伯爵さまのロングトーン

 舞台『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の開幕まであと少し。以下、この舞台の初演(2006年)を見たときを思い出して、感想などを書いておりますが、ネタバレも含みますのでご注意ください。

 2006年に夢中になった私には、もうあのときほどの熱狂はないのだけれど、それでも再演を1度は見ようと思っている。

 初演時。あれほど夢中になった理由の一つには。私自身が「人生ってなんだろう」って考えている時期だったから。それはまあ、今でも考えているけれど(^^;

 あの時期。答えを探して手をのばした先に、目を向けた先に彼らがいた。

 

 伯爵をはじめ、かつては人間だったはずの吸血鬼の面々。彼らが奏でる音楽は、物悲しく切なく、そして力に満ちていた。初演だからこその、手探りな感じ?というのだろうか。日々、変わっていくお芝居を見ているのは本当に楽しかった。見るたびに、違う「彼ら」がいたように思う。

 今回、公式ブログをときどきはのぞいているけれど、HPを開いたときの雷鳴はやめてほしい。あの音が嫌で、HPを開くのをためらってしまう。特に夜中などは、うっかり開いた瞬間に後悔する。強制的に聞かされる音としては、最悪の部類だ。

 あれって、前のときもそうだったかなあ? 覚えてないや。でも、あの音はやめたほうがいいと思う。ただ耳に不快なだけだもの。本物の雷鳴のような風情があるわけでなし。

 むしろ、ベートーベンの『月光』のような、静かで美しい曲を入れたほうがよかったのではないだろうか。心にしみるピアノの曲や、弦楽器などが似合いそう。

 伯爵さまの写真は渋くてステキだ。あの写真を使ったのはよかった。初演時に、柱に貼ってあったものだと思うけど、この表情はいい。そこにあるのは、貴族の誇り、失われた人生への怒り、そして永遠の命がもたらす苦悩、のような。

 演出家の山田和也さんのブログを読んだ。

 稽古で、山口祐一郎さん(伯爵役)が、ロングトーンを披露したという。それを読んで、「はりきってるんだなあ。お稽古のときから全力投球なのかな?」と最初は思ったのだけれど。

 妙にそのことが心に残って、いろいろ思いをめぐらすうちに、ふと気付いた。

 ああ、それって、必要なことだったんだなあって。

 だって、これは金の髪の娘を失った伯爵の物語だと思うから。伯爵が共演者の前で歌声を披露する。それは、稽古という枠を超えて、山口さんは物語の真ん中に、「私はこうなんです」っていう色を明らかにしたんだと思う。

 舞台の中心になるのは、伯爵の存在だ。

 それをとりまく大勢の人たちが、混沌とした世界をつくる。その最初の一歩。だから、ロングトーンは必要だったのかもしれない。

 きっとそれにこめた思いは、伯爵そのものだったはず。

 それを聞いてしまったら、ぐるぐると流れ始めるものがあるよね。

 舞台のカンパニー。

 きっと、まだどっぷりと役には浸ってないはずの彼らが。声によって触発され、動き始めるってこと、あると思うのだ。

 理屈じゃなく、声を聞いて、その歌声を体中で受けとめて。「ああ、これが伯爵なのか」っていうね。そういう感動があったんじゃないかと想像する。もう無意識に、それぞれの中で、動き始める感情があると思うのだ。一度流れ始めたものは、もうとまらずに、刻々と変化していくような。

 そうして、伯爵の城に集う、個々の吸血鬼たちの物語も作られていくのだと思う。彼らにはそれぞれの過去があったはず。なぜ彼らは伯爵のもとに集まったのか。その声に導かれるようにして、身を寄せ合うのか。

 伯爵に寄せる思いは、決して好意的なものばかりではないと思うのね。内心、伯爵に対して複雑な思いを抱く吸血鬼だっているはずで。だけどそういう彼らの心中も、ぐるぐる回り始めると思う。伯爵のあの、ロングトーンを聴いちゃうとね。

 そうして、舞台が色づいていく気がする。

 決してバラバラではない、一つの方向性に。もちろん、そのための指揮者の存在が演出家だと思うけど、それ以前の段階で皆の心に訴えかけるものは。やはり伯爵の、魂の叫びともいうべき、あのロングトーン。(きっと一幕最後のあの場面だと想像する・・・)

