山口さんにはファントムを演じてほしい

舞台俳優、山口祐一郎さんの話。

あくまでも私の個人的な人物評です。

「オペラ座の怪人」CDを聴いている。やはり山口さんはラウルではなく、ファントムだよなーと思う。つくづくそう思う。

私が山口祐一郎さんのファンになったのは、「女神の恋」がきっかけだった。最初は、うす暗いキッチンの、どこか異国風な空気の漂う中で、食べ物に法外な値段をふっかける嫌~な奴という印象しかなくて。

ちっともカッコいいと思わなかった。それどころか、嫌悪感さえ感じた。それが、ドラマが進むにつれ、どんどん惹きつけられてあっという間に大ファンに。

ただね、別にそれだけなら、それで終わっていたと思う。その後見に行った「レ・ミゼラブル」が凄かったのよ。

「先も見えない闇を這い出そう」「ジャンバルジャンは死んで生まれ変わるのだ」このときの、怨嗟と絶望の中に光を見出した生命力、みたいなもの。

山口さんの人生にも、そういう瞬間があったんだなあと思いました。理屈じゃなくてね、伝わってきたものがあったというか。

いや、俳優さんだからわからないですけどね。そういう演技なのかもしれないし。それは私が勝手に思っただけのことですが、でも私はそう感じたのです。その迫力に心を打たれました。

それは2003年の夏です。そして2007年のレミゼ。私は初日しか観てませんが、ああ、変わったなあと思いました。

4年の月日が確かに流れて、山口さんは激しさというより、受容や悟り、そういうものを身につけたのかなあって。

激しさよりも、怒りよりも。そこを通り越した穏やかさがあったような気がします。それは2003年にはなかったバルジャン像でした。

年を、とったんだなあと思いました。山口さんも、それを観ている観客の私も。

演劇は、見る側の心境によっても、全く違った空気を生み出すと思うのです。あれから確実に4年の月日が流れて、もう、2003年のときのバルジャンも、それを観ていた私もいないなあと、そんなことを思うと少し寂しかった。

私は正直、2003年のバージョンの方が好きです。

それは、高野二郎司教の存在も大きかったと思います。2003年から今までに見たレミゼのキャストの中で、一番いいなあと思ったのが高野司教。

バルジャンを導くだけの強さがあったから。声量も技術も、山口さん以上のものがないと、バルジャン改心につながる流れの、説得力がなくなります。それに、山口さんも、相手とのバランスを大切にする人なので。

声が弱い相手だと、それに合わせた声量になってしまって、迫力に欠けてしまう。

銀の食器を持って逃げたバルジャンを、諭し導くだけの厳しさがあるかどうか。これって、司教様の腕にかかっていると思います。高野司教はよかったなあ。まさに、理想の配役でした。あの場を征していたのは確かに、高野司教でしたもん。

山口バルジャンが呆然として言葉を失ったのは、優しくされたからじゃありません。その優しさの源である、圧倒的な力に包まれたからだと思うのです。

強くなければ優しくなれないっていうのは本当だと思う。

高野司教に出会ってからの、山口バルジャンの改心シーンが好きでした。「何ということをしたのだ・・・」に始まる激しい感情のうねり。

高野司教に触発されなければ、出てこない独特のものがあったと思います。

そして今私は、「オペラ座の怪人」CDのまだ若い山口ファントムの声を聴きつつ、今こそファントムをやってほしいなあと、そう願うのです。

昔、劇団でファントムを演じていた時代から10年以上の月日が流れて。もう若手ではなくなった山口さんのファントムが聴いてみたいです。

ファントムに若さは必要ない。むしろ邪魔。

ラウルの若さに嫉妬する要素が、ファントムには欲しい。

今だからこそ、歌える曲ではないかなあと思いました。ぜいたくを言うなら、5日に1度くらいの出演で。そうすれば、一つの舞台に集中できるから。ファントムの歌って、連日歌い続けられるほど軽いものではないと思います。本当に全力投球したら、終演後には立ち上がれないほど消耗するのではないかと。

ファントムを演じるのに必要な要素は、挫折体験と悲しみだと思いました。

劇団に所属して、意気揚々と主役を演じていた若き日の山口さん。そのときの山口さんがファントムを演じても、なんとなく「自信満々」という部分が勝ってしまっていたような感じです。実際、少なくとも仕事(作品)には恵まれた人だったと思うし、一番勢いに乗っていた時代のような。

