2018年明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。2018年です。

初夢は元旦、もしくは二日に見る夢らしいので、31日から1日にかけた夢は初夢ではないかもしれないけど、私が今朝思い出したのはこんな夢でした。

果樹園にあったはずのハゼノキが、なくなっているのです。周囲は更地で、整地されていました。本当はビワや桃の木などもあったのですが、それもすべてなくなっています。でも私が気にしていたのは、ハゼノキのことだけでした。

夢の中、更地になった土地を見て、すっきりしたような、寂しいような気持ちになりました。

 

さて、元旦の今日、庭にチューリップの球根を植えました。アペルドーンとアプリコット・ビューティー。そして、ブルージャケットという品種のヒヤシンス。春が楽しみだなあ。

2018年の抱負ですが、今年は英語の勉強をがんばるということで、TOEICを受けます。年末までにどれくらい得点できるか、自分との勝負。スピーキングが苦手なので、そこもがんばりたい。年末、振り返ったときに、「日常会話なら大丈夫です」と自信をもって言えるのを目標にします。

そして、今年もやっぱり、自分の気持ちに正直に生きるということ。美しいもの、綺麗なものをたくさん見たいなあと思っています。自然の風景や、美術館、博物館、演奏会、などなど。刺激を受けて、また、たくさん文章を書きたいです。

今年もよろしくお願いいたします。

2017年を振り返る

あっという間に大みそかです。今年はどんな年だったかというと、自分の感覚に素直に生きることができた年ではないかと、そんな気がします。

自分の中の、「好き」という感覚を大事にしました。その結果、仕事の方向性も見えてきたかなあと、そんな感じです。

旅行もたくさん行きました。なんと伊勢神宮には3回です。12月には、念願の神宮会館に泊まって、憧れの早朝参拝にも参加しました。宿泊客を対象に、職員の方が1時間40分くらいかけて神宮内を案内してくれます。

これはとてもいい体験になりました! 冬の朝は寒いけど、でも空気がとても清々しい。最初に宇治橋の鳥居をくぐるときにはまだ辺りが暗いのですが、帰ってきたときには鳥居の上に太陽があり、その陽射しが温かいのです。日を体に受けて、太陽の恵を実感しました。

日中の参拝もいいですが、早朝の参拝はまた違った感覚でおすすめです。一人だと寒さでくじけそうな気持ちも、みんなで参拝すればなんだか心強い。

宿泊はやはり、神宮会館が一番いいなあと思いました。立地が最高です。目の前がおかげ横丁なので、お土産を買ったり、散策したりするのにも便利。

3月には金沢、山中温泉。7月には彦根城、9月には東京青山、11月には名古屋港、12月には三峯神社、結構いろんなところに出かけたなあ。

特に三峯神社は、2017年のうちに行きたいなと思っていた場所だったので、行けてよかったです。冬の凜とした、厳しく張りつめた空気が印象的でした。三峯神社には、夏よりも冬が似合う気がします。

今年やり残したことといえば、行きたかったレストランに行けなかったこと。思い入れが強すぎて、葛藤して行けなかった(^^; 行こうと思うと、どうしてもいろんな思いが渦巻いてしまい。普通にさくっと行けばいいのにね。過去の自分のあれこれを思ったり、怖気づいてしまいました。

まあ、今年は「自分の気持ちに素直になる」ことを目指していたので、迷うなら、行かなければいいと、そんなふうに吹っ切りました。2018年こそ行けるかなあ。行けそうならがんばって行ってきます。

夏には新車を買いました。つけてよかったナビとドライブレコーダー。特にナビに関しては、長距離を移動するのにとても助かりました。音声で案内してもらえるなんて、いい時代になったものです。ドライブレコーダーも、後から自分の運転を振り返ることができるので便利。もちろん、事故にあったときの安心感もありますしね。

