『マリー・アントワネット』観劇記 その7

 前回に引き続き、舞台『マリー・アントワネット』の観劇記です。4月15日ソワレの感想を書いています。ネタバレを含みますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 カリオストロの新曲「ILLUSION−或いは希望−」。

 凱旋公演を初めて見てショックを受けてから、よーく考えてみたのですが。

やっぱり、この曲は必要ないと思う(^^;

 必要ないどころか、この曲を入れることによって、舞台全体が、おかしなことになってしまっていると思いました・・・。

 人間たちの愚かさを歌い上げる、というイメージならよかったのですが。実際聴いてみると、カリオストロの迷い、不安、恐れ、みたいなものが伝わってくる歌でした。(あくまでも、私の感想です。)

 人間臭いカリオストロにびっくりしました。それだけではありません。この歌には、カリオストロの善性みたいなものも、表現されていたような気がするのです。愚かな人間たちの行く末を憂う、というような。

 カリオストロは、そんなキャラクターではないと思います。

 高みから人間を見下ろし、傲慢な態度で戯れに人の心を操る・・・そんな、超人的なイメージがあります。だから、彼が嘲笑するなら、わかるのです。

 でも、私が感じたのは、人間臭い、善なるカリオストロ像だったわけで。

 曲も、無理にサビを作ろうとして、かえって焦点が定まらなくなっているような感触でした。歌い手にはものすごく負担を強いているのがわかります。でも、クドすぎるような・・・。

 歌詞も曲も、空回りしているように思いました。

 今回、この新曲を追加したのは、演出の栗山さんにとっては苦渋の選択だったんだろうなと思いました。去年の帝劇公演。栗山さんの描く世界は、私の好きな世界ではないけど、でも、描こうとしている全体像はなんとなくわかりました。

 それが、凱旋公演はこのカリオストロの新曲によって、見事に分断されている。

 なにもかもが、中途半端な舞台になってしまったように思いました。カリオストロのキャラクターが崩れたら、舞台全体がバラバラになる。結局なにが言いたいのか、無秩序な世界です。

 栗山さんの最初の構想の中に、そもそもカリオストロはいたのでしょうか?

 私は、いなかったのだと思います。それを無理に入れたのが、去年の帝劇公演。そして凱旋公演の目玉として、さらにカリオストロの新曲を追加することになった。新曲追加によって、手直しすべきところがあちこちにでき、手直ししたところが更に、手直しを必要とし・・・・。池に小石を投げ込んだときのように、波紋が次々に広がって、収拾がつかなくなってしまったように感じました。

 凱旋公演では、オルレアン公が高嶋政宏さんから鈴木綜馬さんに。フェルセンが井上芳雄さんから今拓哉さんに変わりました。

 私より一足早く観劇した友人から、「凱旋の方がいい感じだよ~」と聞いていたのですが、私はどちらの役も、以前の配役の方が好きですね。

 鈴木綜馬さんには、高嶋オルレアン公のような、ゾッとする厭らしさがなかったのです。高嶋さんが演じたオルレアン公には、腹黒さがありました。狂気も、ねっとりと絡みつくようなドロドロした感情も、高嶋オルレアン公の方が上だったような気がします。

 高嶋オルレアン公の、アクの強さ。歌いだすと、すぐにわかりましたもん。個性の強さは、他を寄せ付けなかった。そのくどさがないと、物足りないです。

 今拓哉さんのフェルセンは、普通にいい人でした。ただ、普通すぎて、目立つものがなかったような気がします。井上芳雄フェルセンは、まぶしいほどの若さで、そのまっすぐな気持ちが光ってました。

 私は、井上フェルセンの方がいいなあと思いました。泣くシーンはちょっとやりすぎだったと思いますが(それも演出の指示?)、マリーを愛する気持ちは客席によく伝わってきたから。

