際庶民になったら、それはそれで文句タラタラだったような気がする。贅沢はしたい。特権は手放したくない。美貌に執着する。その一方で、子供の気持ちは放ったらかし。

 私は一路真輝さんの演じるエリザベートは苦手です。なぜかというと、一路さんの真面目さとか、聡明さが歌ににじみ出ていると思うので。そんな分別のある女性が「私は自由にやりたいの」みたいに歌うと、単なるわがままに思えてしまうというか。

 本当に自由が好きで、自由が得られるなら地位も名声もお金もいらなくて、ボロボロの服でも馬に乗って草原を走り回っていればそれで幸せ。そんなエリザベートなら、宮廷で暮らさざるを得ない状況に同情もするのですが。

 ちょっと言葉は悪いのですが、無邪気=愚か=ただひたすらに自由を求める、というエリザベート像と、一路さんのイメージが合わないような気がするのです。一路さんが演じると、賢明なお姫様に見えてしまうから。賢明なんだから、もっとちゃんと考えなよ、考えればわかるでしょう?という気分になってしまう。

 

 

 もしこれが、涼風さんだったら。まっすぐにひたすらに、自由を愛するエリザベート像になるんではないかと思いました。それこそ、真っ黒に日焼けして、貧乏でも構わない。だけど、誰かに指図されたり、窮屈な暮らしはまっぴら、みたいな。

 そういうエリザベートなら、きっと感情移入してしまうだろうなあ。彼女の前に、死の象徴であるトートが現れる意味もよくわかるし。

 なんでも演じるのが役者、とはいうものの、やっぱり持ち味が生きる役というのは、あると思うのですよ。その人が演じると、他の人の何倍も光輝く、というような。私は涼風さんのエリザベートが見たい。あと、花總まりさんのエリザベートも。花總さんは宝塚の娘役在位年数が異例だったんですよね。その個性が、舞台上でエリザベートという衣装をまとったら、どんなふうになるんだろう。

 一路さんで似合うだろうなあと思うのは、『風と共に去りぬ』のメラニーですね。タイプでいったら、スカーレットではなくメラニーだと思う。スカーレットは、やはり大地真央さんかな。

 なんだかMAの話から脱線してしまいましたが。

 MAに話を戻すとして、私がMAを苦手とする理由。華やかさにかける・・・というのも一つです。絢爛豪華な貴族たちのパーティー等々、想像していたのと実際に見たものとが違いすぎた。

 もう少しドレスや舞台装飾など、豪華に(実際はまがい物でも)できなかったのかなあ、というのが残念です。せっかく帝劇での公演なのに。帝劇に見に来る観客は、『マリー・アントワネット』というタイトルに、そういうキラキラしたものを求めていた人が多いと思う。

 ドレスの色を、もっと鮮やかにするだけでもずいぶん印象は違ったでしょう。「楽しさ」というエンターテイメントの部分がもう少しあったらなあ。残念です。