私は車はできるだけシンプルに、アナログにしたかったのですが、ナビとドライブレコーダーは本当につけてよかったと思える機能でした。

あと、2017年に出会った製品で素晴らしかったのが、ランドリーマグちゃん。これは画期的製品ですよ~。世の中が大きく変わると思う。湯シャンを始めた私が、「洗濯の洗剤、もっとエコなの欲しいなあ」と思ってるときに出会いました。

興味ある方は、検索してみてください。要は、マグネシウムの入った袋を、水の入った洗濯機に入れるという、ただそれだけです。マグネシウムが水と反応して、アルカリイオン水ができます。

本当に洗浄力あるのかな?と思いつつ、購入して使ってみたところ、部屋干しのときに感じることのあった臭いが全然なくなりました。しっかり洗えてると思いますし、あと、洗濯機の中がすごく綺麗になった感じなのです。糸くずフィルターを外したときに、すみっこの方にカビみたいなのが見えて気になっていたのが、洗濯を何度もするうちに、どんどん薄くなっていきました。「ランドリーマグちゃん」を使うことで、排水ホースの中も綺麗になると書いてありました。排水ホースの中はのぞいてないのでわからないけど、この糸くずフィルターの周囲を見れば、排水ホースの中も同じことが起こっているであろうということが、想像はできます。

これは素晴らしい発見だと思いました。洗剤メーカーが怒っちゃうかもしれませんが、でも、大きな視点で見たら怒ってる場合ではないです。人間の未来にとって、素晴らしい発見ではないかと。もともとあったマグネシウムの、こんな働きに、気付いたことが偉い!

自分で実際使ってみて、良さを実感しました。ただ、注意点がひとつだけあって、水にマグちゃんを入れてから、ある程度の時間が必要だということです。すぐにはアルカリイオン水にならないから。私は少なくとも1時間はつけてから使ってますね。マグちゃんを水につけすぎて困るということはないので、気付いたら洗濯水を作っておくように心がけてます。

ランドリーマグちゃんが気に入ったので、その後、バスマグも買いました。前からいい入浴剤欲しいなあと思ってたのですが、化学製品が嫌で、なにか自然素材のものをと思っていたので、ぴったりでした。満足してます。

そして、2017年。忘れてならないのは膝の怪我です。忘れもしません。6月1日の早朝、私がゴミ置き場にゴミ捨てに行ったところ、カラスがいまして、ゴミを荒らしていたのです。2匹のカラスは私をちらっと見て、「まだ遠くにいるから大丈夫だな」という顔をして、エサ捜しを続けたのでした。

その姿を見て、これはいかん、人間の恐ろしさというものをカラスに教えなければ、この先もずっとゴミが荒らされてしまう、と思った私。猛然とダッシュしました。中学時代は陸上部で短距離を走っていたのです。スタートダッシュには自信があります。あっという間にカラスに追いつき・・・と思った瞬間、足がもつれて転びました(^^;

運動靴ではなかったのが悪かったのか、足が衰えていたのか、とにかく派手に転びました。靴も脱げました。きちんと両手をついたので頭や顔は無事でしたが、両膝、両手を強打。ものすごい音がして、カラスは吃驚し逃げていきました。

恥ずかしいので、私は何事もなかったかのように立ち上がり、靴を履き、落としたゴミ袋を拾って、涼しい顔で歩きましたけれども。家に帰ったらわりに傷口は深く。両手もそうですが、膝も、ズボンをはいていたにもかかわらずかなりの出血。

左膝の傷は、半年経った今も残っているほどです。でも、カラスは私の勢いが恐ろしかったのか、以降、すっかり姿を消してしまいました。よかった(^^) ゴミが荒らされることはなくなりました。

2017年は、親戚のおじいさんの入院も、大きな出来事でした。軽費老人ホームから、介護老人保健施設へ移りました。その間、高齢者の介護というものについて、いろいろ考えさせられました。

ひとつ思うのは、「死」が特別なものでない、ということです。人が生まれ、死んでいくことは当たり前のことで。その死に、無理に抗うということは、それこそが不幸ではないかと。