 そして、その真っ直ぐ過ぎる、少し強引なほどの純粋さに惹かれるマリーの気持ちも、なんだかわかるような気がしたのです。

 個性があること。埋没するのではなく、その人独自の、光るなにかを持つこと。やっぱり舞台を見ていて思うのは、どんな役でもなにか、訴えかけるものを持った役者さんがいいですね。

 今回、マルグリット役は新妻聖子さんでした。そのパワフルな歌声を十分に堪能しました。ただ、マルグリットという役は、あまりにも感情の振れ幅が大きくて、まるで二重人格のように思えてしまいます。

 憎しみ→同情→憎しみ。心が揺れる、というよりも。まるで、別人格の人間が、場面ごとに現れているようです。心が揺れながらも、一定の方向に収束していくという方向で描けば、終盤に向けて盛り上がっていくと思うのですが。

 見ていて、「いったい何がしたいの?あなたは」と聞きたくなってしまいました。これも、脚本・演出の問題なんでしょう。

 役者さんたちの熱演は十分にわかるのに、脚本と演出がバラバラな感じで、とても勿体無いと思いました。こんなに力のある役者さんが揃っているのに、その力をまとめられないなんて・・・。一流の音楽家が揃っているのに、指揮者がいないオーケストラみたいです。

 場面場面を切り取ってみれば、それぞれ、いい感じなんです。でも全体の流れ、方向性が定まらない。だから、終わってみても、結局なにを訴えたい舞台だったのか、わからないまま。

 石川禅さんの演じるルイ16世は、秀逸でした。この味は、石川さんにしか出せないもののような気がします。人のよさを十分に感じさせる声。望み通り鍛冶屋に生まれたなら、どんなに幸せだったろうと思わせる、温厚な雰囲気。

 マリーによせる愛情も、愚かさも。すべてが魅力的でした。

 その分、フェルセンとマリーのラブシーンは、げんなりでしたが。ここは相変わらず、しらけました。うーん。マリーは絶対、夫亡き後、子供たちの前でフェルセンと熱いキスなんてする人じゃないと思うんだけどなあ。

 以前のマリーならともかく。逃げずに、国王と運命を共にすると決めたあのときから、王妃としての自覚、母としての決意はあったと思う。こういうところの脚本・演出が不満です。

 今回、初めて2階のB席で観劇しました。去年の帝劇MAは、2回とも1階のS席での観劇でしたが、1階で見るよりも2階の方が舞台全体が見渡せてよかったです。ライティングが工夫されているのも、上から見たほうがよくわかります。

 2幕の残酷なシーンも、2階からなら落ち着いて見られますし。1階にいると、結構ドキドキしてしまうのです。この作品は、1階よりも2階の観劇がお勧めだなあと思いました。

『マリー・アントワネット』観劇記 その6

 帝国劇場で凱旋公演中の、『マリー・アントワネット』を観劇してきました。以下、ネタバレを含んだ感想ですので、舞台を未見の方はご注意ください。

 博多、そして大阪での公演を経て、再び東京へ帰ってきたこの舞台。カリオストロの新曲も加わったということで、どんな曲かな?と、期待半分・心配半分の気持ちで行ってきました。

 新曲「ILLUSION−或いは希望−」の感想は・・・・。

 はっきりいって、がっかりでした・・・・。正直、この曲が入る必要性を、全く感じなかった。なぜここでカリオストロがこの曲を? しかも歌詞の意味がよくわからない。

 人間たちを、実験材料にして操る不思議な存在、カリオストロ。

 人智の及ばぬ世界に生きている、超越的な雰囲気が魅力だったのに、この先のことは自分にもわからない、みたいなことを歌っていて。

 わからないならわからないで、それを楽しむ不敵なところがあればまだいいのですが、なんだかとても「人間的」になっていたような。

 カリオストロが、ごく普通の人間的価値観で動くようになったら、面白くもなんともないんじゃないかと思いました。

 真剣に考えましたよ。

 この作品に、果たして彼は本当に必要なのかと。カリオストロも、運命の神の手先に踊らされる小さな存在だとしたら、カリオストロがカリオストロである存在理由はなんなのかと。 