今の山口さんにこそ、歌って欲しいと思いました。今から10年後でも、10年前でもなく。今、50歳の今だからこそです。

劇団を去った一連の出来事が、山口さんの心に大きな影を投げかけ、それは今も山口さんの一部となって存在し続けていると思う。

そして流れる年月のこと、その行き先にあるもの、そういうものを冷徹にみつめて理解している山口さんだからこそ。今ファントムを演じたら、きっと素敵だろうなあと思うのです。

そして、これは本当に個人的願望なのですが。クリスティーヌには、歌の上手い、山口さん好みの子を配役してくれたら最高だなあと。

歌が上手いというのは、とにかく最低条件で。

クリスティーヌが歌えなかったら、「オペラ座」の世界に酔えないです。顔は別に、特別美人でなくてもいい。歌は、光るものを持っている子で。

最初はおずおずと不器用に、それからファントムに導かれるまま、どんどん高音に挑戦し、それを次々にクリアし。そんな自分に驚き、自信をつけ、みるみる変わっていくその奇跡を、舞台で観られたらどんなにいいでしょう。

役者も人間なので。クリスティーヌ役に山口さん好みの子がきたら、熱の入り方もまた、違うだろうなと想像してます。ぜひ、ぎりぎりの擬似恋愛をしていただきたい。クリスティーヌ役の子が、最初から山口さんを好きである必要はないですけど。

何故なら、たぶん歌が上手い女の子で、光る才能を持っていたなら。恋愛感情などなくてもきっと、山口さんに憧れの気持ちを持つだろうと思うので。山口さんの歌、凄いですから。その芸の部分に尊敬と憧れの気持ちを持つのは、自然な流れだと思うのです。だから特に、男性としての好みが一致しなくてもそこはいいかなあと、勝手に思ってます。

愛情というなら、クリスティーヌがファントムを思うより、ファントムがクリスティーヌを思う方がよほど、大きいでしょう。

大きくて、痛くて、悲しくて、報われない。それが、ファントムの愛です。

ファントムは陰。ラウルは陽。音楽の天才であるファントムが、どうしようもない劣等感にとりつかれ、叶わぬ恋を歌うところに、「オペラ座の怪人」の真髄があると、私は思っています。だから、山口さんが恋するところが見てみたいなあ。残酷かもしれないけど、本当に恋愛してほしいです。それで、思いっきり歌って欲しい。

仕事とか舞台とか、そういうものを忘れるくらいの境地で。

ああ、でもこれが実現するとしたら、上演期間は1ヶ月が限度かなあ。あれだけの歌を、感情移入して歌い続けたら、精神的に相当参ってしまいそう。しかも5日に1度のみの出演だったら・・・すごいプラチナチケットになりそう。

山口さんは、影のある役者さんだなあと思います。ラウル役は、その立ち姿と声の美しさで「三国一のラウル」と言われたのだと、昔からのファンの方に聞きました。山口ファンの友達と話していても、「ファントムよりラウルの方が合ってると思う」という人が多かったです。

でも私は、ファントムの方が山口さんには合ってると思います。なにごともなく、太陽の当たる道を歩いてきたラウルに我が身を重ねるのではなくて。ファントムの方をこそ、より深く理解し、共感する役者さんではないかと、そう思っています。

同じバルジャンという役を演じても、2003年と2007年ではずいぶん違うのだから。今ファントムを演じたら、きっと以前とは違う怪人になるでしょう。そんな山口さんを観てみたいです。

オペラ座の怪人(映画)を語る その11

日劇で、再び「オペラ座の怪人」が上演されている。4月30日から5月6日まで。短い期間だけど、こうしてまた映画館であの重厚な音楽に浸ることができるのは、なんて幸運なことなんだろうと思う。

 さっそく行って来ました。以下、感想です。ネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

 結局これで6回見たことになる。今回は、クリスティーヌを抜きにして、ラウルとファントムに注目して見ました。「ラウルの方が、ファントムよりも歌がうまい」という意見を耳にすることがあったので、本当にそうかな?と考えながら見た結果・・・・。うん、確かにそうかも。

 ラウル役のパトリック・ウィルソンには、余裕があります。どこをどう歌えばいいか全部わかっていて、自分の持ち味も全部わかっていて、優しくクリスティーヌを包み込む感じ。All I ask of you の場面などは、ラウルだってファントムに負けない音楽の天使ぶりを発揮しています。