年をとって、できなくなることが一つ一つ増え、やがて死に至る。それは、とても自然なことなんだと思います。いかに自然に見送るか、というのが、幸せではないかと。

死は、寂しいけれど、とても自然なこと。死なない人間なんていないんですよね。いかに看取るか、私はそういう看取りができる施設を応援したいし、そういう施設こそ必要なのだと考えています。この話については、またいずれじっくり書きたいなあと思っていますが。

2017年、今年もいい年でした。ありがとうございました。皆さまもよいお年をお迎えください。

『狼の牙を折れ』門田 隆将 著 感想

『狼の牙を折れ』門田 隆将 著 を読みました。以下感想を書いていますが、ネタバレ含みますので、未読の方はご注意ください。

テロというと、アメリカやヨーロッパ、そして中東のイメージが強い。日本はテロとは無縁な感じもするけれど、考えてみればあのオウム真理教の事件などは、国家転覆を本気で狙った、本格的なテロだったなあと思う。内乱罪も外患誘致罪も適用されないのが不思議だった。オウム事件で適用がされないなら意味がないし、適用が無理なら無理で、新しい法律を作らなくてはいけない大事件だった。

そして、オウムの事件よりさかのぼること20年あまり。東京駅前のオフィス街が爆破されるという信じられない大惨事があったという。今の駅前の繁栄を見ると、まるで夢のようというか、本当に?という気持ちになる。

事件当時私はまだ幼児だったので、どんな報道があったのか、などは全く覚えていない。ただ、事件としてそういうものがあった、という事実だけは、なんとなく知っていた。テレビか雑誌か、後年、なにかで知識を得たのだと思う。

今回、私はこの本を読んで事件の凄惨さに驚き、犯人グループに対しては怒り、そして公安警察の地道ながんばりには、尊敬の念を覚えた。

特に、公安の仕事というのは大切だけれども決して表に出ないというところが、ちょっと気の毒な気もした。どんな手柄をあげたところで、名前が知れて世間から賞賛を浴びることはないから。

警察内部にも派閥はあって、その中での権力争いはあるだろうけど、犯人を絶対に捕まえる、という強い思いだとか、犯罪を憎む気持ちは共通のものだ。日々、こうした警察のおかげで日本の治安はしっかり守られているんだなあと、あらためて感謝の気持ちがこみ上げてきた。

犯人グループには、全く共感できなかった。もちろん、どんな政治思想を持とうとも、それ自体は自由だけど、自分たちの思い通りにしたいから一般人を巻きこんでテロをする、というのは許されないことだ。すごく不思議なんだけど、理想の社会を思い描くところまではいいとして、グループを組んだとしても、そのとき「ビルを爆破しよう」という話になったら、反対する人はいなかったのかな。だって、そこのビルで働く人は労働者だよね? そこに資本家階級はいないと思う。いくら犯人グループが気に入らない企業だったとしても、そこで働く人たちがターゲットになるのは、意味がわからない。

また、仮に、そこで働く人をエリートとだとして憎んだとしても、ビルには大勢の人が働いているわけで。そこの会社以外の人も存在する。たとえば日雇いで、すごく安い時給で単純作業をしている人もいるかもしれなくて。生活のために必死で働いていたり、子供を食べさせるために休み返上で働いてる人もいるかもしれない。その人たちも巻き込んでしまうのか。

また、その会社とかビルとか全く関係なく、ただ道を通りがかった人も犠牲になってしまった。その人の人生、奪う権利は誰にもどこにもない。どんな立派な思想であったとしても、無関係の人を巻きこんでいいわけがない。

一人、二人ではなく。組織として、こうしたテロを容認し推進する団体が、現実に存在するということが恐ろしかった。

最も印象深かったのは、警察がやっとのことで犯人を逮捕しようとする、その日の朝。逮捕を報じる朝刊が販売されてしまったこと。読みながら、あまりの展開についていけず、「ええ~~!!」と声に出してしまったほどです。