 この舞台の中で、あまりにも浮いた存在になっていたような気がします。

 折々に、ちらりと姿をみせては人間たちを操るようなしぐさを見せるのに。あれは一体なんだったんだろう。今までの存在理由を、自分で全否定するような「新曲」だったような気がしました。

 聞けば聞くほど意味不明な歌詞は、とてもクンツェさんの作とは思えず・・・。あのダンス・オブ・ヴァンパイアの見事な吸血鬼像を描き出した人と、同一人物? 哲学も、深みも感じませんでした。

 曲に関しては、難しい曲だなあと思いました。それも、張り上げる系の箇所が後半たくさんあって、喉への負担が大きそう。

 無理に見せ場を作ろうとして、たくさん並べてみました・・・みたいな。

 名曲ならともかく、あの歌詞で、あの曲で歌うのは・・・・歌い手が可哀想だと思いました。これは別に私が山口ファンだから言うのではなく、誰が歌っても同情したと思います。負担が大きいわりに、心に響かないから。そのことは、歌ってる本人が、一番わかっているのではないかな、と思いました。

 とりあえず今日はあまりにも脱力してしまったので、この続きはまた後日。

マリー・アントワネットを自分が演出するとしたら(妄想篇その3)

 前回の続きです。舞台『マリー・アントワネット』のネタばれを含んだお話ですので、舞台を未見の方はご注意ください。

 後、気になるのは、最後のギロチンの場面。巨大なギロチンと、血のりを連想させる赤い塗料。これはあまりに不気味すぎるし、その下に横たわったマリーの姿も生生しくて、観劇後の気分が真っ暗になる。

 そのものずばりを舞台上に再現する必要は、あるのだろうか? たぶん、衝撃の大きさを観客に伝えようとしてのことだろうが、あまりにも残酷すぎるように思う。

 私だったら敢えて、ギロチンの刃は使わないだろうなあ。処刑台に向かう、後ろ姿で終わる、とか。後は想像力におまかせします、みたいな感じにしてしまうかも。刃や、そこに横たわるマリーの図は、見る側がきつい。ショッキングすぎるように思うから。

 それよりも、宮殿のパーティーシーンをもっと華やかにできないのだろうか。見ている側が、うきうきしてくるような楽しげな宴ならよかったのに。衣装が、地味に感じてしまった。娼館の女性たちの衣装の方が、派手だったような気がする。

 もちろん、高貴な衣装だからこそけばけばしい色合いを使わないという理屈もわかるのだが、それにしても。

 マリー・アントワネットというタイトルから、華やかな舞台を想像して見に行く観客も多いと思うので、もし私が演出するならもう少し、貴族たちの衣装を濃い色にすると思う。

 そして、その中でも主役のマリーは特に、目立つようにしたい。遠くから見ても一番目をひくように。

 民衆の場面は逆に、茶色や黒で統一して、その落差を強調する。華やかな世界を支える民衆の、虐げられた生活。その代表となるマルグリットの悲しみや怒りは、2つの世界の落差が大きければ大きいほど、観客の胸に迫ると思う。

 私は、『エリザベート』より『マリー・アントワネット』の音楽の方が好きだ。「幻の黄金を求めて」や、「100万のキャンドル」「すべてはあなたに」が特にお気に入り。今挙げた3曲のうち、後ろの2曲は東宝の公式HPで聴ける。

 『エリザベート』があれだけ人気なのに、どうしてMAはいまいち受けが悪いのだろうかというと、やはり、演出と脚本に改良の余地があるからじゃないかという気がしてならない。

