三峯神社参拝

今年のうちに、どうしても行きたかったのが三峯神社。でも、日々の忙しさに紛れて、いつの間にか12月。もう今年は行けないかな、と思っていた。

そんなとき、20年音信不通だった友人から実家に電話が入る。会おうという話になり、東京へ出かけることになった。どうせ東京へ行くのなら、三峯へ行こう。

池袋から、西武鉄道の池袋線に乗り、西武秩父駅へ。そこからバスで1時間半。平日だというのに、バスには15人くらい乗り込んだのが意外だった。人気あるんだなあ。

バスは座れたのでほっとする。山道をとことこと走っていく。途中、三峯口駅のそばで、狭い道で折り返す場面があった。運転手さんのプロ技に、思わず乗客の間から感嘆の声が上がった。

山は、紅葉のピークは過ぎていたけど、景色はすごく綺麗で、乗車時間を長いとは感じない。そして、運転手さんの技術が、とにかく凄い。こんなに大きなバスで、狭い山道を軽やかに、すいすい迷わず行くんだもの。スピードの出し方、緩め方、安全運転で、かつスムーズな進行。

途中で道の駅なんかもあったりして、寄り道したくなったけど我慢、我慢。一度降りたら、次のバスまで時間があるし、帰りが遅くなっちゃうから。神社は、なるべく早い時間に参拝したい。

すれ違いのできない狭いトンネルを抜け、いよいよバスは本格的に山を上る。ヘアピンカーブを通り、たどりついた駐車場には車がいっぱい。こんなに山奥で、道も大変で、平日で、それなのにこの人出。これはそれだけ、霊験あらたかということなんだろうか。

バスを降りて、さっそく拝殿へ向かう。途中、見た狛犬はオオカミ。こちらの神社は、お使いがオオカミなのです。狛犬のひとつひとつ、表情が違っている。訪れる人たちを、見定めている鋭い眼だ。

拝殿で参拝する前、混んでるといやだなあと思っていたけど、なぜか階段を上がるのは私ひとりで。人はそれなりにいるのに、ちょうど拝殿で参拝する人が他にいないという独占状態。ゆっくり参拝できた。でも、柏手を打ったとき、思ったより響かなくて、少し拍子抜け。

後は、境内をゆっくり散歩することにする。足の向く方へ、向く方へと気ままに歩いたら、えんむすびの木の案内表示がありました。そしてさらに奥へ歩いていくと、お仮屋という小さなお宮が。たくさんの犬?オオカミの像が印象的。

私は拝殿よりも、なんとなくこの、お仮屋の雰囲気の方が心に残りました。人影はあったけれど、それを感じさせないほどの静寂な空気。異世界に来たような感じ。歩いていてとても気持ちがよかった。一歩ごとに清められるようで、すがすがしい。

本当は温泉にも入っていきたかったけれど、帰りのバスが混むのが怖くて、早目のバスで帰りました。最後にパチリ。

ところがその日、帰りの電車で軽い頭痛。ホテルに着いたら頭痛はどんどん本格的になり、起きていられないほどでした。やっとの思いでシャワーを浴び、倒れるようにベッドへ。21時にはもう寝るというまさかの事態(^^;

次の日、目覚めたときにはすっかり回復していたのでよかったです。今年中の参拝が叶って、ほっとしました。

『はいからさんが通る』 大和和紀 著 感想

『はいからさんが通る』のアニメ映画が公開、ということで、『はいからさんが通る』ブームが再び起きているみたいです。

上野公園近くの弥生美術館で、展覧会があるということで行ってきました。原画の展示、懐かしいセリフの数々に、自分が小学生だった頃の、感動が蘇ってきました。

初めて読んだのは、小学校6年生だったかなあ。夢中になって、何度も読み返して、しばらくは少尉のことで頭がいっぱいになっていたっけ。

二次元の世界の人を、初めて好きになりました。それが少尉でした。伊集院忍。もう名前が異次元だもんね~。伊集院光さんとか、伊集院静さんとか、もう、名前聞いただけで、ドキドキしたものです。少尉の面影を重ねようとして、実際の姿を知ったときには勝手に衝撃を受けたり(^^; 勝手に期待して、勝手にがっかりするのも失礼かとは思いますが。でも伊集院という姓をつけた背景には、お二人ともそれなりの思いがあったのかと、想像します。

