『茜さす帰路照らされど』椎名林檎

不安定な印象の歌手、ということで言えば。

たとえばCOCCOだとか、鬼束ちひろさんなどがいるわけですが。

COCCOは子供を持ってから、だいぶ印象が変わったなあと思います。落ち着いたというか、大地にしっかり根をはったイメージ。もう、フラっと倒れたり、急にどこかへ消えてしまいそうな、危うい印象はなくなりました。

鬼束さんは、迷いの森をさまよってる感じですね。鮮烈なデビューで、美しいメロディと、悲鳴をあげているような歌詞が胸に響きました。それから出口を探し求めて、そのまま森の中へ入ってしまったような印象を、受けました。

そして椎名林檎さんは。

最初にその名を耳にしたのは、『ここでキスして。』だったんですが、瞬間的に、受け入れられないと感じたのを覚えています。

本当に個人的な感想ですが、私はカップルが街中でいちゃつくのを見るのが嫌なので(^^;

手をつないでるのを見るだけでも、「そんなもん家でやってくれよ」と思ってしまうので、まして公衆の面前で、街中でキスかい!!と、当時反発を感じたのをよく覚えております。

そして次に林檎さんの名を聞いたのは、『歌舞伎町の女王』で、(リリースの順番は逆ですけども)、その激しいタイトルにまたもや拒否感を覚えたんですよね。曲も歌詞も、ちゃんと聞いたことはなくて、ただそのタイトルをテレビのランキング番組かなにかで耳にして、ああ、そういう歌を歌う人なんだと。

後に、ちゃんと『歌舞伎町の女王』を聴いたときに、こんな曲だったのかと驚きました。イメージしていたような、ちゃらちゃらした軽いノリのものではなくて、胸に響く物語があった。

林檎さんの曲で、『茜さす帰路照らされど』という作品が好きです。

イギリスでもアメリカでも、ノルウェーでもなくアイルランド。そこがいいなあって。縁もゆかりもない異国の少女の声が耳に届いて、夕陽に照らされていて。

あふれ出す、なんともいえない不安感とか寂しさがじんわりと、伝わってくるのです。

約束に、果たして意味があるのかなあ、なんて。

それは、紙に書いた約束でも、口にした約束でも、未来は幻想にすぎなくて。明日があるのかさえ、誰にもわからないわけで。

沈んだ夕陽が、明日はまた朝日となって昇ることでさえ、誰に保証できるのかって話です。

約束を求める気持ちは、すごくわかるけれど。

安心感がほしいから。嘘でもいいから、安心させてよって願う気持ちは、よくわかるのです。

約束は、思いやりなのかもしれないですね。本当は、確かな明日なんてそんなこと誰にもわからないけれど、相手の心に沿うための魔法の言葉。

確かなものは、今この瞬間にしかないのかなあと、この曲を聴きながらそう思います。過去は記憶の中にしかなく、未来は不確定の、幻想でしかない。

今、ここにいる自分。今、ここにいる感覚。それ以外に、なにも持っていないのだと、この曲を聴くとそんなことを思うのです。

『碧い瞳のエリス』安全地帯

石原真理子さんと玉置浩二さんが結婚したと聞いてビックリ!! そんなことってあるのかなと。ちょっと、考えられないような展開です。

ということで、今日は、久しぶりに安全地帯の『碧い瞳のエリス』をBGMに書いています。

腰の骨を折るほどの暴力・・・はショックでした。玉置さんがそういう人だったとは、信じたくなかったけれど。そのことを知ってから、見る目が変わってしまったのは確かですが、それでもなお、『碧い瞳のエリス』は美しい曲です。しみじみ、聴き入ってしまいます。哀しいメロディには、松井五郎さんの詞がよく似合う。

そして、玉置さんの声。

当時、生み出した多くの曲の影に、真理子さんがいたのかな、などと想像してます。

深く深く、内側に閉じこもって楽園の夢をみる、的な。自分の逃げ場所っていうか、そこに座りこんでただ、夢をみてる。それはきっとセピア色で、つらいことなんかなんにもなくて。

