行く春に

 お昼休みにビルの外へ出たら、今にも降りだしそうな暗い空。その光の加減と、嵐の前のような静けさに、ふと胸を衝かれた。実際には、街には人のざわめきと車のエンジン音が、いつものようにあふれているのだけれど。

 まるでチャンネルを切り替えたみたいに、聞こえてるけど、聞こえてない、みたいな。日常の音はそこにあるけど、まるで別の次元にある、他人事のようだった。

 そんなことより、この暗い空。

 雨を予感させる灰色の雲。懐かしい胸の痛み。

 雷が鳴るんじゃないかと予感するほどに、辺りを支配する不穏な空気。

 ああ、あのときもこんな雲の色だった。

 雨が降り出すのを、軒下で眺めてたなあ、と思い出す。

 こういう感覚、好きなのである。痛いんだけど、嫌いじゃない。どこかでワクワクしている自分がいる。

 ときどきあるこの感覚は、本当に不思議だ。

 それは音楽だったり小説の一節だったり、誰かの語る言葉だったり。たまたま通りすがり、見かけただけの建物の佇まいにも、同じ刺激を受けることがある。

 郷愁というのが、一番正しい表現なのかなあ。ノスタルジィ。甘くて苦くて、時間も場所も全部、超越してしまうような感覚。

 そして、いつもと全然違う(ように私には見えた)街を歩き始めてすぐ、雨が降り始めた。最初は遠慮がちに、そしてすぐ、激しく叩きつけるように。

 道路に積もる細かな埃が舞い上がり、そしてまた、空中の雨に絡み取られて落ちる。独特の匂いがたちこめる。

 ああ、この匂いも好き。暗い空と、激しい雨と、降り始めだからこその、この埃臭さと。

 雨音は究極のヒーリングミュージックだと思う。

 信号待ちのとき、数秒間目を閉じて耳を澄ませた。傘を打つ雨の音が近い。

 雨が降っても、もう刺すような冷たさはなくて。冬は終わったのだと実感した。生温かいような空気。この雨で桜はほぼ完全に散って、また季節は動いていくんだなあ。陽光の桜の季節は終わり、すぐに新緑の眩しい、初夏がやってくる。

 今年は絶好のお花見ポイントを見つけたので、昼休みには毎日のようにお花見を楽しんだ。あんまり人もいないから、ゆっくりできる場所だ。

 一番よかったのは、散り始めの頃。よく晴れた日。ぼーっとしながら、座って桜を見てた。桜と、その向こうに見える青い空と。公園は学校に隣接していて、吹奏楽部の演奏がBGM。

 今演奏している生徒たちも、数年経てばこの学校を卒業し、ここにはいなくなる。それでも桜は、同じように咲くんだろうなあ。

 強風ではないけれど、風が吹くたびに花は、どうしようもなくこぼれ落ちた。そんなに急いで散らなくてもいいのに。花が次から次へ、音もなく舞い落ちるさまは本当に綺麗だった。それで私は、宇宙の始まりについて考えたりした。

 連続して、一つの物事が次の事象を引き起こすなら、その始まりはいったいなんだろう? 絶対的な無からはなにも生まれない。なにも変わらない。変化し続けるこの世界の始まりは、いったいなんだろうか。変化の始まりなど、あるのだろうか? 変化の向こう側にあったものとは、いったいなんだろうか。

 そもそも、こうして考えている今の私を生み出したものとは、何なのだろう???

 古来、桜を読んだ歌はたくさんあるけれど。

 万葉集の桜児(さくらこ)の話など、一見美談のようでいて、実はそうでもないなあと思った。

 昔、桜児という娘がいて、二人の男がどちらも彼女に惚れてしまう。二人が争うのを悲しんだ桜児は、「私が死ねば、争いはなくなる」と自ら命を絶つ。

 残された二人の男は、それぞれに彼女の死を悲しむ歌を詠んだ。

 私が男なら。彼女の傲慢さに唖然とするだろう。桜を偲ぶ歌を詠むことは、なかったかもしれない。だって、「彼女はただ選べばよかった」のに。なぜ選ぶことすらせず、気持ちを明らかにすることもなく、死んで解決をはかろうなどと愚かなことをしたのだろう。どちらを選ぶのも自由で、どちらを選ばないのもまた自由で。

 彼女が下した決断を、きっと、二人は受け入れただろうに。

 

 結局彼女は、二人をある意味、「どうせわかってくれない」相手だと思いこんでいたのではないかと。私が残された男の一人なら、ショックだ。彼女がいなくなったこともそうだが、それ以上に、自分はそこまで信頼されていなかったのかと嘆くだろう。

 そして、愛した人は、自分の心が作り上げた幻だったと知るだろう。「二人の人に愛された。争うのを見るのは嫌」そんな理由で死を選ぶような人だとわかっていたら、きっと好きにはならなかっただろうなあ。

 毎年桜の季節が来ると、去年はどう過ごしていたんだっけ?と思う。そして、ああ、また1年が経ったなあと思う。

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