以下、漫画の感想を書きますがネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

「はいからさんが通る」には4人のイケメンが登場します。帝国陸軍少尉、伊集院忍。主人公紅緒の幼馴染、藤枝蘭丸。出版社編集長、青江冬星。少尉の部下、鬼島森吾。

一般的に誰が一番人気があるのかというと、少尉が一番で、次点が編集長。二人から大きく票が離れて、鬼島と蘭丸かなあ、という感じだと思いますが。

私の個人的な好みでいうと、少尉一択です。少尉しか見えません。 だから、紅緖が編集長と結婚しようとした気持ち、わからないんですよね。今、あらためて読み返してみても、やっぱり編集長は編集長で、職場の上司という存在にしか見えなくて、紅緖が惹かれる気持ち、わかりません。

一応、紅緖も編集長に、異性として惹かれる部分が少しはあったわけですよね。それがあっての結婚で。

紅緖も、基本的には色恋で結婚しようとしたわけではないですけども。伊集院家を助けるために編集長が自分の生き方を変えた、その男気に報いるために、というのが結婚の裏事情ですけども。

なんだかなあ、今読み返すと、紅緖も編集長も、それでいいんですか?と問い詰めたくなります。紅緖に関して言えば、結婚式当日にも、少尉の幻を見てるくらいですし、全然気持ちをふっきってなどいないわけで。他の人への消えない思いを抱えたままの花嫁。お礼の気持ちで夫婦になる。男女の愛情でなく。

そして編集長も。平気なんだろうか。愛されていないことを知りつつ、お礼の気持ちで結婚する花嫁を、迎え入れるということ。編集長の性格からすると、紅緖から何を言われようとも、結婚とか拒みそうだけども。「お前さんに憐れんでもらわなくとも結構」そう言って、紅緖にはそれ以上何も言わないまま、伊集院家を助けて身を引きそうなんだけどなあ。

さて、この漫画には、小学生の時と、40代の大人になって読み返したときと、感想が違ってきた部分がいくつか存在します。以前のブログでも少し書いた記憶があるのですが、まず、ラリサの夫として暮らした過去を理由に、記憶が戻っても紅緖の元へ戻らなかった少尉の行動について。

これは、大人になったらわかる。子供の時は無邪気に、「なんだよー、ラリサと暮らしてようが別にいいじゃん」なんて思ったけれど。

ラリサと暮らした日々の重さ。そしてラリサの病。そりゃ、紅緖の幸せを考えれば考えるほど、このまま波風を立てずサーシャのフリをし続けようと思いますわな。少尉が少尉であると声を上げるには、少し時間が経ちすぎてしまった。少尉がいない状態で、時が流れてしまったから。少尉不在という世界が、ゆるやかに固まりつつある中で、それをすべてひっくり返せば傷つく人がいる。

それと、私も。もし紅緖の立場だったら、やっぱりちょっと、抵抗あるかもしれないと思ってしまいました。ラリサの夫として暮らした月日を。全然平気、とは言えないかもしれない。なにかあれば、そしてことあるごとに、そのことが胸の奥で深く、静かに痛みそう。

お互いに相手を思いやれば、別離は賢明な選択で。もちろんスパっと割り切れないからこそ、苦しみながらも。

もし関東大震災がなければ、二人がもう一度結ばれることはなかったんだなあと、そう思います。

そして、そもそもこの漫画で一番ひどい人というのが、実は少尉のおばあさまではないかと気付いてしまった今日この頃。

だって、自分が想い人と結婚できなかったから、自分たちの孫同士を結婚させようって、単純にひどい話で。じゃあ孫の気持ちは? 結ばれなかった悲しみと同じものを、孫に背負わせるわけですよね。そのせいで、孫は自分が好きな人と結婚できないわけだから。

しかもおばあさまの夫、おじいさまは生きているのに。自分の妻が、自分ではない元恋人との約束を、生涯忘れず果たそうとしているのを知って。どんな気持ちになるでしょう。私だったら、裏切られたと思うだろうな。一緒に暮らした長い月日を、全部否定されたような気持ちになるでしょう。

『はいからさんが通る』には数々の名場面がありますが。中でも印象深いのは、政治犯の疑いをかけられて拘留された紅緖を助けるために、少尉が大河内中将に会いにいくシーン。