女性名の言葉の響きがいいなあと思います。想像が広がっていくのです。

ちなみに私は、『碧い瞳のエリス』から、森鴎外の『舞姫』を連想します。『舞姫』は村下孝蔵さんの『踊り子』へ繋がります。そして、一連のイメージの中に、ドガの『踊り子』の絵がチラチラと浮かんだりもします。

そしてエリスといえば、Sound Horizonの楽園幻想物語組曲のことを、思ったりもします。

どれも儚く哀しい、けれどとても美しい、手を触れればたちまち消えうせてしまうような、淡い憧れを描いていますね。心を打つ作品の数々です。

『FLY ME TO THE MOON』

仕事が終わった後は、必ず階段を使って帰るようにしている。エレベーターは待つのも面倒だし、誰かと乗り合わせるのも何となく気詰まりで。

重い扉が閉まる音を背後に聴きながら、無心になって階段を下りる瞬間が好き。誰もいない空気。白い無機質な壁。ひたすらゆっくりと、下っていく。

さっきまで頭を占めていた仕事のあれやこれや、数字なんかも、たちまち頭からこぼれていってしまう。そして空っぽになる。

かび臭い、とまでは言わないけど。使われていない場所の匂い、とでも言うんだろうか。微妙な埃臭さのような。あるいは、微かな塗装の残り香。

そういう、人の来ない場所特有の、淀んだ空気の感じが、私は好きなのである。そう、この階段は非常用ともいうべきもので、みんなは通常、エレベーターを使う。

階段は1階から最上階まで、つながった空間だ。たまに、どこかの階で誰かが扉を開けると、とたんに階段を駆ける靴音が響き始める。その音の大小で、自分のいる場所と、その人との距離感が計れる。

たいてい、階段を利用する人は1階分、もしくは2階分くらいの昇り降りをするだけだ。響き始めた靴音は、すぐにまた、別の階の扉が開かれる音と共に、消えてしまう。そんなときのその人の靴音は、とても無防備で。私はなんとなく、微笑ましく感じる。たぶん、私がいることを、そこに他人の耳があるということを、全く意識していない靴音だから。素の音っていうのかな。

疲れてるような足音もあるし。少し怒っているような、乱暴な足音もある。誰もいないと思うからこそ、足音にはその人のそのときの気持ちが現れるような気がして、興味深い。

そして私は、なるべく足音をさせない。

特に意味はないけど。なんとなく。ここに自分がいることを、気づかれたくないって、そういう気持ちがあるのかもしれない。その場の空気に溶けこんでしまうのが、心地よくて。

慎重に、足音を忍ばせて階段を下りていく。だからヒールのあるパンプスは履かない。コツコツいう音が嫌だから。

ここのオフィスビルの何がすごいって、階段の空間に、低く音楽が流れているということだ。粋だなあと思う。ビルの共有部分を音楽で満たす、そんなささやかな贅沢さって、いいなあ。ビルのオーナーが誰なのかは知らないけど、きっと素敵な人なんだろうな。だって、テナント募集に、特別有利な要素とは思えないから。階段に音楽を流してますって、それは売りにはならないだろう。そもそも、階段使う人が、ほとんどいないんだから。

音楽は日によっても、時間によっても違う。穏やかな、自己主張のないものが多い。楽器だけのときもあるし、人の歌声が入っていても、声が楽器と一体化して溶け込んでしまっているような、そんな感じのものばかりだ。

今日は、扉を開けて階段に滑りこんだ途端、懐かしい音が耳に飛びこんできた。

『FLY ME TO THE MOON』だ。うわぁ~!!と、思わず心で叫んでしまった。

これ、初めて聴いたのがエヴァンゲリオンだった。エンディングテーマに使われてて、それがまた番組によく合っていたんだよなあ。真夜中に、部屋の電気を消してよく見てた。物憂げなメロディと、暗喩の歌詞にこめられた媚態。そのバランスが、なんとも言えない味だと思う。

曲中のおねだり。どんだけ可愛い我儘だよと(^^;

そういえばその頃。私が、真っ暗な部屋でよくエヴァンゲリオンのエンディングを見てた頃。向かいの部屋には、きれいなお姉さんが住んでいた。お姉さんの元には、ときどきカッコイイ彼が訪ねてきていた。

たまに2人とすれ違い、会釈を交わすとき。美男美女のカップルだなあ、なんて思った。まるで絵に描いたように完璧で、幸せそうな恋人同士だった。

だけど、2人は表に見えてるような普通の関係ではなかったのだ。ある日の真夜中。私は下の道路から聞こえる怒鳴り声で、目を覚ました。

「なんだよ。馬鹿にしやがって!! 人をなんだと思ってやがる!! チクショーッ。このままじゃすまさないからな!!」

夜中だというのに、まったく辺りのことなど気にしていない怒声。ただ事ではない。それがいつまでも続くものだから、私は窓を開けてベランダに出て、下の様子をうかがった。私だけでなく、近所の人たちも家から出てきて、こっそり様子を見ているようだった。

怒鳴っているのは、40代くらいのおじさん。おじさんの前で途方にくれているのは、私の向いの部屋に住む、あのカップルだ。おじさんは、辺り構わず、自分の思いのたけをぶちまけ始めた。事情がわかった。

おじさんは長距離トラックの、運転手をしているらしい。お姉さんと付き合うようになり、彼女にねだられるままに高価な宝石やバッグを買い与え、あげくには部屋までも、おじさんの名義で借りてあげたとか。つまり、あの部屋はお姉さんのではなく、おじさんの部屋だったのだ!!

おじさんは幸せだった。彼女を信じていた。美しい彼女が自慢で、大切だった。仕事がら地方を車で走ることが多く、あまり彼女を住まわせる部屋には来れなかったけれど。この部屋で彼女が幸せに、自分の帰りを待ってくれるとばかり思っていたのだそうだ。

今日、連絡なしに突然この部屋を訪ねると、なぜかその部屋には彼女と男がいたと。結婚してないとはいえ、おじさんにとっては間男同然。しかもその男は、ちゃっかり自分の荷物などを部屋にいくつか置いていたようで、それがおじさんの怒りに火を注いだようだ。オレが借りた部屋なのに、なんでお前の皮ジャンがあるんだ?とか、そんなことをわめくおじさん。最初は興奮して怒鳴りまくっていたおじさんだったが、勢いがいいのは言葉だけで、実際には間男?を殴ることもしなかった。これ、手が早い人なら本当に大喧嘩になってると思うんだけど、おじさんは口で罵るだけで、手を出すことはなかった。

固唾を呑んで様子を見守る近所の見物人(私を含む)たちは、次第におじさんに同情し始めた。そりゃ腹も立つわな。

間男は言い訳もせず、神妙な顔をして、彼女と2人、並んで俯いていた。その姿が余計、頭にきたらしく、おじさんは怒鳴りまくる。一度、興奮するおじさんをなだめようと、若者がおじさんの肩に手を触れようとして、思いっきり払いのけられていた。

そりゃそうだ。他人がまあまあと止めに入るならわかるが、腹を立てているその、根本的原因である若者がおじさんをなだめたなら、火に油を注ぐようなもの。

しかし。第三者的な立場から見ると。おとなしそうな様子のお姉さんと若者は、やっぱり似合いのカップルだった。おじさんは結局、利用されていただけなんだろう。その似合いの様子を目の前で見せられるからよけいに、おじさんは収まりがつかないんだろう。

最初は若者、男の方をターゲットにしていたおじさんであるが、やがてその矛先はお姉さんへと向かった。未練なのか、お姉さんに対してはやはり遠慮があるのか、おじさんの口調は少しだけ、男に対するものよりは優しいものに感じられた。