 「すべてはあなたに」なんて、すごく美しくて聴いているとうっとりしてしまう。静かな曲の中に、熱い思いがこめられているのが伝わってくるのだ。井上芳雄フェルセンの熱さが、涼風真世マリーの熱さを若干上回っているところがまたいい。お互いを思う気持ちが均等でなく、フェルセンが追いかける形なところがドラマチック。

 この曲を最大限効果的に使って、マリーとフェルセンの世界を作り上げたら、かなり女性好みの舞台になると思う。

 この公式HPで笹本玲奈さんと新妻聖子さんの歌声を聴き比べてみた。私は断然、新妻さん派である。笹本さんも歌はうまいけど、爆発するような感情の流れが直に胸に響くのは新妻さんだ。マルグリットという役に、新妻さんはぴったり。

 「その目を逸らすなら神の天罰を」と歌う純粋さ。なんの迷いもないその正義感がそのまま、強いエネルギーになって体全体からあふれだす。マルグリットはそういう女性だと思うし、そういう女性だからこそ、この物語が成り立つのだ。

 帝劇の凱旋公演で、カリオストロの新曲が追加されると発表されて数日。私の周囲の山口祐一郎ファンはみんな、怒っている。怒りながら、それでもチケットを追加しようと考えている(苦笑)

 私もそうだ。実は凱旋公演には行かないつもりだったが、追加曲があるなら1度は行こうと思い直した。

 怒っているのは、広告に「山口さんが歌うならあなたたち買うんでしょ?」的なメッセージを感じたから。否定はしないけど、(実際私は、追加曲があるからこそチケットの購入を決めたわけだし)やはりいい作品を見たいのですよ。急に追加なんて、それで作品全体のバランスはどうなってしまうんだろう?

 もともとお休みだったところにお稽古が入るのも気の毒だし、全体的なバランスを考えたら不安の方が大きい。全体的に変更があるとしたら、山口さん以外のキャストも休日返上でお稽古するだろうし、全員の日程が確保できるんだろうか?

 山口ファンの友人は、演出の栗山さんに不満をもらしていた。でも私は、栗山さんというよりも東宝に対して、もうちょっとうまくやってほしかったなあと思った。だって、栗山さんには栗山さんの世界観があると思うのだ。なにも、駄作を作ろうと思ってやっているわけではない。栗山さんの考える最高の舞台が、今回のMAだったわけで。100人いれば100人のセンスがあるし、それはそれでいいと思う。

 ただ、なるべくたくさんの人の共感を呼ぶ、また来たいと思わせる舞台という意味では、今回はちょっと、向いてなかったのかも。

 せっかく日本発のミュージカルということで、構想期間が長かったのなら。もう少し慎重に作れなかったのかなあと思う。プレビューを設けて、お客さんの反応やアンケートを見ながら改良する時間を用意しておくとか。

 音楽も素晴らしいし、描こうとする世界も普遍の真理。日本を代表する素晴らしい俳優がそろっているんだから、もっともっと、いい作品にできたんではないだろうか。もったいない気がする。

 そして私は複雑な思いを抱えながら、なんのかんの言いつつも結局、凱旋公演には行くのである。ただし、1回ね。もしいい舞台だったら、またチケットを追加するかもしれない。去年の帝劇を上回る、素晴らしい舞台に進化していることを、祈っている。

マリー・アントワネットを自分が演出するとしたら(妄想篇その2)

昨日の続きです。舞台『マリー・アントワネット』のネタばれを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

アントワネットをどう描くかというのは、主人公でもあるわけだから、一番重要になってくると思う。私がMAをあまり好きになれなかった一因は、主人公のアントワネットに共感するところが少なかったから。特に、あのフェルセンとの熱いキスはドン引きだった。

 宮殿に民衆が押し寄せてきたシーン。恐怖を感じたアントワネットが子供たちを連れてその場を逃げ出そうと、ルイ16世に脱出を促したとき、彼は「逃げるならあなたたちだけで行けばいい」というようなことを言った。そのとき私は、当然アントワネットが、「あなたには私たちを守ろうとする気持ちがないのね」とヒステリックにわめくんだろうなと予想した。

 だけど、アントワネットは静かに、「わかりました。あなたに従います」というようなことを言って、なんの文句も言わずに、静かに王様に従ったのよね。

 このとき私は、静かな感動を覚えたのです。アントワネットを見直した、といってもいい。そりゃ、心から愛せる夫ではなかったかもしれないが、彼は一国の主。そして、家族の長。死を賭けた究極の場面で、一国の王妃として、王に従う決意をした彼女。

 泣き喚いて、彼の品格を貶めるようなことはしなかった。

 このとき初めて、本当の夫婦になれたんじゃないか、という気がしたのです。

 な・の・に。その後、ルイ16世がギロチンで処刑され、牢獄で子供たちと囚われの生活を送っていたとき。救世主のごとくあらわれたフェルセンに、すがりつき抱き合い、熱いキスを交わした。私はこの場面、がっくりしました。

 これで、すべてが台無しになってしまった。

 私が演出するなら、フェルセンの顔を見て走り寄り、抱きつこうとする寸前でマリーの足を止めさせます。理性の力で、必死に自分を自制するマリー。

 震える声で、「ありがとう。子供たちの命を助けたいの。どうか力を貸してください」そういって、フェルセンに泣きそうな顔で必死に微笑んでみせたら。もっと泣ける場面になると思うのです。

 フェルセンも、観客も、マリーがすがりつきたい気持ちをわかってる。でもマリーは決して、フェルセンに抱きつくことも、泣き出すこともしない。

 彼女はフランスの王妃。もう、自分の恋心など、心の奥底に閉じ込めてしまった。フランス王妃として、そして母親として、王位を継ぐ子供たちの命を助けることだけを考えている。その威厳が、舞台上では痛々しく、そして神々しく表現されることでしょう。

 最初は、マリーがなぜ自分の腕に飛び込まないのか、不審げだったフェルセンにも彼女の心がわかり、彼はマリーに向かって優しく微笑む。そしてわざと、他人行儀に、うやうやしく彼女に話しかける。二人の身分の違いを、自分に言い聞かせようとでもするように。そうすることが、フェルセンにとって精一杯の思いやり。マリーも察して、あくまでも王妃としての威厳を崩さない。

 こうすることによって、悲劇の度合いは高まると思うし、マリーに共感できるのではないでしょうか? 自分の子供が見ている前で、恋人と熱いキスを交わすなんて、考えられません。あのキスを見てしまうと、その後いくらマリーが裁判でひどい言葉を浴びせられ、処刑されることになろうと、どこか冷めた気持ちで見てしまうのですよね。

 マリーという女性の一生を考えたとき、ひとつの流れができるような。なにも知らない無邪気な少女時代。贅沢を当然と思い、マルグリットの憎悪に火をつけたあのシャンパンかけ事件。そしてフェルセンとの恋。

 悪い人ではない夫。だけどどうしても好きにはなれない。政略結婚。

 少しずつ心がフェルセンに傾き、2人で歌った悲しい歌。どうして自分は王妃なのか?王妃でなければ自由なのに。だけど、2人が愛し合うのは罪だとわかってる。

 革命の嵐の中。マリーは自分が王妃であること。夫が王であること。その意味をようやく理解し、その運命に真正面から立ち向かったのではないでしょうか。だから、あのとき、ルイ16世の言葉に従って宮殿にとどまった。あのとき、フェルセンとの恋は死んだのだと思う。私なら、そう解釈します。いつまでも少女時代の夢を追いかけてはいない。時間がたてば、人は大人になるのです。

 処刑前の法廷で、子供を虐待したと裁かれたときに毅然と否定したマリーの姿。涼風真世さんの熱演に、観客からすすり泣きの声が聞こえたのを覚えています。それがもし、フェルセンとのキスを敢えて拒絶したマリーであったなら。

 子供を守ろうとする母親の姿にもっと、説得力が出たでしょう。

 石川禅さんの演じるルイ16世は、すごくよかったです。悪い人ではない。でもマリーに恋をさせる魅力は全くない。そういう人物像がはっきり表現されていました。だからマリーが、まだ年若く夢見る少女だったマリーがフェルセンに憧れ、恋におちていく過程を、観客は自然なものとして受けとめることができた。

 私だったら、マリーが心ある人たちに連れられ、国内の実情を知るべくひそかに街を歩き回るシーンを劇中に入れますね。

 やっぱり、国内の貧しい人たちの現状を知らなければ、マリーは本当の意味で大人にはなれなかったと思うから。甘い恋うんぬんの前に、その日生きるためのパン一つなく、惨めに死んでいく民衆がいる現実。「王妃さま、これが今のフランスです」と告げられ、言葉をなくしたマリー。その場で劇的な変化はなくても、そういう経験をしたら自分の立場や運命を考えざるをえないと思うから。

 こういうシーンがあってこそ、ここに残るというルイ16世の言葉に、素直に従うマリーの場面が活きてくると思う。

 もう一人の主役、マルグリットについて。一番違和感があるのは、やはり娼婦におちるシーン。生活のために身を売らねばならない状況って、女性にとっては死に等しいのではないかと私は考えます。マルグリットは潔癖そうだし、花売りでなんとか食べていければ身を売るようなことはしないでしょう。食べていけなくても、甘んじて死を受け入れる覚悟はあるような女性だと思うのです。

 そんなマルグリットが、最初は戸惑い、そのうち楽しそうに(そう見えてしまった)踊り、娼婦という仕事を受け入れる。私が演出するなら、ここはもう、絶対に楽しいダンスにはしないですね。むしろ、嫌がり、逃げ出そうとするマリーを容赦なく捕まえ、黒い影が底へ底へ引き入れていく、そんなダンスにします。

 マルグリットは、自分のためというより誰かのため、たとえばお世話になったアニエスが病気とか、年下の子供たちを食べさせるためとか、やむにやまれぬ事情があって、最後の手段として娼婦になるという設定にします。甘い言葉で誘う女衒や娼婦仲間たち、そして実際の仕事の地獄。

 どん底で、華やかなマリーのうわさを聞く。憎悪はますます大きくなる・・・そういう描き方をすることで、二人のマリーの落差がはっきりしてくると思うのです。

 ボーマルシェとカリオストロの位置づけ。私だったら、黒幕のカリオストロ。その周りを陽気に走るボーマルシェ、みたいな感じにします。狂言回しの役は、ボーマルシェでOK。カリオストロは喋ると存在が軽くなってしまうから、場面場面を操る謎の存在にして、不気味な印象を植え付けて。ボーマルシェはときどき、余計なことを喋りすぎてカリオストロににらまれ、慌てて逃げ出す。

 カリオストロはボーマルシェを小さな存在と見ているから、歯牙にもかけず。ボーマルシェは、世渡り上手で、カリオストロを恐れながらもちゃっかりと場面説明を続けて。

 

 そんな感じにしたら、舞台ももっと盛り上がるかなあと思いました。

 長くなりましたので、続きはまた後日。

マリー・アントワネットを自分が演出するとしたら(妄想編その1)

 東宝が制作したミュージカル、マリー・アントワネット、通称MA。

 2006年の11、12月に帝国劇場で上演された。2007年の1月は博多座、2月現在は、大阪の梅田芸術劇場で上演中である。そして4月、5月には、再び東京の帝国劇場へ帰ってきて、凱旋公演となる予定。