>うっかりはずすのを忘れていた

>帝国軍人ともあろうものがこんなものを

そう言って、軍服姿の少尉が、耳のピアスを外すのです。ロシアの亡命貴族サーシャから、伊集院忍に戻る瞬間。ジグソーパズルの最後のピースが、ぴたっとはまるように。そのとき、紅緖のために少尉に戻ったその姿を、本当にかっこいいと思いました。

紆余曲折、ドラマチックな二人の恋。改めて読んだけれど、展開も結末も知っているのに、読みながら涙してしまいました。それぐらいパワーのある作品です。コメディで茶化してるところも多いのに、真剣なシーンではさっきまでのおちゃらけが嘘のように、ぐぐっと強い力で引き込まれます。

ストーリーもいいけど、絵柄の力も大きいと思いました。なぜなら、アニメ化された映画の予告を見て、まったく心惹かれなかったからです。少尉も紅緖も、漫画原作通りでないと、まるで別作品のようで。同じストーリーをたどっても、違う作品のようになるだろうと想像しました。

思えば、1987年の実写版の映画も、原作漫画からは大きくかけ離れていました。南野陽子さんの紅緖、阿部寛さんの少尉、やっぱり原作とは違う。

弥生美術館での「はいからさんが通る」展、大盛況でした。次から次へと入館者がひっきりなしです。ほぼ女性で、みんな懐かしそうに展示に見入っていて。きっと、あの原画を見たら、一瞬で、みんな少女の頃に戻るんだと思います。

私もそんな一人でした。

運転免許はもっと厳格な条件をつけるべき

雨の中、投票に行ってきました。私ひとりなら歩いていくのですが、高齢な母がいるので車で行ってきました。

ところが、投票所敷地内の駐車場が大渋滞です。どこかのおじいさんが運転する乗用車が、駐車場を出ようとする車をふさいで動かなかったので(^^;

もともと狭い敷地なので、おじいさんがとまっている場所で二台すれ違うのは無理です。ただ、おじいさんの車が少し先に進めば、ロータリーのようになっていて、ぐるっと回って駐車場には入れるのです。出る車、入る車、そのロータリー状のスペースを使えばいいのですが、おじいさんには最短の道しか目に入っていないらしく。

出ようとする私の車の前に立ちふさがって、指で、下がれ下がれと合図します。もしくは、下がれと言ったのではなく、自分はそちらに行きたいのだと言いたかったのかもしれませんが。

そうはいっても、私の車が下がったところで駐車場自体狭く、おじいさんが駐車するのに私の車が邪魔になってしまう。しかも、私の後ろには、同じく駐車場を出ようとする他の車が続いていて、私が下がるのは無理。どう考えても、おじいさんがロータリーをぐるっと回るのが最良です。

出る車が出なければ、駐車場は空きません。でもおじいさんは、どうしてもこの道を行きたいのだといって、出ようとする私の車をふさぐ。困りました。

仕方なく、私も手で、「ぐるっと回ればいけますよ」という合図をしました。するとそれが通じたのかどうか、おじいさんは先に進んでくれました。私もほっとしてやっと駐車場を出ることができたのですが、おじいさんが立ちふさがっていたため敷地内に渋滞が発生。その先のぎりぎりすれ違えるだけの幅の道を、ずらりと並んだ対向車にかなり気を遣いながら、運転することになってしまいました。空いてれば、対向車はないか、あっても一台くらいで、そんなに大変な道ではないのですが。

後から考えました。あれ、おじいさんが自分で気付いて先に行ってくれたからよかったけど、もしあのまま止まってたら、私が車を降りて説明にいかなきゃいけなかったんだろうなあ。大雨の中。

ロータリーといっても大きなものでなく、ほんの4メートル先にいけばすむ話なのに、おじいさんにはわからなかったんでしょう。助手席に座っているのもおばあさんだったので、同じく状況判断ができなかったと思われます。

こんなに状況判断能力が低下しているのに、まだ車を運転しているのはだめだと思いました。車は高速で走っているとき、一瞬の判断で切り抜けなければならないことが多いのに、これでは事故につながってしまう。ゆっくり考えても他車の妨害をするのに、瞬間の判断が正しくできるわけがない。

