2016年を振り返る その3 鳴子温泉と松島

2016年初夏には、東北へも行きました。

まずはフェリーで仙台港へ。そこから作並温泉で一泊。翌日は鳴子温泉で一泊。最後に松島で一泊です。

この旅で印象に残ったのが、鳴子温泉。そして松島の島巡り(嵯峨峡までいく長いコース)でした。

鳴子温泉では、温泉パワーを満喫。これぞ本物の温泉、という地球のエネルギーをまざまざと見せつけられたような気がします。たとえばうちの近所の温泉だと、掘削して汲み出す作業、また所によっては、加温したり、湯量が足らなければ継ぎ足すなどの加工が必要なのですが、鳴子温泉周辺では、ぽこぽこ豊かなお湯があちらこちらに沸いているのです。

それはまず、匂いでわかります。

私は作並温泉を出発した後、尾花沢市を経由してぐるっと、車で47号線を東へ向かったのですが。鳴子温泉に近付くと、鳴子温泉ではないけど、○○温泉、△△温泉、と、次々と温泉の看板が並んでいて、硫黄の匂いが漂い始めました。

これだけ強い匂いだと、普通にちょっと山の中とか、ふとしたところに自然と湧いているのかなあと。それくらい強烈でした。

鳴子温泉では、ホテル亀屋に宿泊。源泉露天風呂を目当てに泊まったのですが、期待を裏切らないお湯の良さで大満足。

熱めのお湯なのですが、肌に柔らかい。最初熱いなと思っていても、不思議に長く入れてしまうお湯なのです。そして、湯上りはいつまでもぽっかぽか。

鳴子温泉に泊まるときは、昼間のうちにすぐ近くの鬼首(おにこうべ)温泉郷の「地獄谷遊歩道」に行ってみることをお勧めします。ここを見学してから温泉に入ると、大地のエネルギーを肌で感じることができ、その後の温泉もまた、一層感慨深く楽しむことができます。

吹上温泉「間欠泉センター」の間欠泉の方が有名かもしれませんが、大自然の迫力では断然、「地獄谷遊歩道」に軍配が上がりますね。ただ、道の案内がわかりづらいのが惜しい。間欠泉センターで間欠泉は見学したけど、地獄谷遊歩道には寄らずに帰ってしまう人も多いのではないでしょうか。

私は宿のチェックインまでまだ時間があったので、その時間を利用してまず、車を走らせて間欠泉センターへ行きました。間欠泉センター内にある露天風呂。すっごく入りたかったけど、混浴ということで諦めました。そんなにきちっと整備する必要はないけど、狭くていいので男女別で簡単な目隠しをして、通りすがりの人の目線を遮ってくれたら、喜んで入るのになあ。センターの入場料とは別に、入浴料をとってもいいので、それをやってくれたらいいのに。混浴、しかも通りすがりの人の視線も気になるということで、諦める人は私だけではないはず。

その後、センターの駐車場から地獄谷遊歩道を目指します。が、どうやって車で地獄谷遊歩道へ行けばいいかわからず、迷いました。もう少し看板や地図の掲示などでわかりやすくすると、観光客も増えるのになあと。センターは有料でしたが、地獄谷遊歩道は無料です。でも、地獄谷遊歩道は有料にして、観光地として整備する価値が、十分にあると思いました。

地獄谷遊歩道とは、要するに川沿いの散歩道なんですが。行ってびっくり。歩いていくと、川から湯気が上がっているし、時間とともに、小道のわきから熱湯が噴き上がるではありませんか。場所によっては、かなり大規模な噴き上がりもあって、道に注意書きもあります。ここは、すべて自己責任の世界です。熱湯に直撃されたら確実にケガをします。

一番危険な箇所は、何十秒かおきに熱湯が道を直撃するので、まずそのタイミングをじっくり見定めて、お湯が出ない間隔を見計らって道を渡りました。でもこれも運ですね。渡り始めたときに直撃されたら、逃げようがない(^^;

地球は生きていて、その内部は煮えたぎっていて。小学生の頃に図鑑で読んだ知識が、今さらですが蘇りました。地熱ってすごい。本物の温泉は、掘らなくても自然に湧いて出てくる。というか、とめても無理。次々と湧き出し、湯煙を上げ、人が利用しようとしたら加温どころか、むしろ冷ますのが大変なくらい。

