『レベッカ』観劇記 その7

 舞台『レベッカ』を観て、思ったことを書いています。ネタバレを含んでおりますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 寿ひずるさん演じるヴァン・ホッパー夫人が、マキシムをお茶に誘う場面。

 

 お茶に誘われたマキシムが、嬉しそうに見えてしまうのは私の目の錯覚だと・・思いたい(^^;

 ここはちょっと、どうなのかなーと思いました。マキシム、すっごく元気で、嬉しそうなんですもん。「迷惑ちゃうんかい!」と、ツッコミを入れたくなってしまいました。もっと、嫌そうな感じがでるといいなあと思いました。冷たい、感情のない声で。慇懃無礼な態度で。ヴァン・ホッパー夫人以外には明白な、拒絶の色が漂うといいなあと。

 そうすれば、マキシムの孤独感が浮き彫りになるし、ヴァン・ホッパー夫人の空気の読めなさぶりがもっと、明らかになるし。二人を前にした「わたし」の戸惑いも、観客にはわかりやすくなるだろうなと思うのです。

 ヴァン・ホッパー夫人に対しては冷たい目を向けていたマキシムが、「おや、この子はスキャンダル好きのご婦人とは、毛色が違うようだぞ」と、「わたし」に興味を持つ流れが、自然にできますよね。

 夫人という共通の敵(そこまでは言い過ぎかもしれませんが)を前にして、マキシムと「わたし」の間に、妙な仲間意識が生まれる過程も、わかりやすく描けるだろうし。

 それと、荷解きはもうしたのか?みたいなことを尋ねる夫人に対して、マキシムはもっともっと、嫌味で返してもいいんじゃないかと思いました。最初こそ、紳士的な態度を最低限保っていたものの、もううんざりだ、やはりここに座ったりするんじゃなかったくらいの、強烈な嫌味を。「あなたがやってくれるんですか」みたいなセリフでは、嫌味度が足りないような気がします。

 舞台を見ていると、この時点ではあんまり、マキシムが嫌がっていないように思えてしまうんですよね。軽く、皮肉で返してみました的な、むしろ言葉の応酬を楽しんでいるような。怒っているようにも見えないし。

 モンテカルロでのマキシムに、苦悩の影が見えない、足りないというのは本当に惜しいです。これはやっぱり演出なんでしょうね。

 全体的に、サクサクと場面の展開にスピード感があって。いろんな場面を限られた時間に詰め込んでいることと、それから結婚までの流れが劇的なものであったということを表現したい意味でも、じっくりとマキシムの暗い表情を見せる余裕がないのかもしれないと思いました。

 セリフを言う速度も、速いように感じるのです。モンテカルロでは、歌でマキシムの心境を表現することがない分、もっと含みを持たせた、無言の表現がたくさんあるといいなあと思ってしまいました。その含みが、マキシムという人物を不可解で謎めいた存在に作り上げるはずです。

 時間の制約があるから、仕方ないんでしょうね。

 山口さんが自分の判断で、セリフをためたり、間をとったりするわけにはいかないわけで。この辺は、演出の山田さんの指示があるんだろうなと想像しました。

 マキシムと「わたし」の地中海での生活は、それなりに楽しく、しかしレベッカとマンダレイの過去を拭いきれない、にも関わらずそのことをお互いに口に出して語りあうことのない、妙な遠慮と距離感のある中でのものになったと思います。

 それは、舞台の後半に強くあらわれる、マキシムと「わたし」の温度差なんですよね。

 これは、私の個人的な感想なので、もちろんいろんなとらえ方があって当然だと思いますが。私は舞台の山口マキシムが、レベッカほどには「わたし」に魅了されていないと思ったし、だからこそ必死な「わたし」が、けなげにも見えたのです。

 いいとか悪いとかではなく。努力すれば愛されるというものでもなく。

 ただ、マキシムの心を動かしたのは、「レベッカ」だったんだなあって。

 もちろん苦しみも憎しみも与えたけれど。それでもなお、マキシムはレベッカに囚われ、どうしようもなく愛している一面があったんだろうなあと。

 それに。いやらしい言い方になってしまうけれど、「わたし」がマキシムの弱みを握ったというのもまた事実なわけで。「わたし」はマキシムの秘密を知ったがゆえに、マキシムは永遠に「わたし」を裏切れないわけです。

 裏切れば破滅です。

 別に「わたし」が声高にそれを叫ばなくても、マキシムにはわかっているはずです。2度目はないということ。

 「秘密」を握って、強くなった「わたし」。

 揺るぎのない、妻という地位。マキシムは生涯、「わたし」のもの。なぜなら「わたし」だけが、マキシムの大きな秘密を知っているから。「わたし」だけが、彼の共犯者だから。

 秘密を共有することで、「わたし」は妻以上の存在になってしまった。

 いえ、共犯者というような、対等な立場ではなく、むしろ「わたし」の方が上かもしれない。汚れた手を持つのはマキシムで。「わたし」は直接レベッカの死に関わったわけではないから。ただ、口をつぐんでいるだけですから。

 マキシムはいつか、そのことを重荷に感じる日がくると思う。でも逃げられない。だから死んだ目をして、地中海で余生を過ごす。そしてマンダレイの夢をみる。

 咲き乱れた花々、広い屋敷での日々。そして、レベッカのことを。

 愛したマンダレイも、レベッカも、遠い過去で。でも地中海での、老人のような暮らしよりはずっと、鮮やかな記憶で。

 エピローグの山口マキシムが沈鬱な表情にも見えるのは、レベッカの死について、新事実を知ってしまったからだと思いました。

 マキシムは、レベッカに同情したのでしょう。

 重い病気に侵された運命。そして、自ら死を選んだその心に。

 レベッカもまた、苦しんでいたということを知ったから。もちろん、彼女の死に関しての責任の度合いが軽くなったということに関しては、ほっとした部分もあったでしょうが。

 同時に、わかってしまったんだと思います。

 ただの傲慢な女性ではなかったこと。夫を欺き、高笑いしていて殺されたわけではなく。そうすることでしか救われなかった、救いを求めた、弱さを持った女性であったと。

 本当に自分本位で強い人なら、余命がわかった時点で、好きなことをして過ごしたと思うんですよね。もう、ミセス・ド・ウィンターとして体面を保つこともないし。

 買い物三昧、旅行三昧、あるいは人目をはばからず、愛人と遊びまわるか。

 いくらでも選択肢はあったでしょうに、それをしないで、レベッカは自分の命をマキシムの手に乗せたから。

 その心境を思えば、感じるところはあったと思います。マキシムだって、レベッカに対しては憎いというだけの気持ちではなかったはずです。いろんな気持ちが渦巻いて、複雑で、怒りや憎しみが表面には出ていただろうけどその奥底で、核の部分では深く、愛していたのではないでしょうか。

 山口さんの演じるマキシムを見ていたら、そんな風に思いました。

 長くなりましたので、続きは後日。

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