おじさんは語った。どれだけ信じていたか。大切だったか。お姉さんのために、あれも買った。これも買った。なにが不満だったのかと。お姉さんの声は聞こえなかった。たぶん、黙っていたんだと思う。おじさんの声には、涙が混じっているように聞こえた。

エンディングでFLY ME TO THE MOONを聴いていたあの部屋。ベランダで、そんな喧嘩の一部始終を聞いたのも、懐かしい思い出である。

耳に残るメロディを、心で口ずさみながらビルを出た。空には、まるで狙いすましたかのような丸い、大きな月。こんな日にはふさわしい、綺麗なお月様である。

『モーニングムーン』CHAGE and ASKA

この歌を聴いていて思ったのだけど、この彼女は遠からずまた、出て行くんだろうなあ。泣きながら駆け込んできたことなど、すっかり忘れたように。

惚れた弱みの男性が、形容しがたい複雑な気持ちで、日の出後の白い空を見上げてる映像が浮かんでくる。自分でも、そこに彼女の愛情などないとわかっているから、哀しい曲調になっていて、それがまた歌詞とよく合ってる。

柿本人麻呂の短歌を思い出した。

>東の 野にかぎろひの 立つ見えて かえりみすれば 月傾きぬ

この歌の方が、暗い景色だけれど。まだ夜明けといっても、夜に近い感じ。冷えた空気感と、なんともいえない静寂が伝わってくる。七色の、微妙なグラデーションでゆっくりと、明るくなっていく空。地平線の向こう。果てしなく広がる野に、時折、風が吹いて雑草を揺らす。

『モーニング ムーン』の方は、この歌よりはもっと、明るい空だと思う。夜の名残をわずかに残すだけ。すっかり明るくなった空に、白い月が浮かんでいる。去っていった夜に忘れられた月。もう消えるしかないとわかっていて、所在なげに浮かんでいる。

『モーニング ムーン』を聴いていたら、次のような情景が浮かんだ。

好きだった女性がいて、しばらくは恋人だった期間があって。でも彼女はあっさり、目の前から消えた。

面影をまだ胸に抱いているとき、真夜中に突然、彼女は雨に濡れた姿で疲れ果てて帰ってきた。

受け入れて一晩過ごした後で、自己嫌悪と先行きの不透明感に、憂鬱に近い気持ちを抱えながら、ベランダで明るくなった空を見上げてる。

朝早いから、街にはいつものざわめきがなくて。窓の向こうの彼女は、きっと眠ったふりをしていて。彼女も目を合わせたところで、なにを話していいかわからないから。

二人の間にある奇妙な緊張感は、今さらやり直すわけでもないのに、なんでまた恋人みたいに一緒にいるんだろうみたいな自虐で。

ブラウスは、彼女を突き放せない弱さの象徴。

雨に濡れたから。

それが乾くまで、彼女は帰らない。部屋を出て行かない。

でもいったん乾けば、また平気な顔をして出て行くだろう。別れのつらさなんか、微塵も感じさせずに。取り残された側の痛みなんか、まるで気付きもしないで。

曲の最後部分が好きなのだ。これがなかったら、二人ともご勝手に・・・と思ってしまうのだけど。これがあるから、急にこの情景が、清いものに見えてしまう。

愛と表現できるほど、立派なものじゃなくて。恋してるなんて決めれば、弱さを正当化するようで。だけど大事に思うことだけは、他のことなんてよくわからないけど、難しく考えればきりがないけど、その気持ちだけは真実だと確信している、みたいな。

うん、信じるよ。と思ってしまった。本当にそうなんだろうし。大事に思うからこそ、疲れて胸に飛びこんできた人を、拒絶できなかったんだろうなあって。歌詞と曲の絶妙のコンビネーションが、いい感じです。

