『マリー:アントワネット』観劇記 その5

 帝国劇場で上演されていた『マリー・アントワネット』の感想です。以下、ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 『マリー・アントワネット』で好演だなあと思ったのが、オルレアン公の高嶋政宏さん。悪役っぷりが板についてました。特に、マルグリットが偽のお金をつかまされて、パーティーに乗りこんでいくところ。

 「お嬢さんを騙すような人はここにはいませんよ」みたいなことをオルレアン公が言うわけですが、そのときの言い方が、慇懃無礼で。いかにも、腹に一物のある人物という感じでした。

 野心、知恵、教養、そういうものを備えた貴族の、どろどろ渦巻く黒い欲望のようなものが背後に透けて見えるような気がして。

 ハマリ役だなあと思いました。陰惨な雰囲気を漂わせているのが伝わってきました。出てくるだけで、不穏な空気を感じます。

 テレビなどで見る高嶋さんは、とても真面目でいい人そうなのですが、舞台の上だとこんなに変わるんだなあと驚きました。

 ボーマルシェ役の山路和弘さんは、飄々とした感じが狂言回しにぴったり。テンポよく説明してくれるので、聞いていてわかりやすかったです。重いテーマのこの作品を、登場人物でありながら俯瞰している感じで、その距離感がまた、よかったと思います。

 アニエス役の土居裕子さんは、新妻さんとのデュエットシーンがすごく綺麗でした。実力ある二人の、一歩もひかない歌声は、聞いていて心地いいです。実力が均衡している二人だからこそ、遠慮なくお互いのよさを出し合える、という感じがしました。これでどちらかの歌が弱かったら、バランスは崩れてしまう。

 

 ただ、私はこのミュージカルの中の、アニエスの描き方がどうかなあと思ってしまうんですよね。アニエスはマルグリットに影響を与える役のはずですが、見ていて、そんなに大きな影響を与えているようには思えないのです。

 アニエスがいなくても、マルグリットの行動はそれほど変わらなかったような・・・。マリーに対する憎悪が変化していくのは、マリーが自分の目でいろんなものを見、感じ、考えた結果であり、そこにアニエスが介在していたかどうか・・・。マリーにとって、アニエスがキーパーソンになるようなエピソードがもっとあればよかったのになあと思いました。

『マリー・アントワネット』観劇記 その4

 帝国劇場で上演されていた『マリーアントワネット』観劇記です。ネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

 さて、今日は山口祐一郎さん演じる「カリオストロ伯」を中心に語ろうと思います。私は正直、MA(マリー・アントワネット)ってあんまり期待してなかったのですね。山口さんのファン仲間から聞こえてくる評判が、イマイチで。

 いいよーって言ってる方もいたのですが、どちらかというと、悪い話の方が多くて。そうか、そんなによくないのか・・・と。千秋楽間近なら、最初の頃に比べたらカンパニーもまとまってるだろうし、きっと役者さんたちの「答え」みたいなものが出てるはず、と思い、いざ帝劇へ。

 幕が上がって、ヒーリングミュージックのような不思議な音楽が流れる中、白いライトに照らされる影。おおー、山口さんではないですか!

 マントの影、ライトの白、幻想的な空間が広がっていて、ワクワクしました。さあ、これからどんな魔法が見られるのだろうと。すべてはカリオストロの手中の出来事、というのを暗示するにふさわしい演出だったと思います。

 それに比べて、終わり方(ニ幕の最後)は、よくなかったですね。それまで、要所要所に必ずカリオストロが登場して、パワーを誇示していたのに、なぜ一番最後がカリオストロで締め、とならなかったのでしょうか?

 マリーの処刑というショッキングな空気を壊さないため、その衝撃を観客にじっくり味わってもらうため、だったのでしょうか? それにしても、筋が通っていないというか、ああいう終わり方だとカリオストロの存在意義が、薄くなってしまうと思います。最後こそ、カリオストロの登場で締めてほしかったなあと。

 最後をカリオストロの登場シーンにすれば、その間に涼風さん演じるマリーは着替えて、カーテンコールでは華やかな衣装で登場することもできますよね。カーテンコールでは、きれいなマリーアントワネットが見たいです。華やかな衣装に身を包み、こぼれるような笑顔の幸せなマリーを。

 それが、救いになると思います。集団で暴走することの怖さ、人間の狂気などを描いているこの作品。重くなるのも、暗くなるのも作品としてアリだとはおもうのですが、どこかに息抜きというか、救われる部分がないときついです。

