『レベッカ』観劇記 その9

 昨日の続きです。舞台『レベッカ』を観てその感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 実は私は、以前はマキシムがダンヴァース夫人を解雇しなかったことを、不思議に思っていたんですよね。マキシム自身、ダンヴァース夫人にいい感情を持っていなかったのは、「わたし」に初めて彼女を紹介するシーンで明らかですし。

 マキシム自身が嫌っていて、しかも彼は「わたし」がいじめられるであろうことをわかっていたはずなのに、なぜそダンヴァース夫人は、家政婦頭であり続けることができたのか。

 これは、今ならなんとなくわかる気がします。人の上に立つポストって、向き不向きがあって。いかに部下をうまくとりまとめるかって、できる人とできない人がいるわけで。

 人がいい、愛想がいい人間に家政婦頭が務まるかというと、そういうわけではない。

 名門のお屋敷で、瑣末な備品の管理や定期的に開かれるパーティでの招待客の選定、もろもろをいかにうまく取り仕切るかということ、これはかなりの技量が必要になります。たとえその管理能力のある人物がたまたまいたとしても、新しい環境で、前任者からの引継ぎは必須ですし。

 突然に、ダンヴァース夫人を解雇することはできなかったのですね。マキシムには苦々しい思いや、言いたいことはあったでしょうが、当面は彼女に頼ることしかなかったのかなあと。

 それに。これは私の想像ですが、レベッカがマンダレイにやってくる前にいたはずの家政婦頭は、たぶんダンヴァース夫人と、ひと悶着あってその交代劇のゴタゴタに、マキシムはうんざりしているんではないかと。レベッカのことですから、お嫁入りしたその日から、自分のメイドのダンヴァース夫人が家政婦頭になるよう、あらゆる策略をめぐらせたはずです。

 そして、長年マンダレイを取り仕切ってきたはずの、家政婦頭は「わたし」のように軽く手玉にとれる小娘ではなかったはずで。

 長年努めたであろう、家政婦頭を慕うメイドも多かったかもしれません。以前の家政婦頭が辞めるとき、新参のダンヴァース夫人が跡を継ぐのに反発して、共に辞めていったメイドも少なからずいたはずです。マンダレイに巻き起こった、嵐のような家政婦頭の交代劇。

 マキシムの脳裏に、その経験は生々しく残り。できることなら、なるべく平穏な日々を、せめて心の傷がもう少し癒えるまで、屋敷の管理や他のことに心を惑わされたくないと願うのは、自然な流れだったのかもしれません。

 ダンヴァース夫人はマキシムや「わたし」に対して、多少慇懃無礼なきらいはありますが、それでも、家政婦頭としては、有能ではあるのでしょう。メイドたちを、とりまとめること。メイドたちに一目置かれる存在であること。これらのことに関しては、文句のつけようがありません。

 そして、間違ってもメイドたちと仲良しごっこはせず、使用人の造反劇の先頭に立つようなことはありえませんしね。

 雇い主にしたら、それが一番、困ることですから。家政婦頭が、主人に代わって使用人に睨みを効かせてくれたら、それだけで家政婦頭の役割を8割は果たしていることになる。

 ここまで書いたら、ますますダンヴァース夫人が悪人に見えなくなってきました。 (^^;

 ダンヴァース夫人にしてみたら、踏んだり蹴ったりなんですよね。崇拝していたレベッカの死があり。新しいミセス・ド・ウィンターを追い出そうにも、反撃されて、逆に自分が職を失う危機に陥り。その上、レベッカが自分を本当には認めていなかったのだという衝撃の真実を知らされ。

 もっと意地悪っぽいダンヴァース夫人なら、憎たらしいとも思うのですが、シルビアさんの演じるダンヴァースは、姿も歌声も、いい人に見えてしまいました。厳しいけれど、邪悪な感じがなくて。

 レベッカに翻弄されたという意味では、マキシムとは同じ被害者の立場にもなるわけです。

 この『レベッカ』という舞台。

 1度目の観劇時には、マキシムVS「わたし」VSダンヴァース夫人だと思っていました。トライアングルで表現される物語なのだと、思っていました。しかし2度目の観劇で、レベッカの影がマンダレイ全体を覆っているのを強く感じたのです。レベッカはトライアングルの背景というよりも、三角形の頂点の一つでした。

 レベッカは、ダンヴァース夫人のことなんてもはや、見ていないのだと思いました。彼女にとっての執着は、マキシムです。そしてマンダレイなのです。ダンヴァース夫人は、そこに絡んでくる存在ではない。だから彼女の視界に、ダンヴァース夫人は入っていない。

 レベッカの聖域である、マキシムの居るマンダレイに入りこもうとする者は、誰であれ排除しようと、彼女は死後もなお身構え、戦闘態勢のまま息を潜めてる。

 レベッカが見ているのは「わたし」。そして、「わたし」はレベッカの視線を真っ直ぐに受けとめ、対等に挑もうとしている。そんな2人の傍らにはマキシムがいて。

 三角形を描くのは、マキシムとレベッカ、そして「わたし」だったんだなあと。

 そしてさらに、それを深く掘り下げたなら。

 それはマキシムとレベッカ、2人の物語なのかもしれません。

 舞台を見て、そんなことを思いました。

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