オペラ座の怪人(映画)を語る その7

とても気分が沈んだので、またオペラ座の怪人を見に行ってきた。なぜ気分が沈むとオペラ座なのか・・・・。やっぱり好きだから。ストーリーも音楽も美術も、あの時代のあの空気を感じると、なんともいえない気持ちになる。

以下、ネタバレありなので、未見の方はご注意!

映画を見るのは3回目だけど、一つ勘違いをしていることに気付いた。それは、ドン・ファンの勝利で、クリスティーヌがファントムの仮面をはがすシーン。悲鳴が、上がっていない。舞台だと、ここは悲鳴が上がるシーンである。繰り返し、繰り返しロンドンキャストのCDを聞いていたこともあり、なんとなくここは悲鳴が上がってるイメージだったんだけど、映画では観客のざわめき(どよめき)だけなのだ。以前書いた観劇記は、それに関して少し修正しておいた。

なんだか納得。映画だと、クリスティーヌの表情がよく見える。あんなに優しい表情でマスクを剥がすのは、「もう隠さないで」という意思表示だと思う。自分で剥がしておいて自分で恐怖の悲鳴を上げたら、クリスティーヌはただの残酷な人になってしまう。2人を見守るラウルの表情が、よかった。

今回もよく泣いた。この映画を見ていると、ファントムに共感したり、クリスティーヌに共感したり、音楽や美術に触発されて、過去のいろんな記憶が甦ったり、自分の中の感情が揺り動かされる。特に前半部が秀逸。あの、オークションシーンから、どんどん時間が遡っていくところなどは圧巻。モノクロからカラーへの移り変わりと、バックに流れる音楽の相乗効果で、胸がいっぱいになった。オペラ座の舞台裏のざわめき、私はああいうシーンがとても好き。役名すらない大勢の人たちの、一人一人の人生を思ってしまう。

流れるovertureの響きは悲しい。それは、ファントムの運命の厳しさを表してもいるけれど、その他大勢のオペラ座の人たちにとっても、その後の人生は決してばら色じゃなかったという象徴に思える。思い通りになんていかない。あがいても手の届かないものがある。それは誰にだって、ありうる話なわけで。

ファントムが子供のように駄々をこねて、力ずくでクリスティーヌの愛を得ようとするのはせつない。そんなふうに手にいれたところで、絶対虚しいよと、忠告したくなってしまう。無理やり自分を選ばせたって、その後の長い人生をどう生きるというのか。あの地下の湖で、ファントムがクリスティーヌと幸せに暮らすことなどありえない。美学に反してまで、ひたすらクリスティーヌを求めるファントムは哀れで、滑稽で、いたたまれない。マスクもなく、髪を振り乱してクリスティーヌに愛を乞う。脅しているのはファントムなのに、追いつめられているのはファントムで、クリスティーヌをみつめる目は泣いていて。

今回は、字幕をほとんど見ずに鑑賞した。戸田奈津子さんの字幕を頼りに見ていると、勘違いしてしまう場面がいくつもある。本当にこの映画のよさを楽しむためには、字幕でなく英語をそのまま聴く方がよほどいい。字幕は、「オペラ座の怪人」の世界を本当に愛してる人にやってほしかったなあ、と思う。

そしてラウル。王子様である。私、映画のラウルはかなり好き。いい人だと思うし、クリスティーヌがあっという間に婚約してしまうのも当然。舞台のラウルより映画のラウルの方がかなり、男前度は高いと思うのである。顔の問題じゃなくて、行動がね。とにかく一生懸命だし、クリスティーヌを全力で守ろうとする態度はあっぱれ。きっとクリスティーヌと結婚してからも、よき夫、よき父親だったんだろうなあと思う。しかし彼は彼で、一生ファントムの影におびえたんだろうなあ。クリスティーヌの心の中から、ファントムの姿は消えなかっただろうし、だからこそお墓にあのオルゴールを供えたんだろう。

ラウルはいい人。だけど、ラウルには決してわからなかったであろうファントムとクリスティーヌの絆。ここらへんが映画の見所なのだ。そういうものって、言葉じゃないんだよね。目を見て、それだけで通じ合う瞬間があること、そういう経験がある人も多いんじゃないだろうか。だからといって、その人と結婚して幸せになるとは限らないんだけど。一緒にいたからといって、幸せとも限らない。だけど他の誰にも見出せない共通性があると、不思議と惹かれあう。心を許しあう。

ドンファンの勝利。2人をみつめるラウルが涙ぐんでいるのが私にはツボだった。決して越えられない境界線がたしかにある。そこになにかがあるのはわかる。だけど自分には手を出せない、理解できない。ただ見ているだけしかできない葛藤。

ファントムの気持ちも、痛いほどわかる。歌いながら、クリスティーヌの心に囁きかけていた。どうして私から逃れようとするのか、わかっているくせに。ラウルには決して理解できない音楽を、その陶酔を私たちは分かち合えるのに。歌いながら、クリスティーヌの声に合わせながら、ファントムの自信と不安が交錯する。私はこの曲が一番好き。オペラ座の怪人で使われている曲の中で、一番ぐっとくる。

なんだか以前に書いた感想と似たようなものになってしまったが、映画を見て思いきり泣いて、名曲に酔いしれた。今、このときに映画が作られたことに感謝したい気分。私自身が今までの人生の中で、たぶん今一番悩んで、苦しんで、迷っている時期なのだ。そういう苦しい気持ちの中で、なんどもこの映画を見たことを、私はたぶん一生忘れないと思う。きっとこれから先、オペラ座の怪人の映画を見るたびに、自分自身の悩みや迷いのことを思い出すはず。

映画館はかなり混んでいた。女性客が多い。帰り道、他の人が感想などしゃべっているのが聞こえてきた。「私、ファントムは嫌いだな。あの人が邪魔するからよくないんだよ」

うーむ、そういう見方もあるよな、そりゃそうだよな、ラウルは非の打ち所がない完璧な王子様だしな、などと、心の中で思って苦笑してしまった。実際、ラウルを選んだ方がクリスティーヌは幸せだったと思う。

オペラ座の怪人(映画)を語る その6

「オペラ座の怪人」映画を見に行ってきました。2度目です。最初に見たときには気づかなかったところや感想なんかを書きたいと思います。ネタバレありますので、十分にご注意ください。

まずはじめに。ラウルが金髪じゃない、ということに気付きました。あまりにも王子様だったので、私の脳内では金髪のイメージになっていたのですが、改めてみたら、髪はもっと暗い色でした。以前、感想を書いたときに「金髪」と書いてしまったので、そこは削除しておきました。

映画を2度見て、あらためてラウルに惚れ直してしまった。勇気があり、まっすぐで、ハンサムで、しかも子爵。そりゃ魅力的ですよ。ただの金持ちのボンボンじゃないですから。クリスティーヌがファントムの餌食になることを、本気で心配していますからね。

屋上で愛を確かめあうシーン。「恐がらなくていい。僕が守ってあげる」そういうことをじーっと目をみつめながら言われたら、そりゃたいがいの婦女子は、ぼーっとなってしまいますよ。クリスティーヌがラウルに恋してしまったのは当然。言葉だけでなく、実際にラウルはちゃんと行動してるしね。クリスティーヌの部屋の前で見張りとか(彼女自身がラウルの目を盗んで、父親の墓場に行ってしまったけど)、ファントムとの命を賭けた決闘だとか。

この2つの行動だけでも、ラウルの株は上がったと思う。お金の力でボディガードを雇うとか、そういう方向に向かわなかった。自分の手で、自分が苦労して彼女を守ろうとしたところがいいですね。

「いらない」という印象を持ったのは、マダムジリーが出てくるシーンで3つ。まず、ラウルに食事に誘われたクリスティーヌのいる部屋、その鍵をファントムが締める。それを見ているマダムジリー・・・・・・これは余計なショットだと思いました。まるでマダムジリーが、ファントムの仲間のような印象を与えてしまいます。ファントムは孤独だという設定なのに、マダムジリーとの接触があまりに多いと、それは違うということになってしまう。

さらに言うなら、メグが鏡の秘密に気付いて、引き戸の向こうの湖へ続く道を発見するシーン。歩き始めたところをマダムジリーに引き戻されるのですが・・・・・なぜマダムジリーは、メグの行動がわかったんでしょう? ファントム並に神出鬼没。

ファントムを追いかけて、ラウルが鏡のトリックにひっかかるシーン。このとき助けに入るのがマダムジリー。ここまでくると、ファントムの部下なのか?という気持ちにさえなります。どうして肝心なときになると、マダムジリーが登場するのか。もちろん、その後のマダムジリーがファントムの過去を語るシーンも、要らないと思いました。ちょっとエレファントマンをイメージさせるような映像もあり、この映画のオリジナリティが失われるのでは、と気になりました。

ドンファンの勝利を演じているときの、主役3人の表情は本当に素晴らしいですね。ファントムの情熱、それにひきずられるように、覚悟を決めたかのように堂々としたクリスティーヌ、2人の結びつきの強さに呆然とするラウル。

ラウルの、悲しい表情がよかったです。嫉妬して、圧倒されて、それでも2人の不思議な音楽の結びつきを認めざるをえない。それは、会場全体がそうでした。誰もが、ファントムとクリスティーヌの歌声に尋常ではないものを感じ、心を奪われる。

その後、クリスティーヌがファントムの仮面をはがすとき、彼女の表情に納得してしまいました。そうか。彼女はなにも意地悪で仮面をはがしたわけではないのです。その前の、クリスティーヌがファントムをみつめるその目の優しさ。その目が言っていました。「バカね。顔のことなんて、気にしなくていいの」

あれほど情熱的に、あれほど激しく愛を告白しながら、仮面の向こうに隠れたまま出てこられないファントムのコンプレックスを、知り尽くした表情でした。クリスティーヌは、「わかっているのよ。もう恐れなくていい」とでも言いたげにマスクを取ります。だけどその瞬間、一斉に起こるどよめき。クリスティーヌ以外の人が、ファントムの素顔を見ておののきます。劇場中の人間の恐怖を全身に感じて、ファントムは自分はやはり、世間から拒絶されたのだと実感したでしょう。この後のシャンデリア落下シーンは、映画ならではの迫力。舞台では、安全確保のためにもあそこまでリアルな演出はできません。

きれいで豪華で、自分の生い立ちとは正反対の輝きをまとったシャンデリア。ファントムはそれを壊すことで、きらびやかな世界への怒りを表現したのかなとも思います。どうあがいても、受け入れてはもらえなかったと。

最後、ラウルとファントム、そしてクリスティーヌの対決シーン。ラウルが首に縄をかけられ、苦しそうに歌うのは残念でした。あそこは、首をしめられながら歌ってほしくない。最高の楽曲と歌詞なのだから、感情をこめて思いきり歌ってほしい。首は絞められてはいないけれど、ファントムの指先一つですぐに死が訪れる、そういう緊張感を描いてほしかった。ファントムの超人的な魔術師としての才能をみせつけるかのように、人間離れしたあざやかな技でラウルを捕えてほしかった。

あまりにもドタバタしすぎていて、人間臭すぎると思いました。

これは、全体的に言えることです。もっとファントムの存在を幻想的に描いてくれたらよかったのにと思います。人間なのか、それとも本当に幽霊なのか。同じ人間であることが信じられないくらいの、才能をアピールしてほしかった。

いいなと思ったのは、ラウルと共に去っていくクリスティーヌが、振り返ってファントムを見ているシーン。ここで振り返っているところがポイントです。その顔が・・・・なんともいえません。クリスティーヌの愛が見えますね。過去への惜別だったのでしょうか。

映画を2度目に見て再認識したのは、カルロッタ役のミニ−・ドライヴァーの演技が素晴らしいということ。この人の声の調子や表情は絶品です。思わず引きつけられてしまう。映画の中で、本当にいい味を出しています。いくら見ていても飽きない。面白い。

クリスティーヌを苛めるキャラではありますが、なんだか憎めません。

名曲に包まれて、ファントムを鑑賞するのはとても贅沢なことでした。また見に行きたいと思います。

オペラ座の怪人(映画)を語る その5

昨日の続きです。ネタバレ含んでいますので、映画未見の方はご注意ください。

残念だったな、と思う点をさらに挙げてみます。

クリスティーヌが、最初からラウルを幼馴染と気付いているところが気になりました。私なら、ハンニバルでカルロッタの代役を務めた日、クリスティーヌはラウルを幼馴染と気付いていない、という設定にしますね。舞台版だと、そうなっていましたけど。その方がドラマチックだと思うのです。

思いがけない舞台の成功。賞賛の嵐。なにがなんだかわからないような興奮の中、美しく立派に成長した幼馴染と再会。ロマンスが生まれるには、十分な環境でしょう。こういう偶然の再会というシチュエーションが、物語をより、盛り上げると思うのです。

いぶかしげなクリスティーヌの顔が、相手を幼馴染と知ってみるみる輝く、そういう絵が見てみたいです。

クリスティーヌを地下のお城へ連れて行くとき、馬を使っていたこと。これはちょっと、あまりにも突飛すぎて違和感を覚えました。外の世界ならともかく、地下に馬。イメージがちょっと違う。クリスティーヌの手を引き、ただ歩いていくというだけでよかったと思うのです。馬を使っていたので、「どうやって飼っているんだろう」とかよけいなことを考えてしまいました。

ファントムが自分のお城に置いていた、リアルな等身大クリスティーヌ人形。これはまずいでしょう。あまりにも不気味すぎです。私は思いっきりひきましたね。ここまでいっちゃうとちょっと異常な雰囲気になってしまうので、やめてほしかった。これを映像でとるなら、もっと他に撮る物があったんじゃないかと思ってしまいました。

小さいお人形ならOKです。オペラの作曲をするのに、登場人物を動かしたりしてイメージを膨らませるのには必要かもしれないですし。でもあの、リアル人形は駄目。ひきます。ドン引きです。

気を失ってしまったクリスティーヌを軽々と抱え上げ、天蓋つきのベッドにそっと寝かせるシーンはとても素敵でした。大切な宝物を見るかのような、ファントムの目が優しいのです。女性にとって、天蓋付きのベッドは永遠のお姫様アイテム。

それだけに、あのリアル人形のインパクトは、ファントムのよさを台無しにしてしまうような気がします。どんな顔をしてあの人形をみつめていたのかと思うと、寒すぎます。

マダム・ジリーの告白も、いらなかったような気がします。ファントムの過去については、あえて触れなくてもよかったんじゃないかと。もし触れるのなら、原作にあったようなペルシアの王様のために宮殿を作ったとか、建築・音楽、さまざまな才能にあふれていたけれど、追われ追われてオペラ座の地下に住み着いているとか、そういうところに焦点をあててほしかった。

見世物として扱われていたのを逃げ出して、マダム・ジリーが助けた、というのはあまりにもありがちな話に思えてしまいました。

マスカレードのシーン。ラウルとずっと寄り添っているのが気になりました。舞台だと、踊っているときに2人を引き離すような邪魔が入るのですが、こういうシーンはぜひ入れて欲しかった。

オペラ座の怪人(ロンドン・オリジナルキャストレコーディング)CDの歌詞カードのようなシーンが欲しかったです。絢爛豪華な仮面舞踏会。ラウルと楽しく踊っているのに、人の波にもまれてどんどん引き離されてしまう。ラウルを探してさまようけれど、どの人も仮面をつけていて、誰が誰だかわからない。音楽は鳴りつづける。次第にクリスティーヌの不安が高まってくる。楽しげな音楽が、逆に不安を煽っていく。次々現れる仮面の向こうに、ファントムの影を感じて、クリスティーヌの顔がだんだん不安で曇っていく。

ラウルは必死でクリスティーヌに駆け寄ろうとするけれど、人波がそれを邪魔する。やがて彼女を見失う。そしてファントム登場。

私だったら、上記のような撮り方をしたいですね。それに、ラウルがクリスティーヌの傍にいないのだったら、彼が会場を離れるのにも納得できるし。

映画だと、クリスティーヌをその場に残したままラウルが立ち去るのです。普通、彼女も一緒に連れていくんじゃないでしょうか。危ないじゃないですか、ファントムが現れたというのに。彼の狂気を知っていながら、クリスティーヌの傍を離れるラウルはうかつですね。

思いつくままにつらつら挙げてみました。もう少しこうだったら、というシーンは、細かいところを言ったらきりがありません。でも、全体的には本当に素晴らしい映画になっていたと思います。なによりも音楽が圧倒的。

アンドリュー・ロイド=ウェバーの才能がつくりだした、奇跡のような曲の数々。何度聴いても飽きません。特に、最後のファントム、クリスティーヌ、ラウルの三人が同時に歌うシーンは、ぜひ英語詞を手に入れて目を通すことをお勧めします。字幕だと、一部しか訳してませんから、もったいないです。三人がそれぞれ、自分たちの思いをどう叫んでいるのか、それがわかって映画を見るとよけいに感動が増すでしょう。

最後にちょこっとだけ毒を吐きます。映画のために書き下ろされたという新曲は、期待していたわりに、ぐっときませんでした。才能ある人の作品が、必ずしも全部才能にあふれているというわけではないのだな、と思ってしまいました。いろんな奇跡が重なって初めて、後世に残るような名作が出来上がるのだなと。

以上、「オペラ座の怪人」映画版の感想でした。

オペラ座の怪人(映画)を語る その4

昨日の続きです。ネタバレありますので、映画未見の方はご注意ください。

いいところばかりじゃなく、残念だった点もあげてみます。まず、1番がっかりしたのはなんといっても、墓場のシーン。あの胸元はなんだったんでしょう。胸をはだけすぎ。外は雪が降っているのに、不自然すぎる。観客に対するサービス? 演出のセンスが悪すぎだと思いました。クリスティーヌって、そういう女性じゃないと思う。もうあの胸が気になって気になって、いくらクリスティーヌが真剣に歌ってても、私の頭の中は「胸・・・白い胸・・・」という言葉でいっぱいでした。

それと、墓場でファントムとラウルが剣を交えるシーン。これは要らないなと思いました。舞台のときのように、なにか魔術めいた火の玉でラウルを追いつめ、ラウルとクリスティーヌが間一髪逃げ出すという設定にした方がよかったんじゃないかと。なんといっても、ファントムがラウルに剣で負ける、そしてクリスティーヌに助けられるなんて姿は、見たくありませんでした。

ラウルは子爵でおぼっちゃまですから、雑草のように生き、這い上がってきたファントムの方が力は強くて当たり前でしょう。

ときどき、時代が交錯するのも気になりました。最初オークションシーンから、当時のオペラ座に時代が逆行するのはいいんですよ。でも話の流れの中で、年老いたラウルのシーンがちょこちょこ出てくるのは気になってしまった。あれは要らないと思う。1番最後のシーンが、また年老いたラウルになるのはよかったと思いますが。

それと、これだけは言っておきたいことがあります。字幕が気になりました。インパクトの強い言葉が、作品のイメージを台無しにしてしまっているところがありまして。 passion-play「情熱のプレイ」です。これはあんまりだと思いました。ファントムとクリスティーヌの情熱のプレイ・・・・・・。別の話になってしまいそうです。直訳すると、受難劇だそうです。私も知らなかったんですけど、でも少なくとも「情熱のプレイ」が変だということは直感しました。

それと、肝心なところで意訳をしていて、これでは観客が誤解してしまうと思ったのが You are not alone の訳なのです。「あなたに惹かれていた」だったかな? そういうふうに訳しているのがどうにも納得いきませんでした。そういう意味じゃないと思うんです。惹かれてたとか、そういうことはファントムだってわかってたと思う。そうじゃなくて、ファントムにとって「一人じゃないわ」って言ってもらうことの持つ意味とか、それを口にするクリスティーヌの気持ちとか、それを伝えないでどうするの? という感じ。意訳することで、意味を狭めてしまっていると思う。そこに含まれたいろんな意味を匂わせるには、直訳することが必要だったんです。

私が思うに、You are not alone って言葉はファントムにとって、とても大切な言葉。普通の状態でその言葉を聞いたら、きっとすごく嬉しかったと思う。だけど、「俺を選ぶかラウルを選ぶか、はっきりしろ」なんて脅した後にそんなことを言われたら、うれしいというより悲しかったと思う。

あなたと一緒に生きます。ずっと一緒です。だから、あなたはもう一人じゃありません。そういう意味でクリスティーヌは言ったのかなと。でもそれは、「だからといってあなたを愛しているわけじゃない」という宣言でもあったかと思うのです。全然愛してない、とまで言っちゃうとそれは嘘だけどね。惹かれてる。愛してる。

だけどその愛は、あなたと一緒に暮らしたいっていう愛じゃないんだよね。一緒に暮らすのはラウルのため。ラウルの命を救いたいから、そのための魔法の呪文が You are not alone なのです。その呪文に効力を与えちゃったのはファントム自身だから、もう墓穴掘っちゃってます。追いつめられて混乱してるから、仕方ないとも思いますが。

ファントムは、自分で言っちゃってますもんね。俺を選ばなければラウルを殺すと。そういう状態でクリスティーヌに You are not alone と言われてしまうこのせつなさ。ここでI love you とは言えないです。嘘になってしまう。You are not alone というのは、クリスティーヌなりの本音だったと思います。ファントムと地下で暮らしていくことを、選んだのですから。この You are not alone には、大きくわけると二つの意味があったんじゃないかなと思います。一つは文字通り、あなたは一人じゃない。これからは私がいる、という意味。そしてもう一つは、「私はラウルの命を救いたい。ラウルを愛してます」という意味。ファントムはわりと繊細な人だと思うので、この後者の意味を、瞬間的に察知したと思いますね。

その後のキスは、たぶん言葉で語るよりいろんな思いがあふれたでしょう。クリスティーヌの、ラウルへの愛、ファントムへの愛。そしてたぶんファントムは、クリスティーヌがラウルを愛する気持ちを、とてもよく理解したのでしょう。その上で、自分に対してみせてくれた優しさ、実の親からも得られなかった抱擁をかみしめ、求めるばかりだった愛情を、こんどは返そうという気持ちになったんだと思います。

そうなんです。ファントムは、クリスティーヌに幸せになってもらいたかったから、彼女をラウルと共に地上へ返した。クリスティーヌがラウルを深く愛しているのを知っても、ファントムがクリスティーヌを愛する気持ちは変わらなかった。それどころか、増したでしょうね。

ラウルはなんといっても、クリスティーヌのために命を賭けた男です。恋のライバルとして憎き相手ではありますが、でも大切な彼女を託す相手としては頼もしいわけです。安心して渡せます。激しい嫉妬を押し殺してでも、クリスティーヌが大切だった。守りたかった。

それがファントムの本音かなあと思います。幸せになってくれ、と心から願ったはずです。

長文になりましたので、続きはまた明日。

オペラ座の怪人(映画)を語る その3

昨日の続きです。ネタバレありますので、映画を未見の方はご注意ください。

クリスティーヌがファントムに指輪を返したのは、私は決別だと思っています。地上に戻った後、こっそり捨ててもよかったわけです。だけど彼女はそうせずに、ファントム自身の手にきっちり返した。

クリスティーヌなりの誠意だったのかなあと思います。変な期待など、持たせる方が残酷だから。私が選んだのは、ラウルなのよと、それをファントムに確認させるための儀式だったのではないでしょうか。あなたに惹かれていた、尊敬していた、愛情があった、だけど私が選び、これから共に生きていくのはラウルなのです、と。

小さな声で、それでも I love you と告げずにはいられなかったファントム。立派です。そうだよね、そうだよね、と思わず慰めてあげたくなりました。結果がどうあれ、ファントムは本当にクリスティーヌが好きだったんですよ。受け入れてもらえないと知りつつ、それでも最後にかける言葉は、やっぱりI love you だったというのが、ファントムの純真さだと思うのです。自分を取り繕うことはしなかった。マスクもない。醜さは十分わかっている。素の自分で、クリスティーヌに愛を告白した。

鏡を割るシーンが好きです。ファントムの世界の終焉にふさわしいと思う。自らの手で、鏡を粉々にしていく姿が、壮絶でした。やっとみつけたオペラ座の地下という安住の地を、彼は終わりにするんだなあと思って。クリスティーヌの思い出の残る地下の湖。そのお城で、なにごともなかったように暮らしつづけるには、あまりにも思い出が痛すぎる。

クリスティーヌは、ファントムを本当に愛していたのか? 私は、愛していたんだと思う。それは、ラウルに対しての思いとはまた別の感情であって、愛している=あなたと一緒に暮らしたいという類のものではなかったけれど。クリスティーヌはたしかに、音楽の才能を、他の誰より愛していた。歌はファントムそのもの。原点がファントムだから、歌を仕事にしている限り、きっとファントムのことは忘れられなかっただろう。だから、ファントムを地下に残して、ラウルと地上に戻ったクリスティーヌは、ファントムだけでなく歌をも捨てたんだと思う。

墓場によき母、よき妻という言葉が刻まれていたのは、それを示していたんではないだろうか。舞台を下りて、ラウルとともに歌を歌わない人生を歩んだ。だから、ファントムを捨てることができたんだ。

だけどあまりにも強烈な記憶だから、なにかあるたびにふっと思い出したんだろう。そのクリスティーヌの心に深く住み着いたファントムの影を、ラウルはわかっていたんだろうな。だけど、心の底にあるものはどうしようもない。クリスティーヌが死んでなお、ラウルはファントムの幻影にとりつかれていた。

最後、クリスティーヌがファントムに指輪を返すシーンについてもう一度考えてみる。しつこいようだけれども、ここは重要なシーンだと思う。ファントムが、弱々しくI love you と告げるけれど、クリスティーヌは複雑な表情で指輪を返し、去っていく。この、指輪を返すというのは、決別の意味だ。もう終わり。これでおしまい。あなたを思い出すものを、持っていくわけにはいかない、みたいな。

私にはクリスティーヌの気持ちがわかるような気がするのですよ。1番大きいのはファントムに対する思いやり。はっきりさせないままの方が残酷だし。それに加えて、自分の気持ちの中のけじめ、というのもあったはず。指輪を返すという行動が、クリスティーヌにもファントムにも必要な儀式だったと、そう思います。あなたとは違う世界に行きますと宣言することで、次のステージに進める。

ファントムも、クリスティーヌの意図するところは十分に理解したでしょう。そういう繊細な人だから。最後の最後の、1パーセントの望みまで失ってしまって、ファントムの世界が音をたてて崩れ落ちた。だからこそ、最後のセリフに重みが出てくるんですよね。

鏡を壊してまわるのは、その象徴。もうね、すがすがしいくらい、痛みを通り越して痛みを感じないくらい、完璧な失恋。救いは、クリスティーヌがファントムを一人の人間として受けとめた上で、ラウルを選んだことかな。キスもしたし。ファントムはうれしかったと思うよ。同情だけじゃない、ラウルを助けるためだけじゃない、ファントムのために捧げた部分は確実にあったと思うから。そういうものは、実際に唇に触れてダイレクトに伝わってきたんじゃないだろうか。

長文になったので、続きはまた明日。