 友人から、「ボーマルシェとカリオストロ伯の存在が重なる。狂言まわしの役はボーマルシェだけでいいかも」なんてことを聞いたのですが、私はそうは思わないです。ボーマルシェのおしゃべりは面白いし、あれだけの説明をカリオストロ伯がやれば、存在の重厚さが失われてしまう。カリオストロは黙っていることで威厳を保つのです。

 見どころは、山口さんのダンスシーン。ゆらゆら、ステップを踏んでいるシーンがあって、「おお、山口さんが踊ってる・・・」という新鮮な驚きがありました。劇中では、常にゆったりとした動きで、体全体が優雅に流れていくようで、美しかったです。

 途中、2階のバルコニー?のようなところに立っているシーンは、うっとりでした。逆光の中、浮かび上がった姿、その動きの滑らかなこと。スモークをたいていたのでしょうか。それが光に映えて、本当にきれいでした。別世界に迷い込んだような不思議な感情に、胸を打たれました。

 「幻の黄金を求めて」の歌、いいですね。第一声の「この手は鉄を金に変えうる」を聴きながら、やっぱり山口さんはいいなあとつくづく、その歌声に酔いしれたのでした。声そのものに力があるというか。

 しばらく聴いていなかったその歌に触れて、大げさかもしれないのですが、体中の細胞が呼吸を始める感じです。

 なんというタイトルの歌かわかりませんが(すみません、パンフレットは買いませんでした)「~風が叫ぶ、空が揺れる~」という歌詞の歌もありまして、そのときの、体全体を楽器にして絶唱している山口さんも素敵でした。客席に向かって胸を開くようにして、どうだとばかりに歌うのです。歌い上げるときにみせる、体を揺らす独特の動き。今回は、見事に曲とマッチしてました。その動きも、曲の一部です。ああいう体勢で歌う山口さんを見たのは、初めてのような気がします。

 当たり前かもしれませんが、レ・ミゼラブルのバルジャンとも違うし、ダンス・オブ・ヴァンパイアのクロロック伯爵とも違う。そして誰もいなくなった、のロンバートでもなければ、エリザベートのトート、そしてモーツァルトのコロレドとも違う。

 新鮮でした。

 いきなり高い音から入るような歌もあったのですが、山口さんは相変わらず、なにごともなかったかのように、平然と歌っていまして感動でした。あれ、いざやってみろと言われたら、相当難しいと思うんですが。音程がぶれたりしないのはさすが、プロですね。

 黄色い旗を振るシーンは、少し滑稽な気がしました。どうしても、交通指導的なものをイメージしてしまう。横断歩道、そして小学生。とっさに頭に浮かんでしまうのです。

 一幕は大満足でしたが、ニ幕はカリオストロの存在が薄くなっているような気がして残念でした。もう少し、ニ幕における彼の存在を重くしたら、舞台全体が引き締まったのではないかと思います。

 山口さんに関する感想は以上です。長くなりましたので、観劇記の続きはまた後日書きます。 

『マリー・アントワネット』観劇記 その3

 帝国劇場で上演された『マリー・アントワネット』の観劇記です。ネタバレ含んでますので、未見の方はご注意ください。

 涼風さんの演じるマリーで気になったのは、フェルセンからもっと民衆の声に耳を傾けるようお説教される場面。「なんで私が・・・」という感じで反発するとき、女王様っぽい怖さがあるのです。大人の女性、という感じ。

 マリーの幼さ、子供っぽさが出るといいのになあと思いました。

 「理屈なんてわかんない。難しいことなんてわかんない。愛しいフェルセン、私だけを見て。つまらないことで私をわずらわせないで。楽しくておもしろいことだけを二人で見ていましょうよ」

 

 こんな台詞が実際にあったわけではありません。私の想像です。マリーは元々、そういう人だったんだろうなあと思うのです。たとえばマルグリットにシャンパンをかけてしまったことも、彼女にとってはほんのいたずら心。やられた方はたまったものではありませんが、おそらくマリーにとって、軽い冗談のつもりだったはず。

 

 だからあの場面で、低く大人びた声だと怖い感じがしてしまって、違和感があります。子供っぽくすねてみせたほうがいいのでは?と思いました。

 あと、「こんな別れ方は・・・イヤ」だったかな? その台詞の言い方がすごく、不自然な感じがしたんですよね。これはたぶん演出の指示だと思うんですが、ここはもう少し、他の言い方にした方がいいんじゃ?と思いました。

 子供達を連れて宮殿から逃げ出そうとして、ルイに反対される場面。今までのわがままなマリーなら、「わかりましたっ!!じゃあ私たちは行きますからあなたは残ればいいのよっ!!」とヒステリックに叫びそうですが、静かにルイと共に残る選択をしたことに、驚きと感動をおぼえました。

 とっさに、「エリザベート」のことを思ってしまいましたよ。

 エリザベートより、よほど好感がもてます。

 子供たちを守るためマリーは必死だったし、いざというときには夫、ルイに従ったのですから。

 

 後半、マリーにとっては苦難の日々が続きますが、観客として見ている方も感情移入してしまって、つらかったです。息子と引き離されるシーンでは、私の周り、あちこちからすすり泣きが・・・。それくらい、真に迫る演技だったのですよね。子供の悲鳴、マリーの叫び。

 髪もすっかり白くなったマリーが、フェルセンと再会するシーン。抱擁だけでなく、熱烈なキスも交わすのですがこれが生々しくて、見てる方が恥ずかしい(^^;ここで、キスする必要性を感じないですね。

 実際どうなんだろう。思いがけず恋人に再会した瞬間。

 マリーなら、キスうんぬんより、ただ抱きついて、泣き崩れるような気がするのですが。子供のように、フェルセンの胸にすがってただただ、泣き続け、その胸で安心感を得ようとするのではないでしょうか。自分の子供達がいる前で、恋人同士のような濃厚なキスをするという光景には、違和感をおぼえました。

 

 長くなりましたので続きは後日。

 次は、山口さんが演じたカリオストロの感想を書こうと思います。

『マリー・アントワネット』観劇記 その2

 12月24日ソワレ。帝国劇場で上演中の『マリー・アントワネット』を見てきました。以下、感想ですが、ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 

 二日連続での観劇です。そして、早くもマイ千秋楽(私が見に行くのはこれが最後)であります(^^;本当は、初日を含め3枚チケットを持っていたのですが、初日の1枚は人に譲ったので、結局2回見に行くことになりました。

 まず、2日間見た上で、どう違ったかを書きたいと思います。

 2日目(24日ソワレ)の方が、物語に入り込んでじっくり鑑賞できました。マルグリット役、新妻聖子さんの千秋楽ということもあるのでしょうが、舞台の迫力が凄かったです。

 「100万のキャンドル」「心の声」いい曲ですね。

 新妻さんの、体の奥底から搾り出すような声に、よく合っていると思いました。「100万のキャンドル」の時には、なんだか自分が責められているような気さえしました。

 今の日本、そして自分の生活はとても恵まれたものだから。その日を生きるのに精一杯な状況の人たちも、この世界にはたくさんいる。帝国劇場周辺、丸の内仲通りなどはちょうど、クリスマスのイルミネーションで本当に綺麗に飾り付けられていて。とっさに、キャンドルという言葉がそのイルミネーションの情景と重なりました。おいしいものを食べ、きれいな洋服を着て、ただそれに満足するのではなく、なにか自分にできることはないだろうかと。

 大げさなことはできなくても、自分の周囲を見回してできることから始めようと。そんな気持ちになりました。

 私は、マルグリットが好きです。共感できるキャラクターですね。彼女がマリーに対して憎しみの炎を燃やす気持ち、よくわかります。何一つ持たない自分が眺めた、壮麗な花嫁行列。惨めさ、羨望。

 きっと、フェルセンのことも好きだったんでしょう。まったくの身分違いだし、憧れのような淡い気持ちだったとは思いますが。そこのところをもっと強調して描けば、舞台がもっとドラマチックになったのでは?と、ちょっと残念にも思いました。マルグリットがフェルセンに惹かれる描写があれば、さらに、マリーへの嫉妬もあって感情は激しく乱れたはず。

 この、マルグリット→フェルセンの恋の描き方が弱いために、マリーが出した手紙をめぐる3人の攻防(フェルセン、マルグリット、アニエス)が少し単調になってしまったような。

 革命という大義とは別に、個人的な感情に揺れるマルグリットも見てみたかったです。手紙を渡したくない理由の中に、2人に対する嫉妬が見え隠れしたら・・・。自分でも無意識にフェルセンを求め、マリーに嫉妬するマルグリット。

 ただの意地悪な娘でなく、怒りで盲目になっているだけでもなく、人間的な優しさをちゃんと持ち合わせているマルグリットだからこそ、いいなあと思いました。暴走していく民衆に、必死に本来の目的を説いてまわったり。