鳴子温泉、鬼首温泉郷で、温泉の神髄に触れることができたような気がします。温泉は、大地のエネルギーそのものだということがよくわかりました。

ただ、これだけ素晴らしい温泉なのに、人出が少ないのがちょっと寂しかった。泊まったホテルの近辺に、温泉街としての賑わいはあまり感じませんでした。もったいないなあ。温泉の質は最高なので、これは他の観光地にはない大きな宝だと思います。

翌日、鳴子温泉を後にして、47号線をひたすら東へ。松島へ向かいます。松島では松島センチュリーホテルに泊まりましたが、観光船の乗り場も瑞巌寺も徒歩圏内でかなり便利。

松島の島巡りの観光船。私は、松島湾の奥をぐるーっと周って、嵯峨峡まで見せてくれる、「嵯峨峡コース」を選びました。1時間40分ほどかかりますが、50分の「仁王丸コース」では行かない場所もたっぷり楽しめるのでおすすめです。この「嵯峨峡コース」は、参加する人が少ないせいか、「仁王丸コース」より本数は少ないですし運航日時が限られていますが、もっともっと船に乗っていたいなあと感じる、快適で楽しいひとときでした。

船内放送があり、丁寧に島の説明をしてくれます。右を見たり左を見たり。島というより、岩という感じの奇妙な形の無人島や。湾の奥に進むにつれ現れる、人が住む、生活の匂いの感じられる大きな島の影。

島での生活は、どんな風なのかなあと想像すると、不思議に胸が締め付けられるような、なんともいえない感覚に捉われました。島の、波打ち際の砂浜。そこに立てば、目の前には大海原。子供達は、自然いっぱいの中で育つんだろうなあ。人によっては、生まれてから死ぬまでずっと、その島の中で生活することもあるでしょう。

太陽と、風と、海と、砂浜と。想像すると、胸がぎゅっとなるのです。島で暮らした経験はないけど、遠い昔、どこかでそんなことがあったような。あるいはこの感覚は、原始からのDNAが見せた錯覚なのか。甘酸っぱくて、懐かしくて、この感覚をなんと表現するべきか。

私は、昔からこの不思議な感覚に、時々捉われることがあり。それは、景色をみたり、音楽を聴いたり、なにかを想像したときに不意に、湧き上がる気持ちです。一番近い言葉は、ノスタルジイなのかな。

その砂浜に立ったこともないのに、自分が立っているような錯覚を覚えました。辺りには誰もいない。太陽が降り注いでいる。良く晴れた日で、私は海を見ている。小さなプライベートビーチ。空気の匂い。いつかそこを出ていく日。帰る予定のない、胸をチクリと刺す痛さ、寂しさ。

船での島巡りは、とても楽しかったです。私が乗船した日は、乗船人数も少なくて席も広々していたので、まるで貸切のようで、ゆったりできました。途中うとうとしたり、想像にふけったり、ぼんやりしたり。波も穏やかで、船酔いもなく。

良い旅になりました。

石鹸シャンプーより湯シャンがおすすめ

年末ということで、年内のブログは、今年を振り返るブログにしようかなあと思います。

今年私が挑戦して、なかなか気に入ったのが「湯シャン」であります。もともと、髪にいいシャンプーを探していて、オーガニックとか自然素材とかこだわったものを選ぶようにしていたのですが、そのうちまず試したのが、「石鹸シャンプー」、そして、最終的に「湯シャン」へたどり着きました。

まず、自然素材のシャンプーを選んでいたときには、あまりピンとくるものがなかったですね。髪の調子はどれを使っても同じで、普通のシャンプーとあまり違いが感じられず。それで、毎回よさそうなものを探すのが面倒くさくなってしまい、じゃあ、石鹸シャンプーにしようかなと。

石鹸シャンプーは、原材料が石鹸オンリーということでそういう安心感はあったのですが、とにかく髪のべたつきが気になってしまい、ギブアップ。後に、リンスをたっぷり、多めに使うとべたつきが解消されることに気付きはしたものの、石鹸の洗浄力の強さに不安を覚えてしまい。これだけ油をがっつりとったら、肌も痛むだろうなあという気がして。

石鹸シャンプーを使っていたときには、べたつきが気になるあまり、2度洗い、3度洗いしたときもありました。地肌をごしごし、きちんと泡立てて洗えばいいのかと思ったのですが、洗いたてでも乾かすとべたつきが出てしまい。途方に暮れました。

