映画『昼顔』 感想

映画『昼顔』を見ました。感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 

 

地上波初放送、ノーカット版ということで、興味深く見ました。ちなみにテレビドラマで放映されてたときも見てました。ドラマ版の感想としては、利佳子(吉瀬美智子さん)サイテー、加藤(北村一輝さん)勘違い俺様男、紗和(上戸彩さん)欲望むきだし過ぎ、北野(斎藤工さん)据え膳乗っかり、でした。

映画の感想を一言で言うなら、「乃里子(伊藤歩さん)が離婚に同意してたら一秒で終わった話」です(^^;

不倫は周りを傷つける、というのは本当にその通りなんですけど、不幸な結婚生活も、それと同じくらい罪深いものだと思います。すべての結婚が、うまくいくわけではなくて。互いに永遠を誓っても、その先の生活の中で、「こんなはずじゃなかった」というのが出てきてしまうのは仕方ないことで。

人間は理性があるから動物とは違う社会生活を営み、結婚という契約があるわけですが。本来動物でしたら、「好き」がそのまま繁殖行為につながり、情や制度でカップルを続けることはない。

動物と同じになれ、というわけではないですが、ある程度の相性、というものは、結婚生活に不可欠ではないかと思いました。

なんだか知らないけど好き、だとか。馬が合う。みたいなことです。努力ではなく、一緒にいるのが心地よい、安心する。そしてなにより、相手と一緒にいたい、と自然に思えること。

結婚し、一緒に生活をしてみて、どうしても相手と合わないとわかったら。あるいは、相手以上に好きな人がもしもできてしまったら。離婚もアリだと思うし、むしろその状況で不毛な同居生活を続ける方が、誰の得にもならない。夫や妻、どちらかが「絶対離婚しない」と言ったところで、相手の気持ちが離れてしまったら、意地を張る権利などないと思うのです。結婚は奴隷契約ではない。相手の気持ちを縛ることはできない。

ただし、子供がいる場合は別ですね。子供がいたら、安易に別れるべきではないと思う。離婚は親の都合であって、子供にとって自分の父親と母親が別れることほどつらいことはない。そして、離婚したからといって、親子の縁は切れないのです。夫婦の縁は切れても、親子の縁は切れない。

子供がいるなら、親の気持ちよりも子供を優先すべき、と思います。親にはそれだけの責任がある。だから、産む前に相手との生活をきちんと見極めないといけません。離婚するのなら、子供を授かる前に、です。ただ、あまりにも相性が悪すぎて大ゲンカが日常、というところまできたら、いくら子供がいても別れた方がいいのかもしれない。「子供のために離婚を我慢した」なんて、言われながら育つ子供は不幸すぎます。

要は、結婚は慎重に、出産はさらに慎重に、相手を見極めて、ということですよね。それでも失敗したら、それはもう、離婚するしかない。

ドラマを見ていたときには、紗和の北野先生への好き度合が、とても大きいなあと思っていました。本能で惹かれる感じです。

でもそれに対して、北野先生は同じだけ愛情を返してくれる、というよりも。紗和に流されて据え膳を…という感じに見えました。それは、ドラマで紗和の方から初めてキスしようとしたとき、思いっきり突き飛ばしていた態度で思いました。背徳感からそうした、というよりも、紗和をそこまで好きではなかった、という証拠のような気がして。

背徳感というなら、ふたりっきりで秘密のお出かけという時点でもう裏切ってますしね。その上で、本当に好きな相手といい雰囲気になって、キスされそうになったら、普通はそのまま流されてしまうのではないかなあ。

ドラマで紗和を突き飛ばした、あの瞬間。あれこそ本能のようなもので。迫ってくる相手に言いようのない嫌悪感を抱いた瞬間、にしか見えませんでした。

ただ、紗和の熱量がねえ。北野先生にしてみたら。突き飛ばして傷付けたのをすまなくも思っただろうし、それだけ愛されてるっていうことへの優越感もあっただろうし。最初は、ちょっといいかな、くらいで付き合い始めたものの、紗和の熱情に押されて押されて、不倫の高揚感もあって、妻との生活に感じていた違和感を背景に、どんどん紗和との逢引にのめりこんでいった、というように見えたのです。