考えられません。ジャーナリズムってなんなんでしょう。その新聞を犯人が読んで、逃げてしまったらこれまでの努力は水の泡です。もちろん、それを知った土田警視総監は記事をとめるように、輪転機をとめるように頼むのですが、産経新聞の福井(警視庁クラブ詰めの記者で、まとめ役のキャップ)は断ります。

もちろん、土田警視総監は、とめなければならない理由を丁寧に説明したのですよ。「もし(犯人に)気づかれたら、捜査官だけでなく、一般市民にも被害が及ぶ可能性がある」と。

これだけ言われて、その意味がわからないわけはありませんよね。新聞記者なのだから、言葉に対しての感覚は人一倍鋭敏なはず。なのに。とめないのです。産経新聞…

この産経新聞の記者を軽蔑します。こんなことがあっていいのか、と思いながら読み進めました。読んでる私ですら、苛立ち、怒鳴りつけたいような気持ちになったのですから、その場にいた土田警視総監の気持ちはいかばかりか、と。裏切られた気持ちになったでしょうね。全部秘密にしてきたわけではなく、出せる情報は出すし、お互いさまで協力できるところは協力してきた関係だったでしょうに、一番肝心なところで、これは裏切りです。

>「明朝、現場での特ダネ取材を産経だけに約束しましょう。だから、報道は夕刊からにして欲しい。お願いします」

>土田は、福井に頭を下げた。

この描写を読んで、胸がいっぱいになりました。きっと土田警視総監も、怒りはあったと思います。だけどその怒りはぐっと押し込んで、頭を下げたんです。そして、低姿勢で頼んだのです。とにかく、逮捕前に逮捕を朝刊が報じるなんてこと、あってはならないんですから。どうしてこの産経新聞の記者にはそれがわからないのか、私にはまったく理解できませんでした。

>「一般市民の命」と「スクープ報道」との鬩(せめ)ぎ合い

と、文中では表現されていましたが。

これ、どう考えても「一般市民の命」の方が重いです。どんなスクープであれ、一般市民の命を危険に晒していいわけがありません。逮捕に失敗したら、グループはどんな反撃にでるかもわからない。そのリスクを考えるとぞっとします。なぜこの記者は平気だったんだろうか。逮捕が失敗に終わったら、後日、最初の事件よりもっと大規模な、もっと残酷なテロが起きるかもしれない。そのとき平気でいられるのでしょうか。自分には関係ないと?

福井の上司である、産経新聞の青木編集局長と藤村社会部長は、「容疑者の名前と住所は掲載しない、容疑者の住む地域には当該朝刊を配らない」というような配慮を提案しますが、そのとき、同席していたスクープ記者たちはなかなか納得しなかったそうです。

もちろん、実名を知るためにものすごく大変だった、その努力が報われない、紙面に載せられない、という記者の悔しさはわかります。でも。こんな大事な逮捕前の局面で、なお「実名を載せろ」と言いきれるその神経。

私は福井の言動にもかなりびっくりだったのですが、新聞社の中では彼はまだ、良識派のほうだったのですね。もっともっと過激な、現場の記者たちがいた。容疑者の実名を朝刊に載せて何が悪い、という考え方があった。

結局、産経新聞は、容疑者が住むエリアの配達を遅らせて、本人が逮捕以前に記事を目にしないようにする遅配作戦を行ったそうです。

でもさー、そのエリアに配らなくても、他では配るんでしょ? 容疑者の仲間が他の地域に住んでて、新聞見て容疑者に電話して知らせたら終わりなのでは? マスコミが警察の捜査の邪魔をする(それも逮捕という、一番の大事な局面で)というのは、やっぱりひどい話だと思いますし、ちょっと考えられない事態です。

一方、土田警視総監は、NHKに電話をして、自ら明日の逮捕情報を伝えました。そしてNHKの報道解禁を午前八時半とし、それまでは一切報じないという協定を取り付けました。

