ドラマ『世紀末の詩』の感想を書きます。以下、ネタばれ含んでおりますので、ドラマを未見の方はご注意ください。
これ、放送されたのは1998年。まさに世紀末の年。
私はリアルタイムでは見ていなかった。野島伸司さんが脚本を書いているということで、もっと過激なお話なのかと思っていたから。
実際には予想を裏切られるほどメルヘンで、そして深いドラマでした。
おとぎ話なのです。一話完結。ですが、全体を通して見るもよし、一話ごとの独立のお話を楽しむもよし。十一話全部のお話に登場する名コンビ、百瀬と亘(わたる)、それぞれ山崎努さんと竹野内豊さんが演じています。二人が、愛について考察していくのです。
最終話では、二人はそれぞれに答えを出します。
愛は冒険(潜水艦)で、風船だと。
冒険っていうのは。危険を承知で、でも旅立たずにはいられない、そういう気持ちを愛に例えているのでしょうか。
愛は衝動的だからなあ。
理性では、説明できない感情の発露だったり。
冒険家っていうと。山登りとか?
どうして登るのかと問われて。そこに山があるからという答えは、有名な話ですね。
登った先に、なにか目に見える凄いものがあるわけではない。命に代えても惜しくないほどの宝が眠っているわけでもない。
なにかが保証されているわけでもないのに。すべてを投げ打ってでも、心の奥底から涌き出る衝動に導かれて、その先にある景色を見に旅立つこと。
劇中で亘は潜水艦で旅に出ました。それは、愛を象徴する冒険なのか。
見返りを求めない。ああ、求めないっていうのは嘘かな。求めるけど、たとえ何が返らなくても、そうせずにはいられない、なにも変わらない。一方的で激しい、感情のうねり。
だから冒険に出かける。とにかく、そうせずにはいられないから。
そう考えると、愛と冒険は共通点、あるかもしれない。
愛は風船っていう例えは。これは儚いという意味で、共通してるのかなあ。空に昇った色とりどりの風船も、いつかは空気が抜けて。落ちてしまうから。
私は、最終話の亘が好きです。
第二話では、他人(コオロギさん)を見下して大笑いするような卑小な側面を持っていた彼が。一話ごとに成長していった末、出した答え。
里見のことは好きで。
厳しい親に育てられて、人の物を盗るなんて一度もしたことがない彼が、結婚式の日にあなたを盗みに行きますなんて宣言しちゃって。まあ、それくらい好きだってことなんでしょうけど、でも結局行かなかったのは。それが彼の出した答え。亘の愛の形。
盗みたいと思っています。でもしませんよ。僕はあなたが、好きだから。亘の胸中を察するに、そういうことなのかな~。
>僕本当にあなたを、さらいに行きますからね。
>ええ、待ってます。
結婚式前夜。上記のセリフのときの二人は、まるでおとぎ話の主人公のようです。疑いを挟む余地など、どこにもないほどに。ただ、幸せなハッピーエンドを信じる童話の王子様、王女様みたいで。
>里見さん。愛の形が見たくありませんか?
>愛の形?
>ええ。明日見せてあげます。
>約束します。
里見を見上げる亘の表情は、とても大人びて見えました。今までとは違う自分になったから? 愛についてまたひとつ深く、悟ったから?
亘はこのとき、もう二度と里見に会うことはないと、決意していたのだと思います。里見にかける最後の言葉。永遠の別れ。
結婚式当日。
>(中略)生涯の愛を、ここに誓いますか?
そこで黙りこみますかっていう、ね(^^;
隣で新郎は、促すように優しく微笑みますけれども。私だったらもうこの瞬間、心の中で愛情がぷつんって、切れちゃってると思う。
要らないよ。誓いの言葉が言えない花嫁なんて。
他の人が好きなら、その人のところに行けばいいじゃないかーと。無理して、妥協で結婚とか、失礼だろうと。
長い長い沈黙の後。「誓います」と花嫁の微笑。
ひどいな。嘘をついても平気なのか。たった今、この瞬間まで。他の人との未来を夢見てたくせに。その人が来ないなら、次点の人でってことなのか。なんだその変わり身の速さは。
そういう愛って、欲しいですかね。それは、愛というより打算のように思える。
私がもし、花婿の立場なら。要らないですそんなもの。
知らなければ、うまくやっていけるんだろうかこのカップル。
なんだか、でも私が花婿だったら、本当に嫌だ。
ただ、そんな里見を選んだのもまた、本人の意志なんだよなあ…。
私はこのとき、教会に現れなかった亘の気持ちが、少しわかったような気がしました。亘は里見がそういう人だったから、教会に行かなかったのではないかと。
里見の中にある、傲慢な部分を。
恋人を傷付けても構わない。それも、最も劇的に、残酷な方法で。そして相手の痛みに酔い、自己の価値を確認する、エゴイスティックな心を。
そうか。里見は。亘を捨てた花嫁と、同じ存在なのですよね。
そうして、再び亘は彼女と向き合う。愛してると思った相手に。でもそこにあるのは、本当の愛じゃなかった。
彼女は亘を、愛していない。愛しているのは自分だけ。
略奪される花婿。略奪する恋人。亘の立場が変わっただけ。愛しい彼女はただ、状況を楽しんでる。悠然と微笑んでる。
そのとき、亘は気付いたのかもしれない、と思う。
なぜ自分があの結婚式で、惨めな敗者となったのか。それは、彼女の愛が本当ではなかったからです。
この世に、愛は存在します。ただ、真実の愛は、里見にも亘の元婚約者にもなかった。
教会でのドラマチックな奪還を許す花嫁に、愛などあるのでしょうか?花婿を傷付け、恋人に略奪者の咎を負わせ、それで幸せ? そんなはずないし。
最後の逢瀬で、さらