『マリー・アントワネット』観劇記 その1

 12月23日ソワレ。帝国劇場で上演中の『マリー・アントワネット』を見てきました。以下、感想ですが、ネタバレを含んでいますので未見の方はご注意ください。

 周囲の評判がかなり悪い作品なので、覚悟して見に行きました(^^; 最初からあまり期待していなかったのがよかったのか、思っていたよりはよかったのですが、見終わった後の気持ちが・・・・。

 暗いですね。

 仕方ないんですけどね。マリーアントワネットがギロチンで処刑されたのは事実だし、そこに至るまでの民衆の憎悪を描くことには、意味があったと思いますし。

 ただ、最後のシーン。大きなギロチンの刃が真っ赤なことが、あまりにも生生しかった。横たわったマリーの体の上に落ちてくる、巨大な刃物。

 カーテンコール。登場人物が次々と紹介される中、マリー役の涼風真世さんはずっと横たわったままで・・・・。あれ、どうなんでしょう? いったん舞台が暗転したときに、さっと退場して綺麗なドレスで再登場すればいいのに・・・と思ってしまいました。その方が、観客の気持ちは救われるのですが。

 たぶん、横たわったままのマリーを、最愛の人フェルセンが、そして憎んでいたはずのマルグリットが助け起こし、2人が両脇を支えるようにして歩いてくる、そしてマリーが観客の喝采を浴びるという一連の流れが、計算されているとは思うのですが、それにしても。

 痛々しいのですよ。物語が一度終わって、登場人物がカーテンコールで次々に挨拶(お辞儀)する中、舞台の奥で、横たわったままのマリー。舞台の魔法がとけても、まるで彼女だけは現実に死んでしまっているようで。そこだけ、覚めない夢のようで、思わず凝視してしまいました。マリーのことが気になって、他の人にあまり目がいかなかった。

 マルグリット役の新妻聖子さん。大熱演です。

 この方は、以前から気の強い役が似合うなーと思ってましたが(レミゼのエポニーヌなど)、マルグリットはハマリ役です。運命に泣くだけでなく、立ち向かう強さが全身からあふれて、心に響きました。声量があるから、説得力があります。

 脚本というか、演出というか、マルグリットの描き方には疑問が残りましたね。スミレ売りから、娼婦にならざるを得なかった必然性が不明。スミレ売りでも食べていけたのでは?と思ってしまった。

 嫌がりながらも、あっさり娼婦になってしまったように思えたので、マルグリットの悲しみが浅く感じられたのです。本当は、本人の意志とは関係なく運命に翻弄される悲しさがあるはずなのに。スミレ売りのときの困窮ぶりを、もっと強調してもよかったのではと思います。それがないから、娼婦に堕ちるまでの流れが、不自然。

 それと、ラパン夫人との交流も足りない。ラパン夫人が公開処刑されたことが、マルグリットの憎悪に火をつけるわけですから、そこらへんをもう少し描いてほしかった。マルグリットがラパン夫人に心を開き、そして信頼を寄せていく。その過程があって初めて、あの処刑後の、復讐の誓いが真にせまるのでは?と思います。

 マリー・アントワネット役の涼風真世さん。新妻さんと同じく、歌がいいですね。革命後、子供たちを守ろうと必死になり、強くなろうとする姿が印象的でした。パーティーに明け暮れていたときの子供っぽさが消え、まさに大人の女性、母の姿。声が少し低めなので、そこがまた、迫力があってよかったです。

 ただ、フェルセンと愛を語るのには少し、大人すぎるような気がしました。物語前半部の、無邪気でわがままなマリーを演じるには、大人っぽすぎるかなあと。

 なぜフェルセンがマリーに惹かれたのか。

 それは、マリーの無邪気さ、幼さだったと思うのです。マルグリットにシャンパンをかけたシーン。普通なら、ドン引きですよね。いくら愛してる人でも、そういう面を見たら普通は、気持ちが引いてしまう。だけどフェルセンは、マリーを愛し続けた。マリーの代わりに、こっそりマルグリットに詫びた。何故か。

 それは、マリーの行為は非道ではあったけれども、彼女は幼く、愚かであったから、それをフェルセンはわかっていたからだと思うのです。

 本当に意地悪というわけではなく。本当に心がねじれた人間ではなく。無邪気ゆえの傲慢というのか、あまりにも恵まれすぎて、人の痛みがわからない。それを諌める人もいない環境。やんちゃな女の子のわがままっぷりをフェルセンは愛した。

 涼風マリーだと、声が大人すぎて、その未成熟なところが見えないのですよね。分別のある女性に思えてしまう。だから、フェルセンが惹かれる気持ちがよくわからない。

 

 続きは、また後日書きます。

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