(ちなみに民放に関しては、たとえ新聞に記事が出ても、裏どりに手間取るだろうから、早朝からの放送はないに違いないと考えたそうです。しかし取材力のあるNHKはそうはいかないと)

警視総監から電話を受けたNHKが、良識ある判断をしてくれてよかったです。ここで、「知った以上、ジャーナリストとして報道しないわけにはいかない」とか言い出したらとんでもないことになります(^^;

産経新聞は、逮捕を朝刊で報じるだけでなく、逮捕の瞬間のスクープ写真まで撮ろうとするのですが、私は最後まで、「なんなんだ(怒)」という気持ちで読み進めました。容疑者が記者の不審な動きに気付いたらどうなるのか。なんでこう、最後まで警察の邪魔をするのでしょうか。逮捕してからなら、いくらでも取材すればいいし、その情報は社会の役に立つだろうけど。逮捕そのものを危険にさらすような行動は、許されないと思います。

本は最後の最後まで、驚くべき展開でした。逮捕した7人のうち3人の、想像もできなかった形での出国…

そのうち浴田由紀子は国外で逮捕され日本に送還されましたが、佐々木規夫と大道寺あや子の2人は、現在も逃走中だということです。

すべてが、ドラマでもなく映画でもない、実際の話。ノンフィクションであるという事実が、読後、重くのしかかってきました。

最後の最後まで、引き込まれて一気に読み終えました。事件に関わった人たちの人生が、それぞれぎゅっと詰め込まれた、中身の濃い本だと思いました。

三峯神社参拝

今年のうちに、どうしても行きたかったのが三峯神社。でも、日々の忙しさに紛れて、いつの間にか12月。もう今年は行けないかな、と思っていた。

そんなとき、20年音信不通だった友人から実家に電話が入る。会おうという話になり、東京へ出かけることになった。どうせ東京へ行くのなら、三峯へ行こう。

池袋から、西武鉄道の池袋線に乗り、西武秩父駅へ。そこからバスで1時間半。平日だというのに、バスには15人くらい乗り込んだのが意外だった。人気あるんだなあ。

バスは座れたのでほっとする。山道をとことこと走っていく。途中、三峯口駅のそばで、狭い道で折り返す場面があった。運転手さんのプロ技に、思わず乗客の間から感嘆の声が上がった。

山は、紅葉のピークは過ぎていたけど、景色はすごく綺麗で、乗車時間を長いとは感じない。そして、運転手さんの技術が、とにかく凄い。こんなに大きなバスで、狭い山道を軽やかに、すいすい迷わず行くんだもの。スピードの出し方、緩め方、安全運転で、かつスムーズな進行。

途中で道の駅なんかもあったりして、寄り道したくなったけど我慢、我慢。一度降りたら、次のバスまで時間があるし、帰りが遅くなっちゃうから。神社は、なるべく早い時間に参拝したい。

すれ違いのできない狭いトンネルを抜け、いよいよバスは本格的に山を上る。ヘアピンカーブを通り、たどりついた駐車場には車がいっぱい。こんなに山奥で、道も大変で、平日で、それなのにこの人出。これはそれだけ、霊験あらたかということなんだろうか。

バスを降りて、さっそく拝殿へ向かう。途中、見た狛犬はオオカミ。こちらの神社は、お使いがオオカミなのです。狛犬のひとつひとつ、表情が違っている。訪れる人たちを、見定めている鋭い眼だ。

拝殿で参拝する前、混んでるといやだなあと思っていたけど、なぜか階段を上がるのは私ひとりで。人はそれなりにいるのに、ちょうど拝殿で参拝する人が他にいないという独占状態。ゆっくり参拝できた。でも、柏手を打ったとき、思ったより響かなくて、少し拍子抜け。

