『レベッカ』観劇記 その8

 舞台『レベッカ』を観た感想を書いています。前回の続きです。ネタバレしていますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 シルビアさん演じるダンヴァース夫人に関しては、2度目の観劇のときには、恐いとも不気味だとも思いませんでした。むしろ、可哀想、という気持ちになってしまいました。

 あれだけの歌を毎日のように、1日に2公演歌い続けるということも、関係しているのかもしれません。毎回全力というよりは、やはり力加減は調整せざるをえないでしょうし。それは別に、手抜きとかそういうことではなく。やはり、無理なものは無理ということです。もう少し公演回数が減れば、それだけ迫力も増すことになるんだろうなと思いました。もしくは、Wキャストにすれば、喉への負担は減るかもしれない。

 

 ダンヴァース夫人。「わたし」を憎んでいるというよりも、普通の、自分にも他人にも厳しい人に見えてしまったところがあって。

 冷たい、眉ひとつ動かさないような表情は、家政婦頭なら、さもありなんという感じです。人を束ねるということは、ナメられないということが大前提でもあるし。年若いメイドさんと仲良くキャッキャと働くなんてことはありえないわけで。

 マンダレイという大きなお屋敷を取り仕切るためにも、ダンヴァース夫人が厳しい表情で、毅然とした態度でいるということは、当然といえば当然ですよね。

 人によってはまあ、人懐こい家政婦頭というのもありなのかもしれませんが、一般的なイメージでいえば、少し厳しい感じの人が多いのかなあと。ああいったお屋敷を取り仕切るにあたっては。

 だから、特別ダンヴァース夫人が、「わたし」に対してひどい人だった、ものすごく厳しい人だった、というのは違うかなと。

 仮装舞踏会での一件はたしかに、あの件に関しては意地悪でした。

 しかしこれも、「わたし」がもう少し気遣いのできる人であったなら、簡単に防げた幼稚な策略だったわけで。

 ダンヴァース夫人が、「わたし」に悪感情を抱いていたのは、「わたし」自身が感じていたのに、なぜ夫人の言葉を素直に信じたのでしょう? アドバイスはアドバイスとして受けて、その上で、他の人に相談することもできたのに。たとえばベアトリス。彼女なら少なくともダンヴァース夫人よりは信頼できますし、マキシムに当日までドレスを内緒にする、ということだって可能なわけで。ベアトリスに相談するにあたっては、なんの問題もありません。それをしなかったのは、あまりにも「わたし」が迂闊すぎたように思うのです。

 ダンヴァース夫人はもしかしたら、「わたし」の、ミセス・ド・ウィンターとしての力量を試そうとした部分があったのかもしれない。まさか、こんな簡単な罠が見抜けないはずはないだろうと。これに引っかかっているようでは、マンダレイの女主人の役は務まらない。

 そして、この一件でマキシムを怒らせてしまった「わたし」がダンヴァース夫人をなじり、2人が対決する場面。ここの場面では、もう少しダンヴァース夫人の迫力が欲しかったです。

 ダンヴァース夫人に、殺気を感じませんでした。憎しみはあったし、気に入らない、という感情は伝わってきましたが、それ以上に発展するドロドロしたものはなくて。だから、階段を上り、「わたし」を追いつめていくところが、単なる喧嘩のような、ちょっとしたいさかいシーンのように見えてしまった。狂気に駆り立てられたダンヴァース夫人が信号弾の音で我に返るときの、空気の違いも際立たなくて、それが少し残念でした。

 ここは表面上、「わたし」を慈母のような優しい笑みで追いつめると、かえって狂気が強調されて恐さが増すだろうなと思いました。いつも無表情なダンヴァース夫人が、優しく「わたし」を追いつめていくのです。なぜ逃げるの? なにも恐がらなくていいのよ? みたいな。

 普段自分を苛めていた人が、満面の笑顔で自分に近寄ってきたら。これはゾっとしますね。「わたし」が初めて見るダンヴァース夫人の笑顔。普通じゃないっていうか、その笑顔の向こうに果てしない闇を見る。怒った顔よりも、数段恐いと思います。

 それでこの場面は、ダンヴァース夫人が職を賭した勝負のときだと思うんですね。自分の主人に対して、失礼な、卑劣な罠を仕掛けたわけですから。しかもそれを平然と認めて、謝りもせずに逆に「わたし」を責める。

 解雇も視野に入れた上での、行動です。このときを逃したら、次のチャンスはないかもしれない。「わたし」を消すには、今このときしか・・・。

 その決意とか覚悟が、もう少し歌に乗るといいなあと思いました。

 長くなりましたので、続きは日付が変わってからUPします。

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