途方にくれた虚ろな目で、朝の街並を見下ろしている図が、なんともシュールです。

感想は人それぞれでしょうが、私はこんなことを思いました。名曲ですね。

『アンインストール』石川智晶

以前、共感覚についてのテレビ番組を見た。

それ以来、なんとなく色に興味をもつようになり、これは何色だろう?これだったらどんなイメージだろう?と考えるようになった。

たとえば「希望」はレモン色。「怒り」は赤。「憂鬱」はブルー。「期待」はピンク。「ワクワク」はオレンジ。「安心」は緑。

『アンインストール』を聴いていると、限りなく黒に近い紺色が、広がっているような錯覚を覚える。一見、黒にしか見えないけど、でも黒じゃないのだ。それは黒に果てしなく近付きながらも、もがいてもがいて、のたうちまわるような濃い紺色。

曲を聴いて思った。その暗い紺色の海の向こうにあるのは、怒りにも似た激しい感情。波のうねり。赤く燃え上がる炎。黒になりきれない紺色の理由が、そこにはあるんではないだろうか。

本当に純粋な黒なら、たぶんそこからは何もうまれない。存在することすら、かなわないほどの静寂。無の世界。何も変化しない。純粋な黒は、すべてを呑みこんでしまう。意識の揺れもない。

暗い紺色の向こうに広がるエネルギーのようなものを感じた。

歌っているのは石川智晶さんだが、抑揚をつけずに淡々と声を出しているのが、この曲に合っている。

色のつかない声。透明な音が、混沌の夜明け前の海をかきまわすような。

その声は、だけどその海の激しさを歌う。

その海から、あふれる思いを。

曲の中では、言葉が、まるで呪文のように繰り返される。それは、問いかけであり、苛立ちであり、主張であって。

いいなあと思った。

最初は、曲の美しさに惹かれたのだけれど。何度も聴くうちに、言葉も耳に残るようになる。なんだかこの曲って、空に向かって歌ってるみたいだなあと。

空に手を伸ばして、誰かが歌ってるみたいだ。

答えてくれなくても。声の限りに、力尽きるまで、歌うことをやめない。

今日、昼休みに近所の公園を散歩していたとき。

いい天気で、陽射しが暖かくて、私は公園の泉にある女神像を見上げた。背中に太陽の光が当たっているのがよくわかった。背中全体が熱をもって、コートを置いてきて正解だと思った。コートを着ていたら、汗ばんでいただろう。

その女神像が持つ瓶からは、際限なく水が流れ落ちていた。尽きることのない水の流れを見ていたら、頭の中でこの曲が流れ出した。

白い像。曲線の美しさ。風雨の痕を残す影。

女神像の向こうには、高層マンションが、そしてそのさらに遠く、どこまでも続く青空の向こう。

過去に生きた人たちが夢に描いた世界が、次々と実現して、今の世があるんだなあと唐突に実感した。こうなりたい、ああだったらいいのにという思いが人間を動かして、この世を作り出したのだから。そんな話を以前に誰かが書いていて、そのときはふ~ん、と軽く読み飛ばしたのだけれど。

ああ、本当にそうだったんだなあと。

妙に、その瞬間、しみじみしてしまった。

尊敬と憧憬をこめた女神像。自分たちの意識の源への、飽きることのない探求。届きそうで届かない、創造主への距離。

空まで届く勢いの高層建築。飢えることのない、豊かな生活。科学の発展。あらゆる方向に、人の手は伸びていく。

そしてすべてを包む空の、単純明快な青。その向こう、さらに向こう。どこまでも広がる空間。微笑んでいるような優しい空は、だけど秘密をたやすく明かしてはくれない。

『アンインストール』という言葉を、作詞した石川さんは、どんな意味で使ったのだろうか。普通に考えれば、インストールしたプログラムの削除、ということになるのだけれど。

ある種のプログラムからの、解放を意味しているのかなあと、そんなことをぼんやりと思った。

素敵な曲です。