たまたま今朝、私が遭遇した一台の車ですが。全国で同じことが起こっているんだと思います。高齢者の運転は、もう一律年齢制限をかける時期にきているのではないだろうか。少し甘く見ても、80歳を越えたら免許を失効してもいいと思う。そうでないと、自分では気づかないまま危ない運転を続ける人が続出でしょう。一定の年齢を超えると、運転をやめる、という判断ですら、つかなくなってしまうのだと思う。

そもそも、運転免許自体、とても甘い取得条件ですね。高齢者に限らず、もっともっと基準を厳しくしていいのではないかと。たとえば、近頃話題になった高速道路のあおり運転、これは一度でも発覚したらもう一生免許とれないようにしないと。こういう運転をする性格は直らないから。一般道でも高速道でも、監視カメラをつけて、危険運転を徹底的に取り締まってほしいです。

よく、監視カメラをつけると個人情報が~と反対する人がいますが、きちんと運転してれば何も怖くないどころか、メリットしかありません。いつどこにいたのか、知られて困ることは別にないし。

何百キロの鉄の塊を高速で走らせるんだから、車は凶器。その自覚がない人に、運転する資格はないです。

運転免許の取得・更新を厳格にすること。喫緊の課題じゃないのかなあ。一度でも重大事故を起こした人は、二度ととれないようにするのは当たり前で。起こすには起こすだけの下地があったと思う。

そういえば高速で煽り運転のあげく相手を無理やり降車させて、そこに後続のトラックが突っ込んだ事故がありましたが。あれ、事故じゃなくて殺人ですね。それが殺人として裁けないなら、法律の方がおかしいし、新たに作らなきゃならない。

ちなみに私は、殺人事件の被害者が一人だと、原則、死刑が出ない状況はおかしいと思っています。一人の命が失われたら、むしろ原則は死刑ではないの?と。そこに、情状酌量やいろんなものが入ってきて、最終的な判断が下されるわけで。

車の事故は、不可抗力なケースももちろんありますが、事故を誘発する危険性をわかっていながら運転を続けたなら、その責任は非常に大きいと思います。

もっともっと、運転免許の取得と更新は厳格化してほしいです。

真夜中の非通知電話の主

先日、久しぶりに会う友人と、とあるレストランへ出かけた。お店を決めたのは私だったのだが、実はそこのオーナーシェフに会ってみたい、というのが理由だったりした(^^; 料理目当て、とかではなく、単純に見たかったんだよね、その人を。

その人は、昔私が短期のバイトをしたお店の社員さんで。その後、独立して自分のお店を持ったのだ。とても素敵な人で、私にとっては憧れの人で、尊敬してて。

その後もずっと、何かと思い出すくらい、私の中でインパクトを残した人だった。最初は行方を知らなかったけど、たまたまネットでお店のHPを見て、驚愕した。その人の写真があった。それからずっと行ってみたいな~と思っていて。ただ、実際に行く勇気がなかなか持てなかった。

友人との会話も楽しかったけど、お店で私はずっと、どこかで緊張していた。本当にあの人なのかなあという不安のような、期待のような。

ちなみに予約を入れずに行ったため、最初にお店に入ったときには満席で、店員さんに名前と電話番号を聞かれた。席が空いたら、電話してくれるという。一瞬迷ったけど、私の名前と電話番号を告げた。

まあ別に、私の名前を告げたところで店員さんとシェフは別人だし、シェフが私の名前を知ることはないんだけど。知ったところで、もう20年以上前のことを覚えているはずもないんだけど。もうその時点で冷や汗をかいてた。

どうしよう、もし覚えてたらなんだか恥ずかしいなあ。繁忙期の手伝いだったから、実質2週間くらいなのかな。一緒に働いたのは。考えてみれば、それだけの人を覚えてるわけないか。もし名前見たところで、なにも思い出したりはしないだろうなあ。

そして、40分くらい近くをぶらついていたら電話があって、私と友人はお店に戻り、おしゃべりをしつつランチを堪能。料理はさすがの美味しさでした。感慨深かったなあ。これがあの人の作った味なんだなあって。

お会計のときには、ちょうどシェフがレジのところに来て、ニコニコしながら私たちを送ってくださるというハプニングが! 顔見られるのが恥ずかしくて、ドキドキしました。あまり目も合わせられず。

まさか覚えてるわけないもんなあ。そんなはずないもんなあ。と思いつつ、帰りました。別に声をかけられることもなかったです。

そしてその日は何事もなく終わり…と思ったら、真夜中に謎の着信が。

スマホを見つめたまま、しばらく固まりました。非通知。このタイミングで真夜中の非通知って、もしかして?

瞬間的に、その人からかと思ってしまいました(^^; そんなわけないのになあ。いくら懐かしくても。こんな真夜中に電話を、しかも非通知でかけてくるような人じゃない。まあそれ以前に、私を覚えてるはずなんてない。

もちろん、私はそんな不審な電話に出るはずもありません。じっとスマホを見てました。電話は、ワンギリではなかったです。長いこと、というほどでもないけれど、明らかな意志を持って、一定時間鳴っていました。そして、ふっと鳴りやんで。静寂。

今でも考えてしまう。ただのいたずらなのか、間違い電話か。でも、今までそんな真夜中の非通知の電話なんてかかってきたことなかったし。その後も、2度とそんなことはなかったし。食べに行ったその日のタイミングでこれって。偶然というにはあまりにドンピシャすぎる。

ちょっとだけ。もしかしたらその人なのかなあ、と思ってみたりもするのです。でも夜中の迷惑電話、するような人じゃないしなあ。もう1回食べに行ってみようかな。今度はちゃんと目を合わせるから、そしたら、その人が私を覚えているかどうかわかるかな。

年内に、もう一度行ってみようと思います。

レイキを体験してみた結果

レイキというエネルギー療法を体験してみた結果、何も感じなかったという話です(^^;

レイキに対して批判的な感想になっておりますので、気分を害する方は続きを読まないでください。

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去年、鞍馬寺へ行ったときに、鞍馬がレイキという民間療法の発祥の地であることを知った。臼井さんという男性が、鞍馬山で断食の末に悟りを得て、レイキを発見したとか。

私は鞍馬山で、空気が澄んでて気持ちいいなあとか、この場所好きだなあ、という感覚は持ったけれど、なにか特別なエネルギーを感じることはなかった。だから、一度その、レイキというエネルギーを体験してみたいなあ、と思っていた。

つい先日、自宅の近所で、一日だけの体験セミナーが行われるのを知り、さっそく応募。とはいえ、別に本格的なものではない。そのレイキというのは回路を開く必要があり段階があるらしいのだが、私が応募したのはそれではなくもっと初歩。レイキの体験講座、というものだ。気楽なので申し込んでみた。

こういうのは、先生選びがとても重要だと思う。スピリチュアルセミナーとなると、変な感じの先生も多いから(^^;

私はまず、その講座に来る先生のブログを読んでみた。ふっくらとした丸顔の、笑顔が優しい女性の先生。写真がたくさんあったのだけど、先生の外観がまず、安心できる感じだった。ただ、ちょっとひっかかったのが、「私はすごい」アピールがさりげなく、そこら中に混ぜてあるところ。

他のレイキの先生より私の方が人格者だ、という意識が透けてみえるのが、少しだけ気になった。

でもまあ、自信があるのは悪いことではないしな。と考え直す。こういう業界は、詐欺みたいなものも多いし、同業者の悪いところが気になるのかもしれない、と。

そして当日、いそいそと会場へ。二つ部屋があって、事前の案内地図にあった方の部屋では、陶芸セミナーのようなものが開かれていた。うろうろしながらそっと部屋をうかがったけど、どう見てもレイキセミナーではなさそう。

でも、案内地図だと、明らかにこの部屋なんだよなあ。迷って、隣の部屋をちら見する。そこは電気がついておらず、暗い部屋だった。人が2人、椅子に座って話しているのが見えた。部屋の前には、「レイキセミナー」の文字。

う~ん。ここなのだろうか。場所は聞いてたところと違うけど、看板はこの部屋の前に出てるし。でも、部屋は暗く、とてもセミナーが開かれる場所とは思えない。例えるなら、なにかを開催する前の準備室?みたいな。人を招くような部屋ではなかった。

さんざん迷った末、聞いてみることにした。ドアは開け放たれていたので、近くまで行って「すみませんレイキのセミナーはここですか?」と、中にいる人に声をかけてみる。

おしゃべりしていた一人が、こちらに顔を向けて、「そうですよ」と一言。

その瞬間、思った。暗い。暗すぎる…なんだこの空間。落ち着くとか、そういう感じではなく、人を迎える感じの部屋ではないのだ。ちょっと引くぐらいの空気感。暗い。こんなに暗い場所に足を踏み入れるのもめったにないこと。