 最終的には、マリーに同情しているマルグリット。憎んでいたはずなのに、マリーの悲惨な状況に心を動かされて、逆に民衆の狂気に苛立つ。

 続きはまた後日書きます。

『マリー・アントワネット』観劇記 その1

 12月23日ソワレ。帝国劇場で上演中の『マリー・アントワネット』を見てきました。以下、感想ですが、ネタバレを含んでいますので未見の方はご注意ください。

 周囲の評判がかなり悪い作品なので、覚悟して見に行きました(^^; 最初からあまり期待していなかったのがよかったのか、思っていたよりはよかったのですが、見終わった後の気持ちが・・・・。

 暗いですね。

 仕方ないんですけどね。マリーアントワネットがギロチンで処刑されたのは事実だし、そこに至るまでの民衆の憎悪を描くことには、意味があったと思いますし。

 ただ、最後のシーン。大きなギロチンの刃が真っ赤なことが、あまりにも生生しかった。横たわったマリーの体の上に落ちてくる、巨大な刃物。

 カーテンコール。登場人物が次々と紹介される中、マリー役の涼風真世さんはずっと横たわったままで・・・・。あれ、どうなんでしょう? いったん舞台が暗転したときに、さっと退場して綺麗なドレスで再登場すればいいのに・・・と思ってしまいました。その方が、観客の気持ちは救われるのですが。

 たぶん、横たわったままのマリーを、最愛の人フェルセンが、そして憎んでいたはずのマルグリットが助け起こし、2人が両脇を支えるようにして歩いてくる、そしてマリーが観客の喝采を浴びるという一連の流れが、計算されているとは思うのですが、それにしても。

 痛々しいのですよ。物語が一度終わって、登場人物がカーテンコールで次々に挨拶(お辞儀)する中、舞台の奥で、横たわったままのマリー。舞台の魔法がとけても、まるで彼女だけは現実に死んでしまっているようで。そこだけ、覚めない夢のようで、思わず凝視してしまいました。マリーのことが気になって、他の人にあまり目がいかなかった。

 マルグリット役の新妻聖子さん。大熱演です。

 この方は、以前から気の強い役が似合うなーと思ってましたが(レミゼのエポニーヌなど)、マルグリットはハマリ役です。運命に泣くだけでなく、立ち向かう強さが全身からあふれて、心に響きました。声量があるから、説得力があります。

 脚本というか、演出というか、マルグリットの描き方には疑問が残りましたね。スミレ売りから、娼婦にならざるを得なかった必然性が不明。スミレ売りでも食べていけたのでは?と思ってしまった。

 嫌がりながらも、あっさり娼婦になってしまったように思えたので、マルグリットの悲しみが浅く感じられたのです。本当は、本人の意志とは関係なく運命に翻弄される悲しさがあるはずなのに。スミレ売りのときの困窮ぶりを、もっと強調してもよかったのではと思います。それがないから、娼婦に堕ちるまでの流れが、不自然。

 それと、ラパン夫人との交流も足りない。ラパン夫人が公開処刑されたことが、マルグリットの憎悪に火をつけるわけですから、そこらへんをもう少し描いてほしかった。マルグリットがラパン夫人に心を開き、そして信頼を寄せていく。その過程があって初めて、あの処刑後の、復讐の誓いが真にせまるのでは?と思います。

 マリー・アントワネット役の涼風真世さん。新妻さんと同じく、歌がいいですね。革命後、子供たちを守ろうと必死になり、強くなろうとする姿が印象的でした。パーティーに明け暮れていたときの子供っぽさが消え、まさに大人の女性、母の姿。声が少し低めなので、そこがまた、迫力があってよかったです。

 ただ、フェルセンと愛を語るのには少し、大人すぎるような気がしました。物語前半部の、無邪気でわがままなマリーを演じるには、大人っぽすぎるかなあと。

 なぜフェルセンがマリーに惹かれたのか。

 それは、マリーの無邪気さ、幼さだったと思うのです。マルグリットにシャンパンをかけたシーン。普通なら、ドン引きですよね。いくら愛してる人でも、そういう面を見たら普通は、気持ちが引いてしまう。だけどフェルセンは、マリーを愛し続けた。マリーの代わりに、こっそりマルグリットに詫びた。何故か。

 それは、マリーの行為は非道ではあったけれども、彼女は幼く、愚かであったから、それをフェルセンはわかっていたからだと思うのです。

 本当に意地悪というわけではなく。本当に心がねじれた人間ではなく。無邪気ゆえの傲慢というのか、あまりにも恵まれすぎて、人の痛みがわからない。それを諌める人もいない環境。やんちゃな女の子のわがままっぷりをフェルセンは愛した。

 涼風マリーだと、声が大人すぎて、その未成熟なところが見えないのですよね。分別のある女性に思えてしまう。だから、フェルセンが惹かれる気持ちがよくわからない。

 

 続きは、また後日書きます。