そして最終的に湯シャンを試してみたのです。。湯シャンのいいところは、なんといっても楽ちんなところ。

今までどんなシャンプーを使うにしろ、すすぎが気になるので、十分すぎるほどのお湯を使わねばならず、時間も労力も使って洗髪は一仕事でした。

けれど湯シャンの場合、よけいな成分が髪に残ることもないし、その点はすごく気楽です。温かいシャワーで髪を優しく洗い流し、地肌もそっとお湯で押し流すようにしました。あまり地肌に刺激を与えたくないので、ごしごし洗うのではなく、指でそっと撫でるくらいにしましたが、お湯のおかげで余分な脂はすっきり落ちます。

なにより、地肌から出る油の質が変わったのに驚きました。今までだと、朝シャンプーしても夕方にはなんとなく脂っぽくなってしまったのが、湯シャンしてからは、脂っぽいのではなくしっとりという感じなのです。すぐに脂っぽくなっていたときは、毎日シャンプーしないと気持ちが悪くて毎日シャンプーが当たり前でしたが、今は一日おきで十分にサラサラですね。

ただ、このサラサラという感覚も、普通のシャンプーを使って、天使の輪(陽射しを受けてキラキラ光る)ができる、その艶やかさとはまた、全然違うのです。そういうサラサラは、湯シャンでは実現できません。普通のシャンプーとのときは、化学製品の作用だったのかなあと思いますが、湯シャンのサラサラは、適度に湿り気がある感じです。油っ気ではなく。

さわってみると、しっとりすべすべ。湯シャンの効果を実感しました。これは地肌にいい!

脂の分泌の問題なんだろうなあと。強力な洗浄成分で洗うのに慣れていると、肌は必死になって脂を分泌する。それがなければ、脂の分泌は適量になる。

人によっては、湯シャンにした直後にトラブルがあったりもするみたいですが、私の場合は最初からすんなり、効果が実感できました。気に入ったので、続けています。

私は温泉に行くのが大好きなのですが、温泉でも湯シャンのおかげで、髪にかける手間を省略できて本当に助かっています。髪を洗うのって本当に一仕事ですから。きちんとすすげたかどうか気にしながらだと、それだけで疲れてしまうのです。

湯シャンおすすめですよ~。

ちなみに、使いかけで余った石鹸シャンプーはもったいないので、お風呂でメイクを落とすときに使っています。洗浄力がすごい。一度洗いでメイクだけでなく、顔の脂まですっきりとれます。石鹸シャンプーっていいというけど、本当はメイク落としの方が合っているんじゃないかな、と思うこの頃です。

洗いすぎって、髪にしろ顔にしろ、気をつけなきゃいけないのではないかと。洗いすぎると肌を傷めるし、脂の分泌が異常になってしまうと思うので。

この脂の分泌って、実は肌にとって一番の鍵だと思うのです。自分の脂が最高の美容液、だと思います。

よく温泉から出た後、化粧水や乳液をしっかり使ってる方を見かけますがもったいない。せっかく温泉成分があるのになあと。とはいえ、そういった入浴施設の湯上りコーナーでは、各社のクリーム等、試供品が山ほど置いてあるんですけどね(^^; あれいつも矛盾を感じるなあ。温泉にたっぷりつかって温泉成分を肌につけたのに、なぜ湯上りに化学製品つけさせようとするのか、販促はわかりますがそれは違う~。

今年は湯シャンに出会った年になりました。

福井駅には恐竜がいます

所用で金沢に行った帰り。福井で一泊したのですが、福井駅前に恐竜がいました!

何も予備知識なしで行ったので、最初は気付かなくて。信号待ちのとき、妙な鳴き声が聞こえてキョロキョロしてたら、なんと! 大きな恐竜が三体も!

