どこまでの自由

 今月は、ブログを毎日書くというのに挑戦中です。月末までは毎日更新する予定です。

 いざこういうノルマを設けると、なにを書いていいのか迷いますが・・・。でも、「書く」と決めたことで、本当は頭に浮かんだだけで終わっていたことを、言葉に残すことができるわけで、1ヶ月間、自分が何を書くんだろうってことが、自分でもちょっと楽しみだったりします。

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 今日は、雨の中を桜見物しました。満開の桜が雨に打たれて、人影も少ない川沿いの道を、ゆっくり歩きました。

 それで、桜を見ながら思ったのです。

 自由とか、そういうんじゃ、ないんだなあって。桜は、咲こうと思って咲いてるわけじゃなく。時期が来れば、「咲くな」と言われてもどうしても咲いてしまうだろうし。とめても脅しても無駄だし。もう、それはとにかく、咲かずにはいられないわけで。咲いてしまうわけで。

 そして、時が経てば。
 いつか、花弁を散らすんだなあと。「散るな」ってとめても、散ってしまう。桜の意志とは関係のないところで。

 自由って、どこまで許されているんだろう。などと、考えてしまいました。

 桜には、選択の余地もないと思うけど。じゃあそれを見ている人間だって。

 思うこと。その行動に、どこまでの自由があるのだろうと。意志や気持ちは、いったいどこからやってくるのだろうか。

 その源流のようなものを。人は、自由に采配することなど、できないのではないか、と。
 だとしたら。人が自由と感じているものは、はかないまぼろし。虚構ということになる。

 桜を見ながら、そんなことを思いました。

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