 その凱旋公演で、山口祐一郎さん演じるカリオストロ伯が新曲を歌うことになったと発表があった。以下、ミュージカルの内容ネタばれ有で語りますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 私は、去年の12月に帝劇で2回見ただけである。だからあんまり偉そうなことは言えないし、作品の細かいところまではよくわからないのですが・・・・。その2回見た感想としては、「すごく悪くはないけど、特にチケットを買い足してまで見たくはない。絶賛はできない」というところでしょうか。

 見終わって1ヶ月以上経って、思うこと。

 カリオストロ伯爵の存在意義が、よくわからない。すべてを操る存在のわりには、舞台での扱いが軽すぎる。歌も少ない。

 特に、ボーマルシェとの関係性が謎すぎる。

 

 アントワネットが牢獄でフェルセンとキスするシーンが生々しいし、濃厚すぎ。いくら好きな相手だとしても、自分の子供たちの前で夫以外の相手と抱き合うのは、なにか違う気がする。それを見た後で「子供たちのために私は・・・」みたいな母親アピールをされても、嘘っぽく見えてしまう。

 マルグリットが娼婦に堕ちる過程が、唐突すぎる。軽い気持ちで、お金目当てに娼婦になったような印象があって、あまり悲惨さを感じない。

 主な感想としては、こんなところです。

 今度、凱旋公演ではカリオストロ伯爵の新曲が追加されることになったと聞いて、おいおい・・・・と思いました。たしかにMAは、上演前の大々的な宣伝に比べチケットの売れ行きは今ひとつだけれど、だからといって新曲追加? それって、山口さんに歌を歌わせておけばチケットが売れるだろうという考え?

 たしかに山口さんは歌の人だと思うし、その人に歌わせようっていうのは当然の考えだと思うのですが、それって、凱旋公演の前に急きょ練習させるってことですよね? それなら、最初からそういう演出でやってほしかった。

 新曲追加!!と、その言葉が宣伝文句になるのなら、それなりに長い曲になるだろうし、そしたらお話全体を変える必要が出てくるし、そんな時間あるのだろうか? 全体を通して、筋の通った流れになるのだろうか?

 

 梅田芸術劇場の千秋楽が3月5日。帝劇の凱旋公演初日が4月6日。大曲を追加した大掛かりな変更をするのに、十分な日程とは思えない。追加曲のある山口さんだけでなく、その曲を入れたことによって生じる変更点は、全員に関わってくるものになるのではないか? 

 追加曲が、大曲でなければ変更点も少なくてすむだろうけど、それはそれで、宣伝文句に異議有り!ということになる。

 うーん。東宝の熱意が空回りしているような気がしてきた。一生懸命、いい舞台にしよう(チケットを売ろう)という気持ちはわかるけど、逆効果になるんじゃないかと。追加曲か・・・。全体の流れの中で、どういう曲が、どんな風に入るのか今から気になるなあ。

 文句言っているだけというのもどうかと思うので、じゃあ私が演出の立場で自由に変更できるとしたら、どうするかというのを考えてみた。

 まず、カリオストロにもう少し存在感をもたせる。そのためには、もう少し舞台上で目立つようにさせるかな。神出鬼没ということで、今でもよーく見ると、いろんな場面でひっそり出演してるみたいだが、正直、私が見たときは気づかないところが多かった。後から友人に、「あそことか、あそこに出てたんだよ」と言われて、「えーーー!!見たかったけど全然気づかなかった」と悔しがったものです。

 もう少し目立っていいと思う。舞台の真ん中で物語が進行するとき、脇にも数秒間明るいライトを当てて、「傍観するカリオストロ」をアピール。そうすれば、すべてを操っていた的な存在として、観客が理解しやすいと思う。

 MAは、歌自体はいいものが多いのだ。カリオストロの歌もそう。「幻の黄金を求めて」とか、「七つの悪徳」。名曲だと思った。無理やり曲数を増やさなくても、話の流れの中で心を打つ曲が一つでもあれば、観客はリピーターになるんじゃないかと思った。

 ちょっと長くなりましたので、続きはまた後日。