声も出るし、動くのですよ、このモニュメント。観光客もそうですが、出張と思われるお父さんたちが、キラキラした少年の目で、何枚も写真を撮っているのが印象的でした。恐竜を見ると、みんな童心にかえりますなあ。

私も興味津々で、しばらく恐竜の前に佇んでおりました。月には月見草だけでなく、恐竜もよく似合います。暗くなり始めた空、昇り始めた月、そして、恐竜の影。

恐竜も、遥かな昔に、やっぱり月を眺めて物思いにふけっていたのかなあ、とか。

学術的に的確な恐竜の動くモニュメントが、駅前広場に設置されるのは世界初だそうです。これ考えた人、アイデアマンだわ。センスが素晴らしい。

恐竜と月を見上げていたら、なぜか懐かしいような気持ちになる。なんだろう、このノスタルジイ。そんな時代に生きていた記憶などないのに。

恐竜が生きていた時代のことを、想像しました。豊かな植物と、温暖な気候。地球上が今とは違った景色でも、月だけは変わらず空にあって。

福井駅には浪漫があります。

秋の植物園へ行く

今年も秋薔薇の季節がやってきた。毎年春と秋には必ず出かける場所。今年はちょっと遅いかもしれないかもしれないと思いつつ出かけたら、やっぱり遅かったみたいで。

薔薇のコーナーはずいぶん寂しかった。盛りを過ぎたからなのか、秋だからなのか、春の日差しの中で燃え上がるようなイメージの薔薇はそこにはなく。ぽつん、ぽつんと隙間も多い。

秋の薔薇は、春の薔薇に比べて色が鮮やかだという。紫外線の関係らしい。けれど、私が見た薔薇はみんな、すこしくすんでいるように見えた。そんな中でも、存在感の大きかったのが、京成バラ園芸で1981年に作られた品種、『芳純』。ネーミングがいいね。芳醇じゃなくて、芳純。確かに、熟成した美しさというより、ピュアなイメージがある。

雨に打たれた薔薇はまた、その風情がなんとも言えず、心にしみる。晴れた日に見るのとは、また違う表情。立ちどまり眺めていたら、ホロリと花弁が何枚か崩れ落ちた。湿った地面に落ちるときには、やわらかな、湿った音がした。

薔薇とは別に、今回目を引かれたのが千日紅。ローズネオンという品種の色が、深い。ネオンという言葉から連想するイメージにぴったり。どこか秘密めいた、艶やかで、でも落ち着きも感じさせる色。


薔薇のような激しさはないけど、印象深い花だった。

この植物園は、春以外はあまり人気がない。平日の、まして雨混じりの日には、お客さんの姿もまばら。だけど、それがまたいいのだ。花がない、樹木のコーナーもまた、散歩道としては最高だ。目的も定めずゆっくりと歩く。空を見る。鳥の声を聴く。空気の匂いを嗅ぐ。
人気がないとはいえ、管理された場所だから、園内はどこでも安心して歩くことができる。広大な敷地には、池もあり、小川も流れている。楽園だ。

一角には温室があり、中には小さな人工の滝があって、それが透明な水のカーテンのようで見ていて飽きない。滝の前に立って、じっと目を凝らす。透明な滝の向こうにある壁の色。どこまでも透明な水を通して、その壁の模様を見る。水音に包まれて、そこにいるだけで、無心になる。非日常の、異世界にいるような気分になった。

坂口杏里さんの転落

 タレントの坂口杏里さんがホストクラブにはまり、借金を重ねた末に、アダルトビデオの出演が決まったとのこと。

 有名な女優さんの二世で、テレビでも顔が売れていて。なぜアダルトビデオの出演?と思うけれど、それを言うならなぜホストクラブ?だし、なぜそこまでの借金を?という話になる。

 借金してまでなぜホストクラブにのめりこむのか? 

 やはり愛情を求める、ということなのかなあと思ってみたり。お金と交換に、愛情がわかりやすくもらえる場所だから。お客さんの立場で入れば、初めて会った相手だとしても親しげに話してくれるし、うざがられることもない。優しく微笑んでくれ、また来てねと誘ってくれる。

 寂しい人にとっては、他に代えがたい場所なんだろうなあと思ってみたり。だって、道を歩いているときに好みの人をみつけて、「すみません。お金は差し上げますから今から私とお酒飲みにいってください。おしゃべりしてください」と頼んだところで、頭がおかしい人としか思われないわけで。

 でもホストクラブでは、お客さんだからね。好みの人をある程度選べるし、その人は決して拒絶しないとわかってる。まるで昔からの知り合いみたいに、親しく接してくれる。愛情を求めても変な顔をされないわけです。それが仕事だから。