 だからお稽古の早い段階で、山口さんは本気で歌ったんじゃないかなあ。それまでに、十分自分なりに練り上げた伯爵像を。

 一幕ラスト。私の泣きポイントでもありました。本当はもっともっと、あのロングトーンの余韻にひたっていたいのに、すぐに場内が明るくなって人の移動が始まるから、それが残念だったなあ。

 「つかめ自由を。その手で」

 いい言葉です。どこまでも伸びていく伯爵の歌に、自分の心も遥か高みへ、舞い上がるような錯覚を覚えたあの日。もう、3年も前の話になるんだ。

 サラに対する愛情とはまた別の意味で。伯爵がアルフレートに伝えようとする人生の真実。

 私には、伯爵がアルフレートを謀るために、誘惑するために適当なことを言っているとは思えなくて。あの言葉、あの状況でのあの語りには、アルフレートに対する優しさを感じるのだ。

 伯爵は、もしやアルフレートに自分の若い頃の面影を見ているのではないかと。

 初めて人を好きになり、夢中になっているけれど当の相手は、自分が思っているような実像ではなく。傍からみればそれは明らかなのに、焦がれて焦がれて、滑稽に見えるほどに追い求めて。

 世間の評価、自分の未来、師と仰ぐ人への憧憬、広がる好奇心と同じスピードで、ふくらんでいく曖昧な不安感。

 自信のなさと、根拠のない希望とが、まるでシーソーのようにぐらぐらと揺れて。

 そんな不安定なアルフレートの心を、きっと伯爵さまはお見通しなんだなあと。

 そして、圧倒的な力をみせつける。まだ若い、羽の生え揃ったばかりのヒナ鳥のようなアルフレートに、行き先を指差す。飛んでいくべきは、果てのない大空だと教えた。彼を縛る固定観念は幻にすぎず、彼自身が望めば、今すぐにでも無限の空へ羽ばたけるということ。

 自分の身代わりに。

 吸血鬼と化した自分にはない未来を、アルフレートが築くことを望んでいたのかもしれない、とさえ思うのです。アルフレートからなにかを、対価としてとろうなんて、きっと思っていなかったような気がする。伯爵はアルフレートに、自分にはできなかった生き方をさせようとしていたような。そうすることで、過去の自分自身を救いたいと願っていたような、そんな気がするのです。

 あのときのあの歌。伯爵が指さす方向にあるものは、吸血鬼としての、永遠という牢獄ではなかったはずです。

 まあ結局、その後の伯爵は、自分の懇切丁寧な指導にも関わらず、いつまでも弱虫くんなアルフに見切りをつけたのか、あっさり方向転換しますけどね(というように、私には思えました)。

 伯爵の期待と失望は、いつもワンセット。

 いつも夢みてる。この人こそ、自分の呪われた運命を変えてくれるのではないかと。なんども夢をみて、そのたびに小さな希望は崩れ落ちる。

 墓場にあるのは、そうした夢の残骸で。さらさらと崩れおちる幻たちに囲まれ、物言わぬ、その小さな砂粒たちの静寂の中でだけ、伯爵は素直な心情を吐露しているような。

 絶望はやがて、怒りへと変わり。そしてそれが、神への挑戦へとつながっていくのではないかと想像しております。

 たぶん、怒ってる伯爵だからこそ、まだ、観客の私達は安心して見ていられる。絶望は、有る意味、無なわけで。そこからはなにも生まれないから。きっと絶望の中にいたら、伯爵は動かないだろうな。一歩も。そしたら物語はなりたたないし、それを見る観客はいたたまれないわけで。

 怒ってる方がまだ、マシなのです。

 全部放棄しちゃったら、本当に無、しかない。怒りはまだ、健全な反応のような。言い方変ですけど。

 なんだかんだ言って、私はこの作品が大好きなのだなあと、しみじみ思いました。書き始めたら長くなってしまった。好きじゃなければ、語ることなんてきっと3行で終わっちゃう。

 本当に、いい作品なのです。

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