満月である。
住宅街を歩いていたら、あまりに月光が明るくて驚いた。まるで太陽みたいに、隅々まで照らし出している。光が強いから、生垣が落とす影もまたくっきり、黒々。
ここまで明るいと、あんまり夜って感じがしないなあと思いつつ歩いていた。冬は寒い分、空気が澄んで星が綺麗だな。空気の冷たさは、そのまま清浄さを表すように思えて、深呼吸なぞしてみたり。
あんまり明るい月夜だから、その光が落とす影を眺めていて思い出した。
そう。子供の頃住んでいた家で、夜に見た異世界の光景だ。あんまり美しく、あんまり別次元で、強烈に記憶に残った。
トイレに起きて。階段を降りたとき、半分眠ったような状態で、窓の外を見た。
そこには、全く見たこともないような景色が広がっていた。
満月の夜。
天空高く上った月が、冴え冴えと光を投げかけていた。
まるで昼間のように明るかったが、その光は全体的に青みがかっているようで、全く熱量というか、暖かさは感じられない。
庭に植えられた樹木や草花を、その光ではっきりと見ることができた。
そして、植物たちはそろって、自身の影をまとっていた。
その明るい光の色と、影とのコントラストが、不思議な世界を形づくっていた。
私は呆然と、ガラス窓の向こうを眺めていた。
こんな景色は見たことがなかったから。
この光と影、そして空気。
それは、私が初めて見る世界だ。
よほど強烈な記憶だったのだろう、あのときの光景は今でもはっきり思い出せるし、そのときの気持ちも、鮮やかに蘇る。
ここは、本当に私の家なのかな。
こんな景色、見たことない。
毎夜、ここはこんなことになっているのかな。
後に、外国の妖精が出てくるような本を読んだとき、私の脳内ではあのときの、月光に照らされた庭の景色が蘇った。
妖精がいるなら、きっとああいうところに現れるに違いない。
そして、一晩中でも、人間に見られることなくこっそりと、楽しい舞踏会を開いているに違いない。
引っ越したのは12歳のときだった。
その後、子供の頃の夢をみるときには、決まってあの、古い家だ。もう取り壊され、今はその地に別の建物がたっている。
だけど夢の中に、昔の家は変わらずあり、私はそのことになんの違和感も感じない。
子供の頃に見聞きしたことは、それだけ深く、心に刻まれるのかなと思う。
建物の内部、ささいな傷や床の感触や、柱の曲がり具合まではっきりと、私は覚えている。
もう現実にみることはかなわなくなったけれど、あの、満月の夜の幻想的な光景も、鮮やかな映像として思い出すことができる。
>この世界がもし、誰かのみている夢だとしても
>あなたにはそれを、夢だと知るすべはないのです
いつか読んだ本に、そんなことが書いてあったっけ。
こんな風に月の美しい夜に、昔の記憶をたどっていると、たしかにそんな気分にもなってくる。
どこまでが現実で、どこまでが夢か。
だって、夢の中ではすべてがリアルで、夢の中の自分はいつも、それが夢だなんて気付くことはない。
私は、10年もの時間経過がある夢をみたことがある。
とても悲しい夢で、私は泣き暮らして、毎日毎日、これが夢であってほしいとそればかり考えて。
それでも日は昇り、また沈み、夢の中で10年もの月日が流れた。
私はさすがに、諦めた。
そうか、もう10年経ったのか。夢であってほしいと、毎朝目覚めるたびに願ったけれど、10年経ったのなら、認めなくちゃならない。
これは、現実だ。どうしようもない。受けとめなくちゃならない。
10年泣き暮らした末だったから、諦めもついた。そして決心したとたん、目が覚めたのだ。
あんまりリアルで、最初は戸惑った。
え?今の、夢だったのか?と。
パラレルワールドがもしあるなら。
あのときの、悲しい夢もまた、どこかの世界では現実なのかもしれない、と、ぼんやり考えたりする。
夢を夢と、確かめるすべはないのだと。
考えてみれば、現実と思えることも、すべては脳が認識する結果なのであり。本当の意味で、事実を事実と確認することは、人間には無理なのかもしれない。全ては、脳に委ねられているから。脳というフィルターを通してしか、世界を認識することができないから。
なんてことを考えていたら、すっかり夜更かしをしてしまった。
あんまり月がきれいだから。
月を見ているとつい、深く考えこんでしまうのである。