そこにいた二人、おしゃべりをやめて私を見たのはいいけど、笑顔なし。そのおしゃべりも、深刻そうにぼそぼそと低い声でささやいていたので、なんだか中断させたのが申し訳ないような気持ちになる。

私は室内に入り、空いていた椅子に適当に座った。部屋の中には、さっきまでおしゃべりしていた二人と、私だけ。二人はまたおしゃべりを始めて、なんとなく疎外感を感じる私(^^; 深刻な悩みを抱えた二人なのかなあ。とにかく、まとった空気が重いのだ。

しかし、講座が始まってびっくり! なんと、二人のうち一人は、レイキの先生でした。ブログと顔が全然違う。

ブログだと、ふっくらした顔立ちでいつも笑顔、穏やかで優しい先生だが、実物はやせすぎて、健康に不安を感じるくらいの顔、体。眉間にしわこそないものの、あってもおかしくないくらいの険がある。はっきりいって、ブログに登場する人とは別人だ。あれはいつの写真なんだろう。ずいぶん前に撮ったものを、何度も使い回ししているんだろうなあ。

なにより、笑顔がないのが気になった。いつも、厳しい顔なのだ。たぶん自分ではあまり気付いてないんだろうけど、なんというか、ウェルカムの雰囲気がない。いつも何かに不満をもち、苛立っている印象。

講座が始まってすぐ、来るんじゃなかったと後悔した(^^;

だって、レイキの歴史や概要を、延々と読み上げるだけなんだもの~。あと、チャクラの話とかね。そういうのは事前にもうある程度勉強してあるから、読み上げられても今さら、という感じ。2時間の講義中、1時間はそういう、もう今さらの話だった。まあ、これは仕方ないのかな。初心者向けの講座ということだから。

しかし、座学が終わり、いざ体感ということになって、残っていたわずかな希望が消えた。全く、なにも感じなかったから。

先生は、口ではいろいろ言うんですよ。レイキは素晴らしい。レイキは万能。できないことなどなにもない。人間にも動物にも、無生物にもかけられる。でも、いざかけてもらっても、拍子抜けするくらいなんにも感じなかった…。

この部屋も、事前にレイキをかけて浄化してあります、と先生が自慢気に言った瞬間、軽いショックを感じる。うそぉ、これで、浄化した? じゃあなんなんだ、このねっとりと重く、絡みつくような空気は。

部屋の照明が暗い、という問題ではなくね。もう、なんともいえない嫌~な空気なわけです。本当はもう、途中で帰りたかった。だけど参加人数も少ないし、私が帰れば先生も不愉快だろうし、ここは我慢して残りの時間を耐えることに(^^;

そしたら先生が、「緊張してるでしょ、もっとリラックスして」と私に要求。内心、私は苦笑するしかありませんでした。そりゃもう、初対面の人と一緒なんですから、普通程度に緊張はしますが、別に言われるほどのことでもなく。

それからがもう、しつこかった。「緊張しないで」の連呼。なんなんだこの人は。私が「さすがレイキ。巨大なエネルギーが通り抜けていくのを確かに感じました!」とほめないからなのか、緊張するから感じないのよと言いたいのか、とにかく、「緊張しないで」を連発なのです。

ある時点で、私も諦めました。相手に合わせて、「すみません~。緊張しちゃって、エヘヘ」と。先生は満足そうです。「そうでしょう。そうでしょう。いいんですよ、さあ心を開いて。緊張しないで」

でも私は内心思っていました。もし私が本当にすごく緊張してたとして、「緊張するな」なんて言ったら、普通はもっと緊張するんじゃないの?「緊張するな」なんて言わずに、その力なり、言葉なり、態度なりでリラックスさせるのが先生なんじゃないの? レイキは万能というわりに、緊張する相手に「緊張するな」の連発とか、おかしくない?