 ファントム役のジェラルド・バトラー。決して下手ではないんだけど、音楽の師匠としては、少し物足りない感じもするかなあ。何度も見ているうちに、見方が厳しくなってきたかもしれない。声だけで、音楽の技術だけでクリスティーヌを魅了できるかどうか。それは疑問。

 ただ、クリスティーヌが映画の中で、どんどんファントムに惹かれていくあの気持ちは、本物だと思った。それは、音楽というよりもファントムの魂そのものに、彼女は魅入られていったと思う。ジェラルド・バトラーが持つ心の痛みや苦しみに、クリスティーヌ役のエミー・ロッサムが触れて、母性本能が芽生えていったのかもしれない。

 ジェラルド・バトラーがアルコール依存症だったと聞いたとき、「ああそうだったのか」と思いました。あんなにかっこよくて、歌もそこそこ歌えて、だけど彼は彼なりの痛みを抱えた人だった。だから、クリスティーヌを見つめる目が、悲しかったんだ。マスカレードのシーン。小さな子供のような、寂しい目をしていたのには、それだけの背景があった。

 ジェラルド・バトラーに対してパトリック・ウィルソンをキャスティングしたのは絶妙です。まさに、陰と陽、光と影。どこかに満たされないものを抱えた男と、順調にスター街道を走ってきた男。この対照が物語に色を添えるのです。

 この映画は、ジェラルド・バトラー版「オペラ座の怪人」です。音楽の魔人としてのファントムではないけれど、ジェラルドが演じたファントムの悲しみは、観客の心を十分に捉えるだけの力を持っていた。また別の人が演じたら、それはそれで、全然また別の物語になっていたはず。

 例えば。私は映画よりも舞台よりも先に、劇団四季のCDで「オペラ座の怪人」を聞きました。それは山口祐一郎さんがファントム役でした。ファントムとラウル、そしてクリスティーヌがそれぞれの心情を歌う最後のクライマックスシーン。これでもかとばかりに妖しく美しく、ラウルにみせつけるかのように、余裕たっぷりに歌い上げるファントムに対し、ラウルの歌は無骨でした。歌や芸術のことでは、到底ファントムにはかなわないラウル。だから彼は、ただ大きな声で、精一杯の気持ちをこめてクリスティーヌへの愛を歌いました。その対照がとても印象的で、私の心に深く残りました。

 今回の映画は、そういう意味ではCDとは全く違うファントム像、ラウル像だったと思います。何度見ても、すばらしい映像でした。映画でなければ描き出せなかった世界です。また少し時間をおいて、劇場で見ることができればいいなあと思います。オペラ座ファンのリピーターはたくさんいると思うので、興行的にも成り立つと思うのですが・・・。この時期に、こういう作品に出会えたことに、感謝です。

オペラ座の怪人(映画)を語る その10

映画「オペラ座の怪人」の感想です。以下、ネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

ああ、ついにオペラ座の怪人の公開が終わってしまった。私がいつも行く映画館の話なので、他はもっと長くやっているのかもしれないけれど。

結局、私が見たのは5回。同じ映画を見た回数としては、一番多い。今までは、「千と千尋の神隠し」を3度見たのが最高だった。「オペラ座の怪人」は音楽が素晴らしいので、映像と合わせて、何度見ても感動した。

素晴らしい映画だっただけに、いくつかの欠点が本当に残念だった。それはやっぱり、マダム・ジリーのキャラ設定だ。まるでファントムの忠実な部下のような描き方。これはいただけない。マダムをファントムの共犯のような位置に置いてしまうと、映画の内容が変わってきてしまう。そもそも、ファントムが孤独という設定が台無しになる。

サーカス団から逃げ出したファントムを匿い、なにかと手助けしてきたのがマダムなら、ファントムは孤独ではなくなる。それに、小さな頃からああして見世物にされ、その後はオペラ座の地下で孤独に暮らしてきたファントムが、音楽に卓越した才能を発揮するのは、少し無理があるような。

原作のファントムは、ペルシアで宮殿建築に携わったり、奇術を披露したり、さまざまな分野でその天才ぶりを王様に認められた。王様はパトロンとして、ファントムの知識欲を十分に満たすような援助をしただろうし、ファントムの元々の資質が、勉強と実技でさらに磨かれたであろうことは想像に難くない。

そして、裏切りがあった。愛してくれ、認めてくれたはずの人に命を狙われるということ。また惨めな日陰の生活に逆戻り、そのときのファントムの絶望。自分には、幸福で平凡な日常はないのだという諦め。

このときの経験がなければ、ファントムはオペラを書くことはできなかったと思うのです。技術的にも、情熱という点でも。ずっと地下の狭い世界で暮らした人に、世間の人々の心を動かす曲なんて、書けないと思う。そういう意味で、映画の中のマダム・ジリーの告白はとても違和感があった。あのシーンは、まるごと削除してほしかった。その分、きらびやかなペルシアでの生活シーンを入れてくれたらよかったのにと思う。退廃的な映像が見たかったです。美を追い求めたファントムの、試行錯誤の日々。酔ったように思いのままに、美を追求するファントムの姿が見たかった。

私、映画の中で、このマダムの告白のシーンだけは、目を閉じてしまっていました。長い映画なので目が疲れることもあり、私の休憩ポイントでした。本当に、ここのシーンは余計ですし、思わせぶりなマダムの登場シーンはすべて、要らない。ファントムのよき理解者である、マダム・ジリーという位置付けは、原作のよさを損ねてしまっていると思う。この映画の映像センス、音楽センスは大好きだけど、この点だけは不思議です。どうしてマダムをこういうポジションにしてしまったんだろう。

決闘シーンで、実際にファントムとラウルが剣を交える、というのも余計ですね。日影の存在であるファントムが、正々堂々と決闘するという時点で、なにかが違うと思う。負けてしまうところがまた、どうにも納得いきません。

よかったのはオープニングの、シャンデリアが上がって、時代が遡っていくシーン。音楽と映像の妙に、ただただ、うっとり。そこからつながる、オペラ座の舞台裏の猥雑な雰囲気。とてもリアルで、本当にその場に自分がいるような錯覚にとらわれるくらいでした。踊り子たちの楽屋をそっと覗いているような、ドキドキする映像。

そして豪華絢爛、マスカレード。圧巻です。名のあるダンサーなのでしょう、動きがきびきびしていて、どこにも無駄がなくて、見惚れました。

映画には本当に感動しましたが、その一方で私は、劇団四季の舞台をまた見に行こうという気にはならなかったのです。その理由を、自分なりに考えてみました。どう考えても、一番の理由は、「ファントムを愛していないクリスティーヌ、クリスティーヌを愛していないファントム」にあったとしか思えません。

初めて舞台で見たときのあの失望感は、じわじわ、後から本格的にやってきたような気がします。ファントムとクリスティーヌの間に愛情がなかったら、この物語は成立しないです。身を引き裂かれるようなファントムの叫びこそ、The point of no return なのです。ファントムがクリスに執着しなかったら、この歌はただの歌。なんの感動もない。そしてクリスティーヌがファントムを愛さなかったら、ラウル、ファントム、クリスティーヌの三人が同時に歌う最後のシーンは、観客の心になにも訴えかけないでしょう。

たしか、パーフェクトガイドだったと思います。インタビュー記事が載っていました。劇団四季でファントム役の高井さんが、「なぜクリスティーヌは最後にファントムを選ばなかったか不思議」と言ったのに対し、クリスティーヌ役の佐渡さんは、「絶句」したようで。この佐渡さんの感覚が、あの舞台の全てを表していたんだなあと思うのです。

佐渡さんには、ファントムにどうしようもなく魅了されたクリスティーヌの気持ちがわからなかった? たしかに、私が見た舞台では、佐渡クリスは石丸ラウルとラブラブで、ファントムは蚊帳の外、という感じでした。独り相撲のファントム。いえ、独り相撲というより、そういうクリスティーヌを愛するというのは、かなり難しい作業だったんではないでしょうか? もし私がファントムだったら・・・・たぶん、佐渡クリスティーヌを好きになることはなかったと思う。

こういうのは、感性というか、個性の問題なのだ。ファントムのよさがわからない人に、無理にわかれ、愛せよといっても、嘘になってしまう。同じものを見ても、人の捉えかたはそれぞれで、それこそ好みだと思う。

言葉で説明することはうまくできないけれど、惹かれる、魅惑される、という感覚。それをファントムに感じることができないクリスティーヌは、決してファントムに愛されることはないでしょう。

その点、映画の3人はそれぞれ、うまく演じていたと思うのです。少なくともあの撮影期間中は、本当の愛情のようなものを互いに感じていたと思う。ファントムとクリスティーヌが見つめあう時に流れる空気だったり、ドンファンの勝利で2人を見つめるラウルの涙に、それはたしかに、表れていた。だからせつなくて、観客は泣くのです。私が舞台では泣けなかったのに映画で泣いたのは、愛があるかないかの違いだったと思う。

本当なら、舞台の方がより、感動は大きいものなのですけれどね。生の声が伝えるものは、映像よりもリアルだと思うので。声に感情が乗っていたなら、それだけでオペラ座の怪人の世界に酔いしれることができたのに、残念です。クリスティーヌ役が別の人に代わったら、少しは見てみたいとは思うけど、でもやっぱりやめておきます。佐渡クリスでOKを出したのは演出がそういう感性だったと思うし、だとしたらその演出と私の感性は違うものだから。

オペラ座の怪人は、私にとって忘れられない映画の一つになりました。

オペラ座の怪人(映画)を語る その9

昨日の続きです。ネタバレありますので、映画未見の方はご注意ください。

考えてみると、ファントムはクリスティーヌの前で、わりと弱気な面を見せていますね。嫌われはしないかと、怯えて、臆病になっている表情が印象的です。たとえば最初に、地下のお城へクリスティーヌを連れてきたとき。気を失った彼女が目覚めて、作曲中らしきファントムに近付くシーン。照れて、ドキドキしているファントムの表情が可愛らしいです。一生懸命、なんでもないようなふりをしつつも、内心の嬉しさをこらえきれないというか。それでいて、彼女の反応に怯えているような感じもするし。「嫌われたくない」「醜いと思われたくない」そんなファントムの叫びが聞こえてきそうです。

あと、私の好きな場面なのですが、マスカレードでのファントムとクリスティーヌの対峙。まだ学ぶことはたくさんあるのだから、師の元へ帰れとせまるファントムなのですが、強気な言葉と裏腹に、クリスティーヌを見るその目の不安なこと。なんて悲しい、淋しそうな目で見るんだろうと思います。ラウルとのラブラブっぷりを見た後だからでしょうか。そんな、捨てられた子犬のような目で見られたらクリスティーヌだって、心が揺れますよ。言葉に出さなくても、「あなたが好きだ」という気持ちがどうしようもなく、ファントムの顔にあふれていました。

音楽の天使として、圧倒的な威厳と自信を持つ一方、クリスティーヌの前では弱い人になってしまうその二面性が、ファントムの魅力になっています。傲慢なだけの人間だったら、嫌味な人になってしまうから。この弱さが、母性本能をくすぐる点でもあるんです。いい大人なのに、少年のように見えてしまう瞬間がある。

ラウルとクリスティーヌはその後、自分の人生の中で何度もファントムを思い出したことでしょう。そのとき、なにを思ったか? クリスティーヌの場合、「もしファントムと暮らしたらどんな人生だったのか」とか、「あの後、ファントムは死んでしまったのだろうか」などということを、なにかの拍子にふっと、考えたりしたことでしょう。答えは出るはずもないのですが。

ラウルとクリスティーヌの生活が、幸せで愛に満ちたものであればあるほど、2人は心のどこかで、ファントムを哀れに思ったんじゃないかなと思います。気の毒で、胸が痛んだのではないでしょうか。クリスティーヌは音楽という絆でファントムを愛していたし、ラウルはラウルで、同じ女性を真剣に愛したという絆がありますから。

ラウルに関しては、彼が最初にファントムに抱いていた憎しみは、解放されて地上に戻った後では変化したんじゃないかなと思うんですよ。それは、ドンファンの勝利でのファントムとクリスティーヌの音楽の絆を目の当たりにしたことで、ラウルはファントムの愛を理解したから。言葉じゃなくて、どれほど2人が音楽を介して結ばれているかということを、知ったということです。自分には理解できない、踏み込めない領域での結びつきを知った。だから、ファントムがクリスティーヌにみせる執着を、「無理もない」と捉えたんではないでしょうか。

それと、ファントムは徹底的にクリスティーヌを守ったということ。この点に、ラウルは共感したんではないでしょうか。自分が彼女を大切に思うのと同様、ファントムもクリスティーヌを宝物として扱った。最終的には、クリスティーヌの幸せを願って彼女を、ライバルのラウルと共に地上へ送り出したのですから。自分のエゴで彼女を絡め取ることはしなかった。奪う愛でなく与える愛で包んだ。

同じ人を好きになる、ということは、ファントムとラウルには共通点があったということです。ファントムの背負った運命があまりにも重いものだったから、たくさんの人を巻き込んだ悲劇の物語になってしまいましたが、そうでなければ、その後の2人は仲良くなれたかもしれない。「お前、絶対クリスティーヌを幸せにしろよ。そうじゃなけりゃ、いつでも俺が駆けつけて、かっさらっていくからな」なんて、ラウルに念押しするファントムとか・・・・。