ドラマでは、逃避行先の別荘で二人が引き離されるとき、子供みたいに泣きわめいていたのがとても印象的でした。もう結婚すればいいじゃん(^^;と思いましたよ。私が妻なら、そんな夫を見たらドン引きして自分から別れるなあ。そこまで好き合ってるなら、どうぞお好きに、という感じです。子供がいなければ、大人だけの話し合い。

私には、北野先生に執着し続ける乃里子が異常に見えました。あの人と結婚生活続けるのはちょっと厳しい。

ドラマで生木を引き裂くように別れさせられた二人。映画は、その三年後を描いています。三年後、偶然に再会した二人は、当然のようにまた、燃え上がります。そりゃそうだ、という感じで、乃里子に気の毒という感情が一切わかない展開です。

もう、ドラマの時に十分描いてましたからね。北野夫婦の破綻。紗和は離婚しましたが、そりゃそうだろうと思いました。あれだけの大騒ぎがあれば、離婚になるでしょう。その点、紗和の夫は紗和に対しての愛情もちゃんとあったし、常識もあった。壊れた関係を続ける不毛さを、ちゃんとわかっていたのですね。北野夫婦が別れなかったこと。乃里子が意地で、北野先生を奴隷のように自分の思い通りにさせたこと、そこが、悲劇の発端だったような気がします。

映画では、北野先生と紗和のいちゃつきっぷりがなんとも(^^) 北野先生からしたら、紗和は決して自分のプライドを脅かさない存在。その安心感。同じ業界にいるわけではないので、妻とライバル関係にはならないですしね。乃里子との生活に疲れた北野先生にとって、一途に自分を慕ってくれ、家事もばっちりな紗和の存在はどんどん大きくなったでしょう。

自転車二人乗りのときの、紗和の幸せそうな顔。高校生か!と。

その一方、相手の気持ちをつなぎとめるために、自殺未遂をやらかした乃里子。こういうのは最低です。なんなんだこの人。北野先生が送ってきた、目に見えないトゲだらけの夫婦生活、垣間見えました。この人はいつも、こうして夫を支配してきたのかな。おそらく、「あんたは一度私を裏切ったんだからね」という、一段上の態度、無言の圧力が常に存在する、冷え冷えとした夫婦生活だったことでしょう。

映画を見ているうちに、どんどん乃里子が嫌いになり、紗和と北野先生を応援し始める自分がいました。だからこそ、最後のあの事故で、怒りがピークに達しましたね。

もはや不倫じゃなくなってる。この状況で、北野先生との結婚を無理やり続けようとするのは、相手に対する暴力だ。殺してまで自分に従わせようとする傲慢さ。最後、問い詰められて車中で死んだ目をする北野先生が印象的でした。諦めたんですね、すべてを。乃里子は狂ってた。

映画の中で、紗和と北野先生がお互いに疑心暗鬼になるシーンは、よかったです。あれが現実だなと思うから。

紗和の、自分が裏切ったことがあるから相手を信じられない、みたいなセリフがずしりときました。

なにも乃里子がヒステリーをおこすまでもなく。不倫の末に一緒になったカップルは、最初から重荷を負うのです。お互いに、「また不倫をするのでは?」という、答えのでない永遠の枷を。不倫に罰を、というのなら、それが一番の罰なのではないですかね? 解きようのない重い鎖です。一生涯つきまとう不信だから。同じことを、また繰り返すかもしれないという疑惑。

それを乗り越えて結婚生活を送れたなら、二人は本物なんでしょう。

最後の最後で、紗和の妊娠、にはびっくりしました。これは北野先生と紗和、ダメすぎるな~。離婚も成立しないうちに妊娠とか、無責任すぎる。いい大人がなにやってるんだか。

