『エルの絵本 【魔女とラフレンツェ】』Sound Horizon その2

昨日の感想の続きです。

彼は、少年の日に見た理想の少女、「エリス」を甦らせることに失敗し、ラフレンツェは哀しみと愛しさと、そして恨みをこめて残酷な呪いを歌った。

最初からないものよりも、「あったものを失うこと」の方がつらいです。だから、ラフレンツェはまず「エル」を与え、そして奪うという行動に出たのかなあ。

ラフレンツェの呪いは彼の死後にも及び、彼は自分が死んでも「エル」と再会はできず、永遠に彼女を探し続ける亡者となり果てた。彼の愛する「エル」もまた、本当の楽園に上がることはできなかった。たしかに、こんなに残酷な話はありません。ラフレンツェの復讐は成就したといえます。

同時に、ラフレンツェもまた、地獄におちたわけで。

愛した人も、授かった子も、2人ともが苦しんでいるのを知って、ラフレンツェが幸せなはずがありません。

『Elysion~楽園幻想物語組曲~』というタイトルの重さを感じます。

スクリーミング・マッド・ジョージさんが演出したライブの中では、この曲を、作詞作曲したRevoさんが、竪琴の青年=ラフレンツェを裏切る彼、を演じています。顔があまり見えないところがいいです。一心に竪琴を弾いているところが、私の思う「彼のイメージ」にぴったりで。

たぶん彼は、そんなに罪悪感なかったと思うんですよね。ラフレンツェの怒りとか、哀しみとか。結局、呪いの歌を歌われた後も、気付かなかったんじゃないかなあ。ひょっとしたら、「エリスは生き返らなかったけど、エリスの分身ともいうべきエルを授かって、大ラッキー」くらいに、考えていたのかもしれない。

あんまり細かいことなど考えてなくて、単純な面があるような。ごちゃごちゃ人の感情について思いをめぐらすよりも、そのときの自分の感情に素直に従って、あんまり後先深く考えることはなかったような気がします。

逆にラフレンツェは、感情に溺れるというか、深読みしすぎる傾向があるというか。最初に出会った男性が、「彼」であったことが不幸の始まりでした。

あとは坂道を転げるように・・・相手をどんどん好きになっていく感覚。でも現実世界で、相手の意志に反してこれをやればストーカーです(^^;

あまりにも激しすぎる感情は、相手を焼き尽くしてしまうのですね。もっと、もっと、と、満足することを知らず。両思いで、2人で燃え上がってる分にはなんの問題もありませんが、温度差があれば悲劇となります。相手がすべて灰になって、もう燃える要素なんてかけらも残っていない時点で、初めて虚しさに気付くのではないでしょうか。そしてやっと、胸の飢餓感から解放される。

楽園はあくまで幻想であり、どうあがいても手の届かないところにあるのかもしれません。だからこそ、楽園であり続けることができるのでしょう。

『エルの絵本 【魔女とラフレンツェ】』Sound Horizon その1

Sound Horizonの『エルの絵本 【魔女とラフレンツェ】』という曲についての感想です。

ライブ映像だと、表現が直接的すぎてあまり好きな曲ではなかったのですが、映像なしで何度も聴くうちに、ぐいぐい引き込まれていきました。大人な曲なので、18禁だと思いますが(^^;

曼珠沙華の学名がリコリスだと、初めて知りました。この音の響きがなんとも・・・。不思議な響きですね。別世界を感じさせます。

曼珠沙華という言葉で、目の前には群生する禍々しい花のイメージが広がりました。曼珠沙華(彼岸花)が恐いと感じるのは、その派手な色や美しい形にも関わらず、花束に使われることもなく、「異質なもの。通常の花とは別枠」という暗黙の了解があるから?ですかね。

なによりドキリとするのは、葉がないこと。お彼岸の頃、突然赤い花が咲き乱れ、あっという間に散ってしまうイメージがあります。人目を引かずにはいられないほどの赤、それなのに、あるべきはずの葉がどこにもない。