Learn to be lonely(除歌詞)を聞きながら、時間の流れはどんなに痛い思い出も、懐かしい記憶に変えるのかなあと考えていました。思い出したくないような、生々しい、鮮やかな記憶も、時間と共に姿を変えていくのかもしれません。痛い記憶が懐かしさに変わるなら、年をとることもあながち、悪いことばかりではないのかもしれない。

クリスティーヌの墓前のラウル。流れる音楽のやさしい音色。墓前に供えられた薔薇の、赤い確かな情熱。いい映画でした。たぶん、また見に行きます。

オペラ座の怪人(映画)を語る その8

またふらふらと、「オペラ座の怪人」を見に行ってしまいました。レディスデーで1000円は絶対お得。館内はやはり、女性が多かったです。

これで同じ映画を4度見たことになりますが、全然飽きません。なぜだろうと考えたのですが、たぶん見所が複数あるからでしょうね。映像、音楽、そして英語の解釈。なるべく字幕を見ずに、直接言葉を聞き取ろうとすると、画面に集中できて新しい発見があったりします。字幕を見ていると、どうしてもそっちに注意がいってしまいますから、あえて原語で理解しようとすると勉強にもなるし、一石二鳥。

以下、ネタバレを含んでいますので、未見の方はご注意ください。

Learn to be lonely を好きになりました。最初に聞いたときは、平凡な曲だなあと思ったんですが。最初聞いたときには、歌詞が嫌いだったんですよ。いかにも、ファントムの哀れさを強調したような歌詞で、お涙ちょうだい的なあざとさを感じてしまって。

でもこれを、歌詞を抜きにして、晩年のラウルのテーマソングとしてとらえると、彼の心境を表したいい音楽だなあと思ったのです。クリスティーヌの享年を墓石で見る限り、彼女は63才?まで生きたようです。よき母、という言葉からは、子供をしっかり育てたんだなということもわかります。あの、シャンデリアが落下した夜の3人の記憶を超えて、そのことに呪縛されることなく、平凡で幸せな人生を生きることができたのだと、救われる気がします。

そして、そんな彼女に、思い出のオルゴールを落札してお供えするラウル。私は、夫婦は、どちらかが幸せでどちらかが不幸なんて、ありえないと思うのですよね。クリスティーヌがそれだけ幸せな時間を過ごせたなら、傍にいたラウルは、同じくらい幸せだったと思うのです。

お墓に供えられた赤いバラ。その赤が、墓石までもほんのりと染めていたのは、ファントムの愛がラウルに負けないくらい真摯なもので、ラウルと同じくらい、長く続いたのだという証ではないかと思いました。あの終わり方は素敵です。救いがある。舞台のように、ファントムがただ消えてしまうのではなく、その後のクリスティーヌの幸せな人生を象徴するようなシーンで終わるのは素敵だなあと、4度目の鑑賞でそう思いました。そういう救いがあるから、何度でも見られるのかもしれません。あんまり悲しい話だったら、見ていてつらくなってしまうでしょう。

ラウルはあの薔薇を見て、いったいどう感じたのか。きっと、嬉しいというか、懐かしい気持ちでいっぱいになったと思います。それが、あの Learn to be lonely のメロディではないでしょうか。ときが流れて、鮮やかな思い出もセピア色になって、関係者が次々と亡くなって。とり残された気分のラウルは、ファントムに対して、奇妙な連帯感のようなものを感じていたのかなと思います。同じ女性を、心から愛したという連帯感。

Did you think that I would harm her?

Why should I make her pay for the sins which are yours?

(彼女を傷つけるとでも思ったのか?)

(なぜお前の罪を、彼女に償わせねばならぬ?)

クリスティーヌを助けようと乗り込んできたラウルに対し、ファントムが上記のように言う場面があります。私は、このセリフが大好きなんですよ。ファントムにとって、クリスティーヌは本当に宝物なんだなあ、と思うから。2人に宣戦布告したところで、クリスティーヌを憎みきれない。クリスティーヌはたぶらかされただけだ。悪いラウルに騙されて、迷わされているんだ、というファントムの気持ち。ラウルに対して憎しみはあれど、クリスティーヌを傷つけようという気持ちはまったくなかったんだな、とほっとします。

ちょっと長文になったので、続きは日付が変わったらUPします。