小説『レベッカ』の感想です。ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。
昨日のブログでは大久保康雄訳と、茅野美ど里訳を比較し、私は結局大久保訳の方が好みだという結論を書きました。でも、茅野訳にもいいところがあります。
それはなんといっても、読みやすさ。堅苦しくないので、さらさらっと読めますね。
それと、訳とは関係ないのですが、本の装丁は茅野版(単行本)の方がいい感じです。暗い部屋に、わずかに光が差している写真。ほんの少しだけ、外界に向けて開かれているだろう窓から入る、新鮮な空気の匂い。ぼんやりとうかびあがるソファ。カーテンタッセルの鈍い金色。
きっと窓辺に立てば、海が見えるのでしょう。静かな室内。レベッカの気配を色濃く残した、時間のとまる部屋。
装丁は、断然、茅野版(単行本)に軍配が上がります。大久保版は、私が読んだのは文庫だったのですが、抽象的なマンダレイの屋敷内?の絵のようで、ピンときません。絵とよぶのもどうかな?というような、銀色の線の書きなぐりというか。
よく目を凝らせば、その線はシャンデリア、階段、仮装舞踏会の招待客を描いているようにも見えますが、あんまり抽象的すぎて、想像がふくらみません。
その点、茅野版の写真には、マンダレイのお屋敷の一部をリアルに感じることができます。あの部屋の中に立ったなら、どんな気持ちがするでしょう。懐かしいような、せつないような、不思議な気持ちになりそうです。
茅野美ど里さんの訳は現代的で、かなり読みやすかったです。あらためて『レベッカ』を読み通しました。正直、原文や大久保訳を読んだときには、読みづらく感じた部分は多少雑に読み飛ばしてしまったので。茅野さんの文章だと、そんなことはなく、すべてスラスラと読めました。
訳者略歴を読んで、なんとなく納得です。茅野さんは、アメリカで生活していた時期があったのですね。ヨーロッパでなくアメリカでの生活ということで、それが文章にも表れているような気がしました。太陽が似合う、明るいイメージです。
マキシムの口調も、アメリカの青年っぽい感じだと思いました。
マキシムが「わたし」を選んだ一つの理由には、「御しやすさ」があったのかもしれないですね。御しやすさは、安心感につながります。こう書くと、マキシムがいやらしい人間のようにも響いてしまうかもしれませんが。
あまりにも聡くて、相手の心をわかりすぎてしまう女性だったら。疲れてしまうだろうし、マキシムの心にある秘密をたやすく暴かれてしまいそうで。
だからマキシムはモンテカルロの食堂で、「わたし」の純朴さと、物事を見抜く目の、経験値のなさに惹かれたのかもしれません。
やがて「わたし」がたくさんのことを経験し、一つずつ年をとっていけば、いつかは女性特有の勘も、処世術も磨かれていくのでしょうけども。あのときマキシムの前にいた「わたし」はウブで、生まれたてのヒヨコのように見えたのかもしれません。この女性なら、自分の心深くしまいこんだあの痛む傷口に、気付くことはない、探りをいれることはない、と、マキシムの防御本能が囁いたのかも。
そして、ふしだらさとは対極の位置にいたということ。ふしだらの意味さえ知らないように、その清純さが輝いて見えたのでしょう。このことについては、後にマキシム自身が、「わたし」に語り聞かせていましたね。
>ぼくとしてもきみには知らないでいてほしいことがあるんだ。
>教えたくないから鍵をかけておきたいんだよ。
結婚を決めた理由が、そこにもあったのだと、マキシムは言っていました。この気持ちは、わかるような気がします。レベッカとの暮らしに疲れ果ててしまったからこそ、「わたし」の無知な部分に、安らぎを求めたのですよね。
だから、余計な知識などつけてほしくない。あのレベッカと同じ表情を浮かべて、同じ振る舞いをする日が来ないでほしいと。
マキシムには、「わたし」のすべてが見えていた。少なくとも、結婚の時点では。そして、そのまま変わらないでほしいと願う。自分の知らない「わたし」が垣間見える瞬間を、ひどく恐れてる。もしかしたら「わたし」が無垢であるのは、若さというそれだけの理由ではないかという気持ちがあって。
蛹が蝶になるように、どんなに注意深くしていても、その変身は静かに、確実に起こっているのではないかと。おびえるマキシムの心は、よけいに頑丈な鎧をまとうから、そのことがかえって、「わたし」の不安を煽る。そして、2人の心はすれ違っていく。
長くなりましたので、続きは後日。