まるで造花をいきなり地面に突き刺したかのように見えるその姿が、心に不安をかきたてるのです。この花はいったい?と。

私が子供の頃、彼岸花はお寺のそばに群生していたので、よけいに、「死」や、「墓」というイメージと繋がるのかもしれません。

毒を持つ植物ではあるけれど、長時間水にさらすことによって毒抜きが可能で、球根は戦時中に食用とされたこともあったとか。

「生」と「死」。二面性を持つ美しい花。その花が咲き乱れて、そして楽園がある。

曼珠沙華は、どちらの世界に咲くのだろう、と思います。

ラフレンツェのいるこちらか。死者の佇むあちら側か。

どちらの川岸にも、同じ曼珠沙華が咲き乱れているのでしょうか。

鮮やかな赤色に、密かに毒を隠して。ラフレンツェの純潔の結界が破られたから、冥府にしか咲かないはずの花が、狂い咲いたとも考えられます。

『Elysion~楽園幻想物語組曲~』というアルバムの中で語られる、楽園への尽きない憧れ。この世界観が大好きです。楽園は救いで、その楽園に手を伸ばして伸ばして、でも届かない。そのもどかしさは、大なり小なり、誰もが経験するところではないでしょうか。

今頃になってわかったのですが、「エル」は、ラフレンツェの子供だったんですね、きっと。そんな気がします。だから『エルの楽園 「→ side:E →」』という曲の中に、男のつぶやきが入っているのかと。

「エル」を溺愛する男が、なぜその母である女性を愛さないと言いきっているのか不思議でした。でもこの「魔女とラフレンツェ」を何度も聴いているうちに、だんだん謎が解けてきたような気がします。

ラフレンツェが、巫女のような女性だったから。

そもそも、彼は最初、ラフレンツェに子供を産ませようとしたのではなく、ラフレンツェの力を利用して、自分が少年の日に恋に落ちた、あの「エリス」を生き返らせようとしたのかなあと。

その辺りはギリシア神話のオルフェウスとエウリディケをモチーフにしているみたいですが、日本のイザナギ・イザナミ神話も彷彿とさせるものがありますね。

ちょっと長くなりましたので、続きは夜12時過ぎにUPします。

『迷路の花嫁』横溝正史著

『迷路の花嫁』横溝正史著を読みました。以下、ネタバレを含む感想ですので、未読の方はご注意ください。

もともと横溝正史の小説はあんまり好きじゃない。特に短編ものは、途中で読むのをやめてしまうほど、私の趣味には合わなかった。映像化された『犬神家の一族』は面白いとおもったけど。

というわけで、あまり期待せずに読み始めたのだが、これは進めば進むほど、どんどん引き込まれる作品だった。

物語は、小説家の松原浩三が、心霊術師の建部多門を追いつめていく、という話です。この多門というのがひどい男で、たくさんの女性が泣かされているのですが、その一人ひとりを松原が救っていく。それも、その場限りではなく、その女性達が長く、幸せでいられるように、キューピット役を務めたりなんかして。

心霊術師の多門は、オカルト商法そのままに、女性達の弱い部分につけこんでいくのですね。

殺人事件が絡んだミステリー、謎解きというよりも、人間模様が興味深かったです。

基本は松原が正義で、多門が悪なんですけども。読後によくよく考えると、松原にも男のエゴ、みたいなものが垣間見えて、必ずしも彼は品行方正な紳士ではないなあと。

多門に囚われていた(軽い洗脳だったと思う)奈津女を鶴巻温泉に連れて行く松原ですが、この辺りの描写が強引なのだ。結局奈津女は、相手が変わっただけで、本当に自由の身にはなっていないから。

そりゃ、多門に比べたら、松原の方がよほどいい人。多門の元で暮らし続けるよりは、松原のところに逃げた方が幸せだと思う。だけど、逃げ出す代わりに、俺のものになれ的な、有無を言わせない強引さはどうかと思った(^^;

結果的には、奈津女は松原を好きになってめでたしめでたしだが、好きでもない相手に迫られるのはどうなの?みたいな。退路を断って、決断を迫るようなやり方が好きじゃないなあ。

松原にとっては、奈津女は好みの女性で、ラッキーという感じだったんだろうけど。弱みにつけこむのって、やっぱり卑怯な気がする。

ヒーローである松原だから許されてるのかもしれないが、これが別の、ぱっとしない普通の人だったら、読者の嫌悪感は相当強いと思う。

私がこの作品で一番好きなカップルは、元軍人の千代吉さんと瑞枝さんだ。千代吉さんは、瑞枝さんを守ろう、大切にしようという気持ちがありありと伝わってきて、かっこいいなあと。最初の頃、瑞枝さんに惹かれながらも、「結婚してください」と言えないその謙虚さが、せつなかったです。