もう途中で、面倒くさいので全部先生の言葉に合わせていましたが、うるさかったです。何度も、「感じるでしょう?」と確認するので。なにも感じないとも言えず、つないでいた手が温かかったので、「手が温かいです」と答えました。嘘ではないからね(^^;

レイキはすごいエネルギーで、飲食物の味も変えられるのだ、と力説していましたが。参加者(私も含めて二人)の前には水が用意されていたので、なんでそれを変えてくれないのか不思議でした。言葉で語るより、まずはやってみせたら説得力増すのになあ。水に味がついたらすごいことだと思う。でもそれはやってくれませんでした。

そして決定的に、この人ダメだ~と確信したのは、先生のこの言葉。

「私が頼まれて、手術する患者にレイキをやったら、今のところ手術の成功確率は100パーセントです。一度治ったのに、しばらく来なくなった人がいて、そしたら亡くなってしまった。私のところに通い続けてたら結果は違ってたと思う(つまり生きていたと)」

いや~、この発言はアウトでしょう。人の生死をどうにかできるのって、神様のレベルではないですか。端的に言っちゃえば、私を頼らなかったから死んだ、ということですよね。自分をどれだけ大きな存在だとおもっているんだろうか、この人は。

私は不思議な出来事、オカルト、スピリチュアル、そういったことにすごく興味がありますし、たとえば手を当てる療法、気功などで、痛みが軽減したり病が回復したりっていうのも、実際ありうることだと思ってます。

ただし、100パーセントだとか、私がやらなかったから死んだとかいう人は、詐欺師かもしくは、自分を見失った可哀想な人ですね。少なくとも、先生、ではない。そういう人から何かを教わろうとは思いません。信用できない。

講座は二時間の予定が、先生の熱弁で三十分オーバー。その時点で、社会人としてもこの人はないなーと思いました。まずは、いったんお開きにすべきでしょう。その上で、やりたい人だけ残ればいい。決められた時間があったら、決められた時間に終わるのがビジネスのルール。先生は、「私のありがたいお話を無料で聞かせてあげてる」つもりかもしれないけど、私はもう、帰ることしか考えてなかったです。

そして、最終的に先生は、私ではなくもう一人に、営業の猛攻撃。いろんな料金表をみせて、あなたは本格的にやってみるべきだわと、猛プッシュです。そのもう一人の参加者の方は、顔色が悪かったので(先生もそうだったけど)たぶん病をお持ちなのではと思ったし、ぽつりぽつりと家庭の悩みなども口にする方だったので、ターゲットにされたのだと思います。

そうか~こうやって取り込まれていくのか~と、少し気の毒に感じました。弱ってる人がぐいぐい来られると、洗脳されてしまうかもしれませんね。

私もいろんなメニューの料金表を渡されて、また来てね~と言われて帰ってきましたが、当然のことながらその先生を訪ねていくことは二度とありません。別に営業などしなくても、本物なら口づてにどんどんお客さんは増えると思いますし、あれだけ宣伝に必死な姿を見たら、逆に引きます。

そして思ったのですが。

宇宙のエネルギー。確かにあると思うんですよ。太陽だって、すごいエネルギー。でも、そういうものを、お金を払って回路を開かないと利用できないという考え方が、なんか違うような気がする。それこそ、選民意識ではないかなあ。誰にだって等しく、宇宙はちゃんと、愛情注いでくれていると思う。

誰かのために祈ること。そして、痛いところ、苦しい場所に手をあてること。それは、別に習わなくてもできる。

私はレイキの先生だから私から習わないとダメとか。そうでなきゃ病気も治らないとか、そういうのって、典型的な霊感商法だなあと。

セミナーでは全くといっていいほど、なんのエネルギーも感じなかったですし、むしろ部屋の空気の重さが、とても気になりました。こんなことなら、山とか海とか、好きな神社に行く方がよほど、心地いいと感じることができたなあと。

私はもっと、わかりやすい何か、わかりやすいパワー、みたいなものを求めていたけれど、それは違っていたのかもなあ、なんてことを思いました。なぜだかわからないけど気持ちいい、すっきりする、心地よい、そう感じるだけで十分なのだと思います。だから去年、私は鞍馬寺の風が気持ちよかったと感じた、本当はそれだけでよかったんだなあ。感じられなかったわけじゃない。ちゃんと、感じていたじゃないかと。

そして、人はみんな、自分に合ったレベルの人としか出会えない、ということを思いました。きっと世の中には、本物の不思議なパワーを持った人、というのもいるのでしょうが、少なくとも今の私が出会えたのは、この、セミナーの先生だったわけで。

つまり、今の私は、このセミナーの先生と同じ。客観的にはこんな感じなんだな~。そんなことを思った、レイキ体験でした。