『マリー・アントワネット』千秋楽に思う

 帝国劇場で上演されていた舞台『マリー・アントワネット』が千秋楽を迎えた。カーテンコールの模様は、公式HPのブログの中で見ることができる。

 以下、この舞台に関する感想ですが、ネタバレも含んでおりますのでご注意ください。

 実は千秋楽、ギリギリまで見に行くかどうか迷っていた。カリオストロの新曲「illusion」をもう一度聴いておきたい、という気持ちがあったからだ。

 これは私の勝手な予測なのだが、たぶん、将来的に再演はあると思う。それだけお金をかけた作品だし、素材は悪くないと思うので。別角度から手直しを加えれば、かなり面白い作品になると思う。このまま眠らせてしまうとは考えにくい。

 ただ、その将来的な再演を待つにしても、少し先の話になるだろうし、聴くなら今回の公演がチャンス、なのである。

 私が思うに、カリオストロ伯は舞台の中で、とても浮いた存在になっていたような気がする。すべてを操っているというよりも、登場人物とは別世界に生きていたような。それは恐らく、演出の指示だっただろうし、今回の演出は「役者に任せる」タイプではなく、どちらかと言えば、厳密にすべてを指示通りに演じさせるタイプだったのだろう。

 演出の思いと、観客の思いが乖離しているとき。舞台上に立っている役者が、もし観客の気持ちに共感したとしても、そこでいったいなにが出来るだろう、と思う。

 言葉と動き。その2つの型が決まっていたら、自由になるものは、目の表情と声にこめる情感ぐらいだろうか。

 それは、とてもとても、難しい作業である。目の表情なんて、よほど近くで見なければわからない。角度の問題もあるし、見える人なんて限られる。そして声に自分の思いをこめたとしても。

 言葉の力は、それ以上に強力だと思うのだ。言葉とは反対の思いを歌にこめたら、そのチグハグ感は逆に混乱を招くだろう。

 「大嫌い」と言葉にしつつも、声の調子で「愛してる」と伝えるような、そんな場面ではないのだから。

 どうしてカリオストロ伯が舞台の中で浮いているんだろう、という思いは、演じている山口祐一郎さん自身にもあったのかなあと思った。カーテンコールの動画の、「半年間やったんだぞ」という叫びに、それを強く感じた。

 もちろん、冗談のように叫んでいて、特に深刻な場面ではないのだが。この一言が、一番山口さんの心境を表していたのかなあと。自分の中で、「なぜこの台詞?なぜこの動き?」という疑問はあっただろうし、空席のある客席を見て、じれったい気持ちにもなっただろう。

 ただ、やっぱり演出家=指揮者は絶対だから。当たり前だが、役者が勝手に動くわけにはいかない。そういう動きを、許容する演出家もいるだろうけど、全員がそうではない。こうしなさいと言われたら、そう動くのが役者だし、それが仕事というものである。

 

 なんとなく、自分の仕事と重ね合わせて見てしまう部分があった。

 誰でも経験があることだと思う。上からの指示で、納得のいかないこと、矛盾していることがあったとする。それを「これこれこうだから、このままだとこういう恐れが・・・」と報告したとき、「ああ、そうだね。じゃあこうしよう」と、すぐ適切な処置をとってくれる上司と、言われている意味がわからず、「俺の言うことは絶対だから。とにかくやれ」という上司と、二種類いるのだ。

 「俺の言うことは絶対だから」という上司が、いざ失敗したときに責任をとってくれる人ならいい。だが、絶対服従を強いて、かつ結果に関して責任をとらないタイプの場合、現場で作業する人間は葛藤する。

 

 このままじゃ駄目なのに・・・このまま続けたら、こんな危険があるのに・・・わかっていて、どうしようもできないもどかしさ。しかも、いざ結果が凶と出たとき、指揮官が知らん振りだったら。事情をよく知らない人が見たとき、それは、現場が勝手にやったことの結果のようにも見えたりする。それはとても悔しいことだ。なにもかもわかった上で、不本意なことをやり続けなければならないストレス。

 私は今回の舞台、本当に惜しかったと思っている。楽曲は名曲だ。マルグリットの歌う「心の声」「100万のキャンドル」マリーとフェルゼンのデュエット、どれも胸にすっと入ってくる。だけど舞台全体のまとまりはというと、バラバラな印象しかない。

 そして、登場人物に共感できない。

 演出家というよりも、その上の人の問題なんだろうなあ・・・・。演出家を選んだのも上の人だし、その演出家のプランを受け入れたのも上の人だし。たぶん演出家は演出家で、かなりのストレスを抱えていただろう。凱旋公演にみられる変更は、演出家の手によるものではないと思う。

 2006年の公演時、それが、演出家本人が、純粋に自分の手だけで描いた世界観だったんだろう。ただ動員の問題があって、客からのクレームもあって、上から「こうしろ」と言われて、ギリギリ譲歩したのが今回の、凱旋公演だったような気がする。

 「illusion」は、演出家の立場からすると、入れたくない曲だっただろう。

 以上のことを踏まえた上で。最後の最後に、山口さんはどんな「illusion」を歌うのだろうという興味があった。最後だからと、独善的な自分の思いをこめた「illusion」にするのか、それともあくまで、型通りにはみ出さない歌で終えるのか。あるいは、どっちつかず、演出の意図と自分の思いのせめぎあいの中で、中間点に線を引いて歌いあげるのか。

 それを見届けたくて、千秋楽へ行きたいと思った。それだけのために(^^;

 結局行かなかった。だから、公式HPの動画で少しでも雰囲気を味わえればと思ったのだが、「半年間やったんだぞ」という山口さんの言葉が、全てを表していた気がする。「illusion」を聴かなくても、山口さんがなにを考え、どんなスタンスでこの舞台を務めたのか、伝わってくるものがあった。 

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