 私はホストクラブって行ったことないですが。テレビで特集しているのは見たことあります。キラキラゴージャスな店内。髪も服もビシっと決めたイケメンがずらり。

 そうした非日常的な空間で、大勢にちやほやされること。寂しさを抱えた人にとって、それはまさに夢心地の体験だろうなあという、想像はつきます。

 私が杏里さんをとても気の毒だと思うのは、思春期に嫌いな男性が義父(籍は入っていませんが)として、同居していたことです。

 う~ん。これは本当に、キツイ体験だと思う。
 子供には逃げ場がない。離婚したことだけでも傷つくのに、お母さんが知らない男の人を連れてきて、仲良くしなさいという。そしてお母さんとその男の人が、仲良くする姿を見せられる。
想像しただけで、泣けてくるような話です。

 バラエティ番組で、坂口良子さんの再婚を特集したのを見ました。お相手のプロゴルファー、尾崎健夫さんは、とてもいい方だと思いました。一生懸命、本当の父になろうと努力されたのだと思いますし、真面目で優しい人柄も伝わってきました。

 でも、どんなに神様のように完璧な男性であっても。子供が嫌うのなら、同居してはいけなかったと思うのです。

 この件については、尾崎さんというより坂口さんの責任が大きいのかなと。

 借金返済で仕事が忙しく、子供達に構ってやれなかったというけれど、尾崎さんと付き合う時間はあったということですよね。
 でも、仕事の合間の限られた自由時間であったら、好きな異性と過ごすより、子供と過ごしてあげてほしかったです。

 百歩譲って、もし恋人ができたとしても。子供の見えないところで付き合う。家には連れてこない、という思いやりがあってもよかったのではと。

 杏里さんやお兄さんが、尾崎さんを気に入って再婚を望んだなら、また話は別ですが。

 杏里さんは尾崎さんを嫌って、オジサンとしか呼ばず、尾崎さんにはひどい言動を繰り返したとか。そんな状態なのに、坂口良子さんはなぜ、子供達のいる家に尾崎さんを同居させたのか。自分の気持ちを、子供より優先したのは間違いだったと思います。

 杏里さんは当時10歳くらい?でしょうか。それから約10年の同居。
 家に嫌いなオジサンがいるって、どれだけ絶望的な状況だったことか。子供は家を出ていくことができません。ただ耐えることしかできません。

 そのことは、杏里さんの人格形成に大きな影響を与えたと思います。子供にとって、一番大事なよりどころになるはずの家が。杏里さんにとってはそうではなかった。

 坂口良子さんに特別悪気があったわけではないと思いますし、尾崎さんがいい人であることもその通りなのでしょうが、杏里さんの立場になってみれば、孤独を感じたでしょう。

 お母さんは、自分よりも恋人をとったのです。

 子供だった杏里さんは、「大嫌いなオジサン」に物を投げつけたこともあったそうです。そのことを後悔し、詫びる発言もされていましたが、私はむしろ、そこまで杏里さんを追いつめてしまった大人二人の選択を、ひどいと感じました。

 そしてもう一つ。坂口良子さんが、病状の本当の深刻さを杏里さんにきちんと伝えずに亡くなってしまったこと。

 母心として、よかれと思ってやったことはわかります。たぶん、母として、本当のことを伝えたら杏里さんが精神的に耐えられないだろうという、その思いやりが生んだ決断だと思いますが。当時の杏里さん、21歳。
 小学生ならともかく、母が亡くなるのに、それを受け止められない年齢ではないです。

 弱い子でも、可哀想でも、事実として母が死ぬのが避けられないなら、その子なりに耐えていくしかないです。そして、先が長くないことが事前にわかっているのなら、母から子供に伝えたいこともあるだろうし、逆に子供として、母と話したいこともあるはずです。

 母親が亡くなったとき。悲しいのは当たり前ですが、自分なりに「やれるだけのことをやった」という満足感があれば、その悲しみを少しでも和らげることができます。

 でも杏里さんの場合、後悔と怒りばかりが残る結果となってしまったようで、お気の毒でした。なぜ母の病状を黙っていたのかと尾崎さんに対してずいぶん腹を立てたようですが、本当の責任は、母の坂口良子さんにあったように思います。
 尾崎さんにしてみれば、実の子供ではないし、良子さんから病状の口止めを頼まれれば、それを無視してまで勝手なことはできなかったでしょう。