北野先生が乃里子との生活、もうこれ以上我慢できなくなってしまった経緯は理解しますし、同情もするけれど。だからといって紗和と、子供ができるようなことするなよ~と思いました。そこは我慢してほしい。いずれ一緒になる、ちゃんとする、と決意したなら。どうして待てないのか。せめて、それこそが乃里子への誠意であり、紗和への優しさじゃないのかと。いくら紗和が能天気に誘ったとしてもね。

乃里子があまりにもアレなので(^^; 紗和と北野先生を温かい目で見てしまうのですが、結局のところどっちもどっちなのかもしれません。そんな映画でした。

『モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐― 』第9話 感想

モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐― 第9話 を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未見の方はご注意ください。

 

 

第8話は、旅行中だったので見ていません(^^; 第8話を見ない上で第9話を見たのですが、私にとってはそれだけ「どうしても見たいドラマ」ではなかったということで。それでも、最終回を見た後では、感想を書いてみたくなりました。主人公を演じたディーン・フジオカさんが、とても良かったので。

貴族然とした、冷たい表情の端々に現れる人間ぽさ、人の良さみたいなもの。復讐してても、拭いきれない虚しさ。

復讐劇の最後は、真海が暖であると、つまり人は、他人になどなりきれないと、そういう結末であったと思います。

これ、復讐するのが暖でなく、幸男だったら。そして神楽や入間だったら。復讐相手を、確実に全員殺していたでしょう。ためらわず。

暖はそういう人ではなかったから。悪にはなりきれない。幸福そうなカップル、信一朗と未蘭に、昔の自分たちの姿を見た時点で、なんかもう復讐の遂行なんて無理な雰囲気になっちゃってた。

「許さない」と叫ぶ信一朗を見る、暖の悲しい目。不幸な結末しか待っていない復讐の醜さを、自らの哀れな姿を、見せつけられているようで。あれは信一朗じゃなく、自分自身の姿だったんですね。

このドラマに今ひとつ入りこめなかった理由は、すみれがあまり魅力的でなかったからです。暖にとって、復讐の一番の原動力になるすみれが、それだけ大切で、かけがえのない存在には思えなかった。

自分が暖だったら、すみれの言動に幻滅して、愛は消えてたなあ。少なくとも、暖が真海として現れた時点で、すぐに反応するすみれであってほしかった。あれほど愛し合って信じ合った間柄であれば。

たとえ他の人と結婚しても。

暖は死んだと聞かされていたのだし、幸男の本性を見抜けなかった、その事実は仕方のないこととしても。それでも暖と再会したら。なんのためらいもなく「暖!」と呼んで、「生きてたのね。よかった!」と泣いてくれるすみれなら。暖が執着するのも無理ないし、すみれを取り戻そうとする暖の姿に悲壮感が増したと思うのですが。

いくら年月が、苦難が容貌を変えてしまったとしても。暖を暖と見抜けなかった、そのことはどう考えても、それがすみれの真実なのです。

もし再会のとき、すみれがとっさに駆け寄り、暖を抱きしめて、「お帰り、暖」とでも呟いていたら。あるいは。他の人と結婚しているその事実の前に、ためらって駆け寄ることは出来なくて、すんでのところで踏みとどまって。理性で必死に他人行儀を装いながら、それでもこらえきれない涙で、「暖!」と名前を呼んでくれたら。

物語は一層、せつないものになったでしょうけど。結局、すみれの中で暖は、過去の人になってしまっていたから。そんなすみれを追いかけて、暖が取り戻すことに意味を見出せない。

>あんたがちゃんと待っていれば、真海さんはこんなことしなかった

愛梨のセリフに、ふんふんとうなずいてしまいました。いや、本当にそう思う。

他の人への憎しみより、すみれへの愛情の方が勝ってたでしょうから。もしすみれが暖を待ち続けていて、「復讐なんてやめよう、二人で幸せになろう」なんて言っていたら、暖はその通りにしたと思う。

暖はすみれをなくした。だから取り戻そうとした。だけど、暖の好きだったすみれはもう、どこにもいませんでした、と。そういうお話だったような気がします。いないものを、取り返せないのだから復讐は無駄なこと。

