『レベッカ』観劇記 その6

 昨日のブログの続きです。舞台『レベッカ』を見た感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 マキシム役の、山口祐一郎さんについて。

 前回見たときに気になっていた、感情が激したときの甲高い声が、全然目立ちませんでした。意識的に低くしたのでしょうか? それとも見ている私のとらえ方の問題なのか? ともかく、この点は、今回全く気になりませんでした。

 モンテカルロのシーンでは、全体的に「陰」を感じないのが残念でした。これ、とても勿体ないと思いました。山口さんは、陰を漂わせるのが上手な役者さんだと思うのに・・・。

 モンテカルロでのマキシム。絶対、落ち込んでいたはずです。そして物思いにふけっていたはずです。ふとした瞬間に、心はいつも、マンダレイに飛んでいたり。レベッカの面影を甦らせて、苦悩していたはずなのに、そういうところがあまり伝わってきませんでした。

 普通に陽気な紳士に見えてしまったのです。煩悶が見えなかった。煩悶、とまで言ってしまうとやりすぎになってしまうのかもしれませんが、ともかく、あまり謎めいたところを感じませんでした。

 ヴァン・ホッパー夫人に呼ばれたときは、もっともっと迷惑そうでもいいんじゃないかなと。紳士だからご婦人の招待は断らない。でも、内心は独りになりたがってるし、ずかずかと遠慮なしに踏み込んでくるヴァン・ホッパー婦人の無神経さを見下している、みたいな。声にもっと、冷たさがあったらよかったなあ。

 それと、「わたし」に興味を示すシーンが、普通の「若い女の子に目を奪われる男」に見えてしまって、それはちょっと、どうかなあと思ってしまいました。

 たぶん、マキシムは最初、ヴァン・ホッパー婦人にアゴで使われている少女に、同情したんだと思うんですよね。それで、義侠心みたいなもので、「わたし」に優しくしたところがあったんだと思うんです。それは全然、恋愛とは関係のないところで。

 だけど山口さんのマキシムを見ていると最初から、恋愛モードっぽい枠で、「わたし」を見ているように、興味をもっているように感じられて、それがちょっと違和感を感じてしまいました。マキシムは、そんなに簡単に心を動かされる人じゃないだろうと。もともと真面目な人だと思うし、ましてレベッカにつけられた傷が癒えていない段階ですから。

 マキシムと「わたし」の間に、最初からあまり壁がないように感じてしまうのも、残念でした。マキシムは始めのうち、「わたし」に対して特別、大きな期待もしていないし、年齢差も感じていたと思うんですよ。しょせん、年の離れた子供、みたいに思っているところがあって。女性として意識しているより、子供という意識が強かったんじゃないのかなあと。

 モンテカルロではもっと「わたし」との間に一定の距離をおいて、他人行儀に接していた方が、紳士としては自然ではないかなあと思いました。舞台を見ていると、少しなれなれしさ、みたいなものを感じてしまいました。

 「わたし」は、雇い主の女性に見下されてる、ちっぽけな女の子。連れ出してあげれば、本人も気晴らしになってうれしいだろうし、自分にとっても、独りでレベッカの思い出と対峙するよりは気が楽。双方、得になることなんだから、という気楽な思いつきで、マキシムは「わたし」を、思い出の丘(崖?)に連れて行ったのかなあって。

 それが思いもかけず、そのちっぽけな女の子が自分を慕ってくれて、どうやら恋しているようで。熱っぽい目でいつも、自分の姿を追いかけている。レベッカからは、決して得られなかった熱情。そりゃ、マキシムだって思われて悪い気はしないだろうし、一途な姿についほだされて、キスしちゃったのかなあ。

 いやーしかし、そのキスが、まさに、とどめを刺す一撃になってしまったわけで。罪深いことをしたものだと思います。あの状況でキスされて、「わたし」がマキシムを忘れられるはずもなく。マキシムにしてみたら、あの時点では結婚なんてまったく考えていなかっただろうし。つい、衝動的に、愛おしくてしてしまった軽いキスだったのでしょうが。

 「わたし」にしてみたら、人生の分岐点ですよ。たぶん初めてキスしたんだと思う。本当はマキシム、大人の分別があるなら(結婚する気もないなら)、あんなとこでキスなんてするなよ~と思っちゃうわけですが、まあ結果的には、流れで結婚することになってよかったのかな(^^;

 「わたし」がマキシムを見つめる、その視線の熱さは一幕も二幕も変わらず。むしろ時の経過とともに強くなっていくわけですが。真相の告白を受けた後では、さらに愛情は深くなったとさえ思うのですが。対するマキシムはどうでしょうか。