ずうずうしくないところが素敵。瑞枝さんの幸せを祈るからこそ、うかつなことは口に出せない。ただ、自分にできる全力で、彼女を守ろう、役に立とうとするところがいいなあと思いました。瑞枝さんは瑞枝さんで、優しくて、でも正義を貫く人。

自分だけのことを考えたら、もっと楽な方法はあったかもしれない。でも、瑞枝さんは恭子さんとの約束があったから、逃げ出さずにじっと耐えていた。危険を冒してでも、恭子さんや他の人たちを助けようとした気持ちが、素晴らしいと思いました。

奈津女に対しても、「自分のようになってはいけない。早く逃げて」と諭していた。

自分が不幸だから、相手の不幸を願うのではなく。自分が不幸だからこそ、同じような人間を増やしてはいけないと、心を砕く。その優しさが心にしみました。

千代吉、瑞枝、そして蝶太はきっと、いい家族になれるでしょう。

私、瑞枝が火事の夜に、千代吉の家へ逃げてくるシーンが大好きなのです。好きだけど、決して2人の人生が交わることはないと諦めていた千代吉が、思いがけず訪ねてきてくれた瑞枝の姿を目の前にして、どんなに嬉しかったかわかるから。

私も昔、もう会えないとわかっていた人と、思いがけず再会して本当に嬉しかったことがあるので。そのときの自分の気持ちが蘇って、胸にじーんときました。千代吉の気持ちがわかります。

信じられないという気持ちと、相手が今、目の前にいるのだという現実と。

きっと千代吉も濁流のような歓喜の感情に全身を震わせて。目の前にいる人の顔を、ただただ見つめていたんだろうなと。

千代吉からは、言えないですもん。千代吉は、何も言える立場じゃない。幸せにできる自信も根拠もなくて、だから、一方的に焦がれて、瑞枝の幸せを祈るしかなくて。

でもその瑞枝が自ら、来てくれたのです。まさに奇跡。

本来の主人公である松原よりも、千代吉や瑞枝に感情移入してしまった作品でした。

『火の粉』雫井脩介著

『火の粉』雫井脩介著を読みました。以下、ネタバレ有の感想ですので、未読の方はご注意ください。

すごい本を読んでしまった。一気に読み終えてため息。人物の描き方が非常にリアル。「あーいるいる、こういう人」と思った。

ある事件の被告人に、無罪判決を出した裁判官。はたしてその被告人は、本当に冤罪だったのか?というお話なのですが、主人公の裁判官とそれをとりまく家族・友人・仕事仲間、みんな個性的で、きれいごとではない人間の腹黒さがうまく描かれてました。

話全体にいろんな要素が盛り込まれていて、それを掘り下げていくと、枝分かれしたたくさんの話が書けると思います。その一つが介護問題。

主人公の勲。その妻である尋恵は、夫の母である義母を懸命に介護するのですが、報われません。たまにやってくる小姑の満喜子は、尋恵の介護が気に入らず嫌味を言います。

読んでいて、これはどこにでもある問題だなあと思いました。たまに来る人なら、いくらでも綺麗ごと言えるわけですよ。でも毎日、自宅で介護する人の大変さを知っていたら、そんなこと言えた義理じゃありませんよね。尋恵はいつか姑に、最終的には認めてもらえるのではと思って意地でも完全な介護を成し遂げようとがんばってるようですが、思わず声をかけたくなりました。

たぶん無理。

介護されてることに感謝の気持ちがない人が、臨終間際に「感謝してる。ありがとう」なんていうのは滅多にないことです。尋恵は満喜子への意地もあって、隙をみせないようですが、どんどん頼っていいんだと思います。

満喜子が尋恵の介護を気に入らないというなら、「すみませんお義姉さん。それじゃお義母さんも喜ぶと思いますんで、しばらくお義母さんをお願いしますね」ってやらせてみればいいんです。