最後の晩餐シーンは、オペラ座の怪人を意識したもののように思いました。駄目だと知りつつ、すみれに嘘をつかせる暖。

無理やり、結婚の言質をとったところで、虚しいだけなのにね。それでも言わせずにはいられなかった。失った未来。欲しかった幻。

幸男と神楽を尋問して、彼らの真実を見せつけた上ですみれに問うた暖。選択は、すみれにゆだねられた。それでもすみれは、気持ちの上では、暖を選ばなかった。暖への愛情ではなく、幸男や神楽、娘、多くの人を復讐から救うために暖を選んだ。暖の中では、その瞬間、すべてが終わったでしょう。

>やっぱり 最後に愛は勝つんだ

このセリフの意味。それは、暖が、本当にすみれを愛してたということではないかと。

ここでKANを持ってくるセンスは好きです(^^)

もうどの方向から見ても、どこをひっくり返しても、暖の好きだったすみれはいない。暖を愛してくれたすみれはいない。そういうことですね。

その一方で、暖はすみれを愛し続けていた。ずっとずっと。すみれの心が自分にないとわかっても。

それがわかったとき、暖は幸男も神楽も解放しました。無意味な存在となったすみれを含めて。

暖らしいです。憎い相手を殺すのではなく、自分を消そうとした。もう何も、残っていないから。生きる意味を見失った。

最後は意味深な映像で終わっていましたけど。あの砂浜を歩く人影は、暖なのか。

私は、暖はあのまま死んでしまったような気がします。人影は、視聴者への救いであって。あのまま消えてしまうのは、あんまり寂しいので。暖の絶望は、この先を生きるにはあまりに深く。

それにしても、もう少し愛梨が魅力的な存在だったらなー。そう思う最後でした。暖が惹かれる要素が全く見えず。だから、暖が愛梨と踏み出す新しい生活、というのが想像できませんでした。

『モンテ・クリスト伯-華麗なる復讐-』第7話 感想

ドラマ『モンテ・クリスト伯―華麗なる復讐―』第7話を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

主役の柴門暖を演じるディーン・フジオカさん。このドラマに合ってますね~。冷たい表情がとても似合うのです。目の奥が凍ってる感じ。端正な目鼻立ちは、笑顔がない方がより、強烈なインパクトを残します。

私、この方を初めて見たのは朝ドラの五代役だったのですが、とにかくオーラがある俳優さんだなと思いました。好き嫌いでなく、目が引きつけられるのです。それで、見ているとゾワゾワするのです。

なんだろうこのゾワゾワ感。見ていると、不安になる。

だからそのディーン・フジオカさんが、復讐する男を演じると聞いたとき、単純に見てみたいな~と思いました。ディーンさんて、熱さ寒さで言えば寒さだし、喜劇悲劇でいったら悲劇の方が似合う。

そして7話の感想ですが、7話のクライマックスは、ディーンさん演じるモンテ・クリスト伯の仮面が剥がれた瞬間でした。切なくて、暖の表情に魅入られました。

復讐に燃える暖も、かつての恋人、すみれ(山本美月さん)の前では、自分を偽ることができない。動揺でモンテ・クリスト伯を演じられなくなる。

すみれを見たときの悲しい顔。

不意に現れたすみれに、「お引き取り願います」と強い言葉を浴びせた時点で、言葉とは裏腹、もうすみれに負けてる(^^; その後、目を合わせることもできず背中を向けたままなのは、すみれを前にしたらなにもかもばれてしまうと、それがわかってるから。

すみれからみたら、ずーっと背中を向けたまま。なにを考えてるのか、どんな表情してるのか、わからない真海。

だけど視聴者からは、すっかり暖の顔に戻り、すみれの誤解にくやしさをにじませる真海の表情が、よく見える。この辺りのカメラワークが秀逸です。

>わかったよ、最初に会った時から

このセリフは重い。きっと、暖が一番諦めて、そして欲していた言葉だから。それ聞いた瞬間、もう全部許しちゃってるね~たぶん。すみれのことは、何もかも。

それまでは、理不尽な怒りかもしれないけど、暖はすみれに怒っていたと思うのだ。なんでよりによって幸男(大倉忠義さん)なんかと結婚するんだ、と。わかってくれ! 気付いてくれ! どうしてよりによって、幸男なのか?と。