後は、境内をゆっくり散歩することにする。足の向く方へ、向く方へと気ままに歩いたら、えんむすびの木の案内表示がありました。そしてさらに奥へ歩いていくと、お仮屋という小さなお宮が。たくさんの犬?オオカミの像が印象的。

私は拝殿よりも、なんとなくこの、お仮屋の雰囲気の方が心に残りました。人影はあったけれど、それを感じさせないほどの静寂な空気。異世界に来たような感じ。歩いていてとても気持ちがよかった。一歩ごとに清められるようで、すがすがしい。

本当は温泉にも入っていきたかったけれど、帰りのバスが混むのが怖くて、早目のバスで帰りました。最後にパチリ。

ところがその日、帰りの電車で軽い頭痛。ホテルに着いたら頭痛はどんどん本格的になり、起きていられないほどでした。やっとの思いでシャワーを浴び、倒れるようにベッドへ。21時にはもう寝るというまさかの事態(^^;

次の日、目覚めたときにはすっかり回復していたのでよかったです。今年中の参拝が叶って、ほっとしました。

『はいからさんが通る』 大和和紀 著 感想

『はいからさんが通る』のアニメ映画が公開、ということで、『はいからさんが通る』ブームが再び起きているみたいです。

上野公園近くの弥生美術館で、展覧会があるということで行ってきました。原画の展示、懐かしいセリフの数々に、自分が小学生だった頃の、感動が蘇ってきました。

初めて読んだのは、小学校6年生だったかなあ。夢中になって、何度も読み返して、しばらくは少尉のことで頭がいっぱいになっていたっけ。

二次元の世界の人を、初めて好きになりました。それが少尉でした。伊集院忍。もう名前が異次元だもんね~。伊集院光さんとか、伊集院静さんとか、もう、名前聞いただけで、ドキドキしたものです。少尉の面影を重ねようとして、実際の姿を知ったときには勝手に衝撃を受けたり(^^; 勝手に期待して、勝手にがっかりするのも失礼かとは思いますが。でも伊集院という姓をつけた背景には、お二人ともそれなりの思いがあったのかと、想像します。

以下、漫画の感想を書きますがネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

「はいからさんが通る」には4人のイケメンが登場します。帝国陸軍少尉、伊集院忍。主人公紅緒の幼馴染、藤枝蘭丸。出版社編集長、青江冬星。少尉の部下、鬼島森吾。

一般的に誰が一番人気があるのかというと、少尉が一番で、次点が編集長。二人から大きく票が離れて、鬼島と蘭丸かなあ、という感じだと思いますが。

私の個人的な好みでいうと、少尉一択です。少尉しか見えません。 だから、紅緖が編集長と結婚しようとした気持ち、わからないんですよね。今、あらためて読み返してみても、やっぱり編集長は編集長で、職場の上司という存在にしか見えなくて、紅緖が惹かれる気持ち、わかりません。

一応、紅緖も編集長に、異性として惹かれる部分が少しはあったわけですよね。それがあっての結婚で。

紅緖も、基本的には色恋で結婚しようとしたわけではないですけども。伊集院家を助けるために編集長が自分の生き方を変えた、その男気に報いるために、というのが結婚の裏事情ですけども。

なんだかなあ、今読み返すと、紅緖も編集長も、それでいいんですか?と問い詰めたくなります。紅緖に関して言えば、結婚式当日にも、少尉の幻を見てるくらいですし、全然気持ちをふっきってなどいないわけで。他の人への消えない思いを抱えたままの花嫁。お礼の気持ちで夫婦になる。男女の愛情でなく。

そして編集長も。平気なんだろうか。愛されていないことを知りつつ、お礼の気持ちで結婚する花嫁を、迎え入れるということ。編集長の性格からすると、紅緖から何を言われようとも、結婚とか拒みそうだけども。「お前さんに憐れんでもらわなくとも結構」そう言って、紅緖にはそれ以上何も言わないまま、伊集院家を助けて身を引きそうなんだけどなあ。