姑も尋恵が気に入らない。満喜子も尋恵が気に入らない。だったら、気にいったもの同士、思うようにやってもらったらいいではないですか。

勲に無罪判決をもらった武内が、尋恵に急接近したのはわかるような気がしました。尋恵の真面目さだとか、純真さが武内には心地よかったのでしょう。

この武内の描き方がまた、秀逸です。

これ、実際に存在するタイプの人間だと思います。天性の嘘つき。詐欺師。嘘をつくことに、なんの罪悪感も感じないという人間。

武内を中心に、周囲の人は面白いように振り回されていきます。

まさか、こんなに真剣に話してるんだから嘘のはずはないだろう。まさか、そうまでして嘘をつくことはないだろう。まさか、まさか・・・。

自分を中心に考えると、大きな穴に落ちてしまいます。

世の中には、想像もできないような天性の悪人というのがいるわけで。

たぶん、普通の人は、嘘をつく行為に、自動的に罪悪感をもつんですよね。ところが世の中には、それをまったく感じない人間がいる。「罪悪感なしに、自在に嘘をつける」人間がいることを知らなければ、たやすく騙されます。

武内に殺された被害者の遺族、池本夫妻が、武内と直接対決するシーンはせつなかったです。武内の罪の意識のなさは、周囲の人間の信用を勝ちとり、まるで池本夫妻が被害妄想を持っているかのようになってしまって。あせればあせるほど、腹を立てれば腹を立てるほど、その感情の揺れを武内が利用していく。池本夫妻が歯軋りするほど悔しくても、周囲は誰も理解してくれない。

この本の凄さは、最後の最後まで気が抜けない展開です。

本当にドキドキしっぱなしでした。どっちに転がるのかわからなくて。いくつもあるチャンスが、そのたびにつぶされ、もうダメかと思った瞬間にまた、光明が射す。

まるでドラマを見ているように、そのときの情景が目に浮かぶのです。読み手は危険がわかっているので、思わず「逃げて~」と言いたくなってしまいました。

最後の1ページに至るまで、一気に読ませる力量はすごいと思いました。この作者の、別の作品も読んでみたいです。

塵が彗星を想う話

彗星が太陽に近付いたとき、一部の塵(ちり)が放出されて。

その塵が、地球の大気に突入したとき、光を放ちます。

塵の故郷は、遥か遠い彗星。

彗星の公転軌道はさまざまですが、なにぶん宇宙のことなので、

とんでもなく大きいんです。

彗星の落とし子である、小さな塵。

それが光って、流れ星として私達の目に映るとき、

母天体である彗星は、はるか彼方。

再び太陽の近くにやってくるまでに、数百万年かかるものもあるとか。

彗星の軌道は不安定で、二度と太陽のそばへ

戻ってこないものも、あるんだそうです・・・。

大きな彗星から、はぐれてしまった一部の塵。

それが地球の大気に突入したとき、ほんのつかの間、光を放つ。

それを見て、私達は「きれいだなあ」と心を躍らせます。

心の中で、願い事を唱えたりして。

でも光が消えないうちに、3度唱えるのは難しい。

つかの間の、とても美しい光です。

暗い夜空で、私達の目を釘付けにさせる光です。

見た人の心に、暖かな灯りをともすような光です。

たとえ、3度の願いを言い終えるまでに消えてしまっても、

明日はなにかいいことがあるかもしれないと、

そう思わせる光なのです。

塵は、彗星のことを思い出すかもしれません。

自分達を放り出し、そのまま振り返らずに行ってしまった

母天体の彗星のことを。

母天体には、圧倒的多数の塵がある。

わずかな塵がなくなったところで、

大きな母天体、彗星にはなんの変わりもない。

いえ、もしかしたら、塵は自分から飛び出したのかもしれないですね。

太陽に近付いたとき、その光に憧れて。

暗い大きな宇宙空間の中で、太陽の光はまぶしく、

塵を魅了したのかもしれません。

理由がどちらであったとしても。

彗星は、一部の塵を残したまま旅を続ける。

塵は思うのです。

取り残された自分達こそが、マイノリティ、異端者、はぐれ者。

ときに、塵は寂しいような気持ちにもなるのです。

いつ戻るかもわからず、もしかしたら二度と戻らないかもしれないけど、

でもどこかで待ち焦がれ、求めてしまう。

彗星の帰る日を。

いつか、そんな日がくるかもしれない。

去っていくのと、見送る方と。

どちらが寂しいのかなあ、なんてことを考えてしまいました。

私が塵だったら、太陽の傍で、やはり彗星から飛び出したでしょう。

彗星から見れば、去っていくのは塵の方で。

塵から見れば、去っていくのは彗星の方で。

塵が流れ星になって。

それを見た大勢の人がほんわかと幸せな気持ちになったこと。

塵に伝えられたらいいのになあと、そう思いました。