自分だって、幸男がそういう裏切りをする男だと全く気付かずに罠にはめられたわけだから、すみれに「気付け」というのも無茶な話なのですが。

暖は、すみれにそこまで求めるのは無理とわかっていてなお、怒らずにはいられなかったと思うのです。理屈じゃない怒り。

その怒りの原点に、「初めて真海として会ったとき、すみれが暖と気付いてくれなかった」ことがあったのではないでしょうか。

実際、すみれは気付いていたようには思えますが、少なくともその時、「あなたは暖よね?」というストレートな言葉がなかったから。

本当に大好きだった人ならわかるはず。長い囚われの日々が姿形を変えたとしても。すみれなら、目の前にいて、見つめ合ったら。

暖は、心の中でそう考えていたんではないだろうか。すみれが、気付いて声をかけてくれることを祈っていたように思う。たとえそのことが、復讐計画を妨げることになったとしても。

結局、真海として初めて向き合ったときにすみれは、暖の名前を呼んでくれなかった。その事実が、暖を傷つけたことは想像に難くありません。

>でもそのとき、幸男が救ってくれた

すみれの言葉に、思わず拳を握りしめる暖。悪いのは幸男ではなく自分だと、何度も繰り返すすみれ。すみれの誤解を聞き流せずに、真海の仮面がボロボロと崩壊し始める。

必死に感情を押し殺そうとするけど、苦しさに顔が歪みます。

>あなたは何もわかってない。悪いのは幸男なんだよ。

ここの、「あなたは」っていう他人行儀な言葉に、暖の最後の抵抗を感じました。それは、真海の仮面をかぶり、復讐を最後まで遂行することへの固い決意です。でも次の瞬間、我慢できずに振り返ってしまうのよね(^^;

振り返ってすみれと至近距離で見つめ合った暖の目は。怒りよりも悲しみが勝っていたような。憎しみや怒りではなく、悲しみ。だって、そもそも自分たちを引き裂いたのは幸男で、すみれはそれを知らずに幸男と結婚し。子供までもうけていたのだから。こんな悲劇はない。

幸男を単純に憎み、復讐できたならまだいい。でも、その幸男の妻が、自分の愛する人だったら? どうすればいいというんだろう。暖の戸惑いと悲しみが、溢れていました。真実をぶちまけたところで、すみれを困らせるだけで何も解決はしないのだけど。それでも、言わずにはいられなかった、暖の深い悲しみ。

衝撃の告白に、すみれがどう反応したのか、そこは省略されていましたが。それはもう、茫然自失って感じだったのかなあと想像します。

とにかく。子供がいますからね。幸男との間に生まれた子供。その子にとっては、大切な父親なわけです。もはや、切り捨てることができない血の繋がり。それだけに、暖の告白はすみれにとって絶望以外の何物でもない。

このドラマ。悪役の高橋克典さんと新井浩文が、役にぴったりはまってます。大倉さんは、いい人にみえてしまうところがちょっと惜しい。もうちょっとゾっとする怖さがあってもいいかも。二面性というか。

稲森いずみさんもいいですね。登場しただけで、目を引きます。

江田愛梨役の桜井ユキさんは、凄みがないところが残念かなあ。過去の傷をあまり感じられないのです。それと、真海に対しての愛情があんまり伝わってこなくて。どちらかといえば、入間瑛理奈役の方が似合うのではないかと、そんなことを思いました。

7話のラスト。たぶん、愛梨は幸男を助けてしまったのでしょうね。でもそれは、幸男の子供に、自分の子供時代を重ねた、というだけではなく。きっと真海のことが好きだから、幸男を死なせることができなかった。

幸男が死ねば、真海が何の憂いもなくすみれ親子を助けることがわかっていたからです。なんなら、すべての復讐が終わった後、真海はすみれと結婚するかもしれない。愛梨はそこまで予想したのではないかなあ。それまでずっと真海と行動を共にしてきて、真海のすみれへの深い愛情を、誰よりもわかっている人でしょうから。

