『偽眼のマドンナ』渡辺啓助 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので、未読の方はご注意ください。
短編なのですが、とても雰囲気のある小説です。
1900年代のある日、秋のセエヌ川をボートで下る2人の青年。陽気な医学生の林と、陰気な画家である「私」。
なんの気なしに、街端れの支流へ舵先を向けた「私」は、水際に降りる石段の上で、膝を抱いて座っている女に一目惚れします。
そこは、娼家の並ぶ裏通りでした。片目のマッテオと呼ばれる女性を、やっと探し当てた「私」ですが、「私」の熱情は拒絶されます。
そのときの二人のやりとりが、とても美しいのです。
おそらく、「私」がその瞬間、本当に恋に落ちたのは、確かなのでしょう。その後、心変わりするかどうかはともかく、「私」は画家として、魂の震える相手に出会った。
けれど、「私」の心からのプロポーズを冷たく拒むマッテオの、その気持ちも読者には痛いほど伝わってくるのです。
>「あたしには、泣いたっていい想い出が沢山あるんだよ」
この一言が、ずしりと響きました。
闇の中。窓の向こうに広がる薄明かりや、外から聞こえる酔客の声。この小説からは、その空気が伝わってくるのです。そして、異国の、通りすがりの男から突然求婚された彼女の、戸惑いとかすかな喜びと、それ以上に深く圧倒的な、悲しみと。
彼女にとっては、この小さな部屋がすべて。それ以下でも、それ以上でもない。
夕暮れ時、ゆっくりと流れる川岸に膝を抱えて、彼女は何を思っていたのでしょうか。その時間だけは、きっと彼女は自由だった。誰からも、なにからも縛られないで。
彼女の過去が、「私」を魅了したのだと思います。
それは、「偽眼」という表現をされていましたが。本当はそんな物質的なものではなかったのではないかと、そんな気がするのです。
絵が完成するまでの間、彼女は「私」と一緒に暮らし、そして黙って、林と一緒に街を去っていきます。
「私」は、彼女が林と出て行った理由を、林が裕福な好男子だからと決め付けていますが、私にはそうは思えません。モデルをしていれば、「私」がいかに真剣な気持ちだったか、彼女には伝わったと思うからです。マッテオを見つめる目の力や、絵筆を走らせる手の動きや、屋根裏を満たした熱い空気を、肌で感じたでしょう。
そのとき、「私」にとってマッテオは美の極致で、まさにマドンナだったわけです。
マッテオの過去になにがあったかはわかりませんが、マッテオはきっと知っていたのだと思います。どんなに激しい愛情も、いつか冷めるときがくる。人の心は変わってしまうと。
だから、マッテオは消えた。
一番いい、思い出のままで。
林じゃなくても、連れ出してくれるなら誰でもよかったのだと思います。きっとマッテオは、その先に希望がないことも知っていたはずです。でも、ともかくそこを去ることが、彼女の最後の希望だったのでしょう。
異国の絵描きの記憶の中で、いつまでもマドンナだったマッテオは輝くから。
その後、取り残された「私」は偽眼に執着し続けますが。
これ、結局は、眼じゃないだろうなあと思いながら読んでました。「眼」を追い求める自分を、まるで狂人のように自嘲するような文章でしたが。
マッテオそのものに、焦がれてたんですね。マッテオをわかりやすく具象化したものが、眼だっただけで。もう会えないと知ればよけいに、会いたくなる。マッテオを表すものがほしくなる。
せつない話だなあ、と思いながら読みました。二人の気持ちは、微妙にすれ違っていたような。
マッテオの美は、きっと「私」にとっての極致で。それは、他の人にはわからないかもしれないけれど、もうどうしようもない、強力な圧倒的な美で。
どうしてこの魅力にとりつかれてしまった気持ちを、彼女はわかってくれないんだろうかと・・・「私」のもどかしい気持ちが、伝わってくるのです。
そして、マッテオの気持ちもわかる。彼女はとても、惨めで、最低で、でも少しだけ、嬉しかったんだと思う。
彼女が「私」からプロポーズを受けたとき、彼女はひどい言葉をいくつも口にするのだけれど、そのどれもがとても痛くて、そして本当はひどく、優しいのだ。
その向こうに、彼女の過去がぼんやりと透けて見える。
この小説の最後、紳士の言葉をどう受けとめるか、読者の数だけ解釈はあるのでしょう。果たして、これは創作なのか、真実なのか。
私は、その紳士が「私」自身で、真実だったのだと、そう思っています。そう捉えるのは、少数派なのかもしれませんね。