 確かに、マキシムは「わたし」を好きだと思う。愛してるのかもしれない。だけどその愛は、「わたし」がマキシムに注ぐものとは、異質のもののように感じました。

 「わたし」は可愛いです。あんなに真っ直ぐに、あなたが好き光線を発射され続けたら、そりゃあもう、ある意味、マキシムは救いを求めるような気持ちになってしまうと思う。だけどマキシムの声は、「わたし」に恋していなかった・・・ように聞こえました。

 マキシムはもしかしたら、許してもらえる相手を探していたのかもしれない。全部を知った上で、受け入れてくれる相手。自分以外の誰かに許してもらうことによって、レベッカの死、自分の罪を忘れたかったのかもしれない。

 「わたし」が告白の後にも、態度を変えなかったこと。両手を広げてマキシムのすべてを受け入れてくれたこと。そのことがどんなにか、マキシムを癒しただろうと思います。彼はたった一人で、レベッカの影と戦っていたから。

 だけど、マキシムは「わたし」を本当の意味では愛さなかった。最後まで・・・。というのを、今回の観劇で感じましたね。

 かみ合わなさ、のようなものが伝わってきたというか。ああ、本当に好きな相手ではないんだなと思わせる空気があったというか。マキシムと「わたし」を見ていたら、「わたし」が片思いをしているようにも思えました。

 たぶん「わたし」は気付かない。「わたし」の目には、マキシムのすべてが見えていない。

 山口マキシムの歌は、やはり今回も凄かったです。

 山口さんの歌を聴くと、心が震えるんですよね。自分の感情がざわざわと波打っていくのがわかる。あの声。なんて声してるんだろうと思う。やっぱりその声は特別で、胸に響きます。

 「ああ強くなろう」という歌詞のところが、特によかったです。マキシムが心底、そう思っているのが伝わってきて。

 マンダレイ炎上シーンの歌のところでも、父から受け継いだ誇りうんぬんという言葉があったと思うのですが、そして、ベアトリスの言葉にもあったと思うのですが、マキシムは名門の跡取りだったから。

 幼い頃から、弱音を吐くことを恥として育てられたんじゃないでしょうか。恐さや弱さをぐっと飲みこんで、どんなことに対しても、たった一人で戦ってきたんじゃないかと。

 レベッカに出会い、そのキラキラした生命力に惹かれ、彼女と結婚して彼女になら、自分の弱さを打ち明けられると思った。きっとレベッカは豪快に笑い、マキシムの悩みを軽々と、半分背負ってくれるのではないかと、そう期待する部分があったんではないでしょうか。

 だけど駄目だった。だからマキシムはやっぱり、独りで戦わなくちゃならないと思った。強くならなくては。自分がマンダレイを背負っているのだから、誰にも弱さをみせるわけにはいけないと。そんなマキシムが、自分に言い聞かせるように歌っている「強くなろう」という言葉。

 「わたし」にレベッカの死の真相を告白する歌、『凍りつく微笑』も迫力でした。マキシムが冷静さを失い、感情に流され、その理性のほころびから垣間見えるレベッカの姿。

 「ねえ、子供ができたら嬉しいでしょう」という言葉にこめられた、ぞっとするほどの悪意。レベッカの浮かべた、氷のような微笑が想像できました。

 マキシムが両手を天に差し伸べるようにして歌うところ、その姿がよかったです。

 「わかってた。わかってた。彼女の勝ちと」その悲痛な、マキシムの叫び。レベッカの影に長いこと苦しめられ、抗い続け、そして敗北を認めざるを得なかったマキシムの悲鳴。勝ち目のない戦いだったのだと、その苦しさを爆発させています。

 エピローグ。地中海でのその後の生活を歌う、「わたし」の背後。窓ガラスの向こうから、緑のライトが差し込むようなセット。これは夢に出てくるマンダレイのお屋敷を表しているのでしょうか。この雰囲気がすごく素敵なのです。

 どこか懐かしい、せつない、幻想的な光。

 「わたし」は幸せだったのだろうか。マキシムはきっと、「わたし」以上に何度も、あのマンダレイの夢をみたに違いないと思います。

 「わたし」が、うなされるマキシムの声に目を覚まして、隣で眠るマキシムの寝顔を見たとき。月光に照らされたその寝顔を、どんな気持ちでみつめただろうと、そう思うのです。

 まだまだ進化し続ける舞台、『レベッカ』。6月に入ったら、もう1度見ようと思っています。どんな新しいレベッカが見られるのか、とても楽しみです。 

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