すべての復讐が終わった後、愛梨は真海と共に生きる道を夢見ているのでしょう。では真海は。暖は、何を望むのでしょうか。

続きが気になります。

植物園で元気をもらう 今年の私的薔薇NO.1は『ジャルダン ドゥ フランス』

雨ですが、どんよりした気分で出かけてきました。ちょっと落ち込むことがあって。

まあ、人生いろいろですが、結局は自分で立ち直るしかないわけです。どうすべきか、次の選択肢を決めるのは自分。

薔薇の季節だし、毎年恒例の薔薇チェックに出かけることにしました。薔薇に元気をもらおう、という作戦です。

ただ、薔薇は妖しい花。気を許せば逆に、エネルギー吸い取られるかも?なんて考えも一瞬、こころをよぎり。用心しつつ、いざ薔薇の園へ。

私的2018年春の薔薇NO.1は、『ジャルダン ドゥ フランス』でした。

すっごい元気なサーモンピンクの花が、これでもかこれでもかと、元気いっぱいに咲いておりました(^^)

私には、高校生の女の子に見えたなあ。セーラー服着た女子高生の集団が、カメラ目線で笑顔で映ってる感じ。

まだつぼみも多くて、これから、という勢いがありました。葉もつやつやで綺麗。満開になるのは、2~3日後かな。他にもいろんな種類の薔薇がありましたが、この『ジャルダン ドゥ フランス』は一際目立っておりました。

それから、いつもチェックする『青龍』を見にいきます。咲いてませんでした…

そして株が弱々しくて、以前見たときからちっとも成長していない感じ。この土地に合わない品種なのかな、と。特別手をかけてもらっているだろうに、なかなか大きくなりません。

薔薇の園は、雨が降っているにもかかわらずとても賑やかでした。晴れた日には晴れた日の、雨の日には雨の、薔薇の良さがあります。華やかなバラの香りに誘われて、人の波は絶えることがありません。

たくさんの薔薇を見た後、少し疲れたな、と思い人気のない桜並木の方角へ。誰もいない道に、雨の音が響いています。小川の流れる音も聞こえます。水音は心を落ち着かせます。そこで思わずとった写真がこれ。

桜の幹を、苔が覆っているのです。神々しい光景でした。花ではないけど、とても美しいと感じて、見入ってしまいました。触れるのが畏れ多いような木肌でした。そうなるまでの年月も感じたし、苔は特別な、重々しい衣装のようで、誰もこないこの空間に、静かに佇む哲学者のようです。

誰に主張することもなく、でもなにかをじっと考えこんでいるように見えました。そんな桜の木が、延々と続いていました。

薔薇もきれいだったけど、心が癒されたなあと感じたのは、この桜並木の静寂の方でした。雨がまたよかった。葉や草に当たり、地面にしみこんでいく雨の音。ざわざわした心が静まっていく。ささくれた心を優しく撫でられたようで。

この植物園の園長さんの言葉を思い出しました。園長さんの講演を聞きに行ったことがあります。そのとき、こんなことをおっしゃっていました。

「植物には人を癒す力があります。落ち込んだとき、ここに来て、また元気になって帰ってもらいたい。植物園は、誰にとってもそんな場所になれたらいいと思っています」

まさに。でした。静かに、力が満ちた感じ。

その後、近所の温泉へ行き、お湯につかってさらなるエネルギーチャージです。温泉は大地の恵み。お風呂上りはベリーを数種類使ったスムージーを。

いつの間にか、元気が出ていました(^^)

さあ、今夜はゆっくり眠ろう。

遠ざかる友達

一時期はとても仲良くしていたのだけど、今は距離を置いている友達Aがいる。

今日はAから電話がかかってくるというかなりリアルな夢を見て、スマホに表示されたAの名前を見て、少し迷ったけどやっぱり出ない、という選択をしたところで目が覚めた。

私が気にしているから、こんな夢をみたのか。それとも、Aが私のことを気にしてくれているのか。

友人関係も、時間が経つと変わってくるものだ。