残業もなく、キリよく仕事が片付いた金曜日。会社のビルを出ると、空はまだ明るかった。少し歩いてから帰ろうと思い、駅を通り過ぎた。だいたいの方角に見当をつけて、歩き続ける。
ふと気がつくと、目の前にはうっすらと月が。三日月である。空の色が暗くなるにつれて、存在感をささやき声で主張し始める。
というのも、満月の重量感とはまったく別物だからだ。その光はあんまりに弱く、光というより白い色だと表現するのが合っていると思う。いますよ~、ここに月が出てますよ~という、小さな主張。
大きな満月なら誰もが気付くだろうけど。雑踏の中で、暗くなる空をバックにやっと弱い光を放ちはじめた月のことを、知らずに歩いている人は多いのではないだろうか。
その月は、まるで卵の薄皮。
桜貝のように、向こうが透けて見えるほどの薄さ、そして脆さが感じとれた。そこにあるのが、まるでなにかの間違いじゃないかと思えるくらいに。
群青色のキャンバスに、白の絵の具、細い筆をさっと払ったような。
あるいは、空に生じた小さなヒビ割れか。
これが亀裂なら、その向こうには何が広がっているんだろう。
本当は適当なところで切り上げて、最寄の駅から電車に乗ろうと思っていたのだが、刻々と色を変えていく空の風景や空気の匂いに魅了されて、そのまま歩き続けた。方角的に、月に向かって歩いていくような格好になり、そのことがなんだか嬉しかった。
月に向かって歩いていく自分。
太陽に向かうのは眩しすぎるけど、月の光は優しいなあ。
やがて空はすっかり暗くなり、あの不思議な黄昏時、独特の空気はどこにもなくなってしまった。
そして、通りすがりに自然食品の店を発見。歩く楽しみは、こういう思いがけない発見にもある。とうもろこしと、甘夏を購入。
とうもろこしを食べるのは、今年に入って初めて。甘夏を食べるのは、2度目。甘夏に関しては、ノーワックスなので、皮はママレードにもどうぞと書いてあった。
たしかにつるつるではないけど、甘夏の香りと皮のでこぼこは郷愁を誘う。こういう柑橘系の香りは大好き。部屋に置いておくだけで、芳香が全体に満ちる。
明日はママレードを作ろうと思った。