 良子さんは、杏里さんを心配するあまり、見くびっていたのだと思います。この子には母の死があまりに重すぎる、受けとめられないと。でも私は、もし余命わずかを知らされていたら杏里さんは杏里さんなりのやり方で、杏里さんなりに一生懸命にそれを受けとめただろうし、死を乗り越えて成長しただろうと思うのです。

 結局、杏里さんにしてみたら、お母さんに対して思いが残る結果になってしまったような気がするのです。

 義理の父との同居も。お母さんは嫌がる私の気持ちよりも尾崎さんをとった、と心の奥に刻まれて。
 
 亡くなったときも。お母さんは私を信用してくれなかった。私には教えてくれなかった。尾崎さんは知っていたのに、私はなにも知らなかった、と。

 これは寂しいですよ。親の愛情を感じずに育ってしまったら、心にぽっかり穴が開きます。埋めても埋めても、埋まらない穴が。
 
 両親が二人いて、二人の愛情をもらって育つのが普通なら。離婚した場合は、なおさら気を遣わなくてはいけないかと。子供が成人するまでは、自分の気持ちや自分の人生より、子供のことを優先し、考えてあげてほしいです。成人するまでの子供は弱いです。逃げ場がない。家を出て、どこかで1人で暮らしていけない。どんな家でも、そこにいるしかない。

 良子さんは、尾崎さんが杏里さんの後見になってほしいと望んでいたのかもしれませんが、それは無理だと思います。良子さんが生きていたからこそ、かろうじてバランスを保っていた義父と義娘の関係。母亡き後に、尾崎さんの忠告を杏里さんが素直に聞くわけないと、誰だってわかります。

 それよりも、仕事の選択がこれでよかったのかどうか。結果論というわけではありませんが、華やかで誘惑の多い芸能界の仕事が、杏里さんに合っていたのかは疑問で。まして、所属事務所が、あまりいい噂を聞かないところで、真鍋かをりさんや小倉優子さんのトラブルの話もあり、なぜそこに所属させたのかなあ、と。

 多くの人が、杏里さんのことを心配しているのは、この先だと思います。このアダルトビデオの出演が底ではなく、この先もっともっと、転落してしまうのではないかと案じているのです。それを防ぐためにどうするか。お金だけでは救えないですね。もし一時的に大金が入ったとしても、ホストクラブで埋める心の穴は、底が見えない。きりがない。

 できればアダルトビデオ販売が、中止されればいいのですが。その上で杏里さん自身が、借金をしてしまう心の病を自覚し、治す意志をもてたなら。助けてくれる人は出てくると思います。ただ、治す意志を持つところまでもっていくことが、とても難しい。

 義父の尾崎さんが今何を言っても反発しかないだろうし、他人である元カレの小峠さんだって、そこまでの義理はない。身内の方が、自分の人生を賭けて生涯見守っていくぐらいの気持ちがあれば軌道修正できるかもしれませんが、実際、とても大変なことだと思います。

 複雑な家庭環境⇒情緒不安定⇒生活の乱れ⇒ホスト⇒借金⇒風俗
 よくあるパターンですが、どこかでとめることができたなら。

 杏里さんはおバカタレントとして活躍し、通知表のほとんどが1というのも笑いに変えていましたが、実際のところ知的に問題があると、生きていくのが普通の人より大変になるわけで。悪意を秘めた誘惑に気付かない。対処できないままずるずると。

 ホストクラブにのめりこむのには、人とコミュニケーションとれないことの寂しさもあるのかなあと思ったりします。たとえば、友人同士の関係も、「空気を読む」能力はどうしても必要になる。でもそこのところがうまくいかないと、同性の友人ができない。
 友達はボランティアじゃないですから。気が合わなければ、自然と遠ざかる。
 でもホストなら、疑似恋人でなく疑似友人にも即興でなってくれるわけです。お金を介してですけど。お金がなくなれば、消える関係ですけど。

 通知表のほとんどが1というのは、もはや笑えるレベルを越えています。もっともっとひどければ、福祉の助けもありますが。普通と福祉の隙間に、すぽっとはまってしまったグレーゾーン。誰かの支えと見守りが一生あれば、と思いますが。じゃあその役を誰が担うのかというと。

 杏里さんの場合、ここまでくるとなかなか、独りで軌道修正するのは難しいような気がします。