さて、この漫画には、小学生の時と、40代の大人になって読み返したときと、感想が違ってきた部分がいくつか存在します。以前のブログでも少し書いた記憶があるのですが、まず、ラリサの夫として暮らした過去を理由に、記憶が戻っても紅緖の元へ戻らなかった少尉の行動について。

これは、大人になったらわかる。子供の時は無邪気に、「なんだよー、ラリサと暮らしてようが別にいいじゃん」なんて思ったけれど。

ラリサと暮らした日々の重さ。そしてラリサの病。そりゃ、紅緖の幸せを考えれば考えるほど、このまま波風を立てずサーシャのフリをし続けようと思いますわな。少尉が少尉であると声を上げるには、少し時間が経ちすぎてしまった。少尉がいない状態で、時が流れてしまったから。少尉不在という世界が、ゆるやかに固まりつつある中で、それをすべてひっくり返せば傷つく人がいる。

それと、私も。もし紅緖の立場だったら、やっぱりちょっと、抵抗あるかもしれないと思ってしまいました。ラリサの夫として暮らした月日を。全然平気、とは言えないかもしれない。なにかあれば、そしてことあるごとに、そのことが胸の奥で深く、静かに痛みそう。

お互いに相手を思いやれば、別離は賢明な選択で。もちろんスパっと割り切れないからこそ、苦しみながらも。

もし関東大震災がなければ、二人がもう一度結ばれることはなかったんだなあと、そう思います。

そして、そもそもこの漫画で一番ひどい人というのが、実は少尉のおばあさまではないかと気付いてしまった今日この頃。

だって、自分が想い人と結婚できなかったから、自分たちの孫同士を結婚させようって、単純にひどい話で。じゃあ孫の気持ちは? 結ばれなかった悲しみと同じものを、孫に背負わせるわけですよね。そのせいで、孫は自分が好きな人と結婚できないわけだから。

しかもおばあさまの夫、おじいさまは生きているのに。自分の妻が、自分ではない元恋人との約束を、生涯忘れず果たそうとしているのを知って。どんな気持ちになるでしょう。私だったら、裏切られたと思うだろうな。一緒に暮らした長い月日を、全部否定されたような気持ちになるでしょう。

『はいからさんが通る』には数々の名場面がありますが。中でも印象深いのは、政治犯の疑いをかけられて拘留された紅緖を助けるために、少尉が大河内中将に会いにいくシーン。

>うっかりはずすのを忘れていた

>帝国軍人ともあろうものがこんなものを

そう言って、軍服姿の少尉が、耳のピアスを外すのです。ロシアの亡命貴族サーシャから、伊集院忍に戻る瞬間。ジグソーパズルの最後のピースが、ぴたっとはまるように。そのとき、紅緖のために少尉に戻ったその姿を、本当にかっこいいと思いました。

紆余曲折、ドラマチックな二人の恋。改めて読んだけれど、展開も結末も知っているのに、読みながら涙してしまいました。それぐらいパワーのある作品です。コメディで茶化してるところも多いのに、真剣なシーンではさっきまでのおちゃらけが嘘のように、ぐぐっと強い力で引き込まれます。

ストーリーもいいけど、絵柄の力も大きいと思いました。なぜなら、アニメ化された映画の予告を見て、まったく心惹かれなかったからです。少尉も紅緖も、漫画原作通りでないと、まるで別作品のようで。同じストーリーをたどっても、違う作品のようになるだろうと想像しました。

思えば、1987年の実写版の映画も、原作漫画からは大きくかけ離れていました。南野陽子さんの紅緖、阿部寛さんの少尉、やっぱり原作とは違う。

弥生美術館での「はいからさんが通る」展、大盛況でした。次から次へと入館者がひっきりなしです。ほぼ女性で、みんな懐かしそうに展示に見入っていて。きっと、あの原画を見たら、一瞬で、みんな少女の頃に戻るんだと思います。

私もそんな一人でした。