まるで現実と変わらないような、鮮やかな夢を毎晩見ています。
おととい見た夢。それは、私の隣にいた小さな女の子が、指にひどい怪我を負ってしまうというもので。それを防げなかった自分に、自己嫌悪を感じる中、目が覚めました。目が覚めて、ああ夢でよかったと思ったけれど、本当に夢と現実の境目というのは、曖昧なものです。
どちらが現実なのか。その証明を厳密にすることなど、不可能ではないでしょうか。
そこにあるのは、ただの自分の感覚だからです。
時間を確かめるのには時計がある。けれどその時計が幻でないと、どうして言えるでしょうか?
短く感じる時間も、長く感じる時間も。むしろ、時計の示す時間より、自分の感覚の方が、確かなような気がするこの頃です。
時間と言えば、いつも思い出す出来事があります。
それは、日本橋にある小さな会社で働いていたときのこと。私は本当にその仕事が嫌で、いつも憂鬱な気持ちで出社していました。
派遣だったので、期限付きの仕事です。指折り数えて、契約終了の日を待ち望んでいました。嫌な気持ちが最高に達した日は、たしか契約終了の日まで、あと3週間だったでしょうか。
その朝、会社までの道のりで、「あと何日で終わり」と、何度も頭の中で日にちを数えていました。そして、こんなことを思いました。
次の瞬間、タイムスリップしてたらいいのに。
終了まであと何日どころか、終わってからもう何年もたったようなときに、いきなり移動できたらいいのにな。
今現在。このブログを書いている私は、あれから何年も経った時間軸にいる、はずです。
でも、ふと思う瞬間があります。
時間が一定に流れている、というのは本当だろうか。もしかしたら私は、あの強く願った瞬間から、今にいきなりジャンプしたのではないだろうか。
あのときから現在まで、流れたはずの時間と記憶。それは、単なる記憶、というデータであって。自分ではそれを、一定の時間の流れの中で獲得したつもりでいるけれど、違う次元からみたら私は、望み通りに一瞬で、違う時間帯に移動したのかもしれないと。
それを確かめる術は、どこにもないわけです。
すべては幻、という言葉は、本物かもしれないな、などと思ったりします。
現実ってなんでしょう。
目の前にあるすべてが、実存するって、なぜ言い切れるのでしょう。
「そう見えている」「そう思えている」だけかもしれない。
枠から、はみでて見たら、また違う見方がある。
だけど枠の中で生きている限り、その証明はできない。
枠の中にいる人間は、どうしたら自分を、枠の外から眺めることができるんだろう。
そんなことを考えていると、現実は曖昧なものに思えてきます。ぐにゃり、と簡単に曲げられそう。
過去や未来などない。「今しかない」という考え方は、そういうことなのかもしれません。妙に納得してしまう。今この瞬間、この感覚。それ以外に確かなものなど、ないのではないかと。
物思いにふける秋です。