椎名林檎さんというと、激しいイメージがあるのだけれど。『同じ夜』、この曲を初めて聴いたとき驚いてしまった。穏やかで静かで、少しせつない曲です。
今朝目覚めたとき、さっきまで見ていた夢の名残が暖かくて、それからずっとこの曲を部屋で聴いていました。
夢の中の私は、現実より一段階素直で。
望むことに忠実だった。罪悪感もあったけど、そもそもこの罪悪感はどこから来るんだ?と自分に問いかけ、エエイっと、自分に素直に行動しており。
そして、その幸せな夢の中で、私は知人に偉そうに説教していた(^^;
しかし夢がさめた後では、その言葉がそのまま自分自身への忠告だなあと思うのである。
起きた直後には夢の内容なんて覚えてなくて。
ただほんわかとした、ふわふわした気持ちに浸っており。あれ、なんだこの感覚は?とその答えを探すうちに、自分がさっきまで夢をみていたのだと思い出したのです。
この曲を聴いていると、懐かしい感じがします。
すこし小高い丘に広がる住宅街を、散歩していた気持ちが蘇りました。季節はいつだったろう。陽射しが優しかったなあ。
私は散歩の途中で、小さなカフェをみつけて、そこでケーキとお茶を頼んだ。
その店には他に誰も人がいなくて。素敵なお店だったけれど、たぶん立地が悪いのだ。ゆっくりと流れる時間の中、オーナーと思われる若い男性が一人で店番をしていた。
その人は、薄くヒゲを生やしていたので、最初はぎょっとした。飲食店でヒゲはどうなの?と。でも注文を聞く声は深みがある落ち着いたもので。目を合わせて注文をするとき、その人が意外に美形であることに気づいた。
もったいない。ヒゲを剃ればもっとカッコイイのに。いやいや、もしやそういう風に見られるのが嫌で、わざとヒゲを生やしてるのか? 綺麗な目だなあ。
注文したケーキを待つ間、私は扉の外から、ちらちらとこちらを覗く影に気づいた。ガラス張りの扉だから、よく見える。客というより、どこかのお店の制服だ。白いシャツに黒っぽいエプロンをつけた女の子。
私の様子をうかがっている。店内の様子が気になるようだ。そして、何度もオーナーの方を見る。用事があるのか?
しかしオーナーは、全く気づかず。ケーキと紅茶を用意するのに集中していた。ほどなくケーキセットは私の席に運ばれた。私は、扉の外にいる女の子のことを考えていた。このお店の人じゃないな。ということは、隣にあるレストランのアルバイトの子かな? なにかあの人に用事があるんだろうけど、客の私がいるから、遠慮しているのかもしれない。
給仕を終えてオーナーは暇になったというのに、女の子はすぐには店に入ってこなかった。意味ありげな空白の時間の後、扉はゆっくりと開いた。
女の子は、オーナーに語りかけた。それは単なる世間話だった。話す内容からして、やはり隣のレストランで働く子らしい。しかし内容に、中身がない。あれほど困ったように店内を見つめていた子なのに、これはどうしたことだ?
そしてオーナーは、まるで関心のない様子で彼女の話を聞き流していた。
うんうん。そうなの?それで? へええ、そうなんだ?
オーナーは決して、自分から新しい話題を振らず。彼女の話を聞いてあげるだけ。彼女に話の続きを促す言葉は、丁寧だけれど、心のこもらぬものだった。大人が年端のいかぬ子供を、あやすかのように。
しばらくして私は気づいた。
結局、女の子はオーナーが好きだったのである。そしてオーナーはそれに気づかず・・・いや、もしかしたら少しは勘付いているかもわからないが、ともかく表面上は気づいていないポーズで。
午後3時過ぎのこの時間は、いつも彼女が必死に、そう、切ないほどの必死さで、オーナーにアピールしている大切な時間だったのである。
いつもは人が来ない。でも今日は客の私がいたから、彼女は少し、戸惑ったのだろう。だけどこの貴重な時間を逃すわけにはいかなかったのだ。だって、ランチとディナーの間の、この休憩時間の間しか、彼女には自由になる時がなくて。
いつもこうして、一方的に彼に語りかけていたんだろう。積極的に会話を返してもらうことなどなくても、ただ一緒にいられるのが嬉しくて。いつか、気づいてもらえるんじゃないかと期待をこめて。
オーナーの態度はつかみどころのないものだった。でも、冷たいというのとは違う。彼はただ穏やかに、午後の陽射しと同じ位優しく、うん、うんとうなずいてみせる。だけどその目は明らかに、彼女を見ていない。もっと別のなにかを、遠くのなにかを見ている。
オーナーにとっての彼女は、この店のお皿やカップ、そしてケーキと似たようなものかもしれないなあと思った。それなりに愛着はある。思いはある。好意が迷惑というわけではないだろう。だけど真正面から向き合うほどには、その目を輝かせて飛びつくほどには興味のないものなのだ。
その日の光景を、今日は思い出した。
あの店は今も、あそこにあるのだろうか。そしてオーナーは、今ものんびりと、あの店を守っているのだろうか。
彼女はもう、あのレストランにはいない気がする。最後の日、どんな言葉でお別れを言ったのだろう。きっと平気な顔でいつものように世間話をして。それから店を出た後に泣いただろう。
あの日の客のことなど、彼女は覚えていないだろうけれど。
時間までもがゆっくりと進んでいたような、店内のあの空気。私はまだ、覚えているのです。
何度も繰り返し、『同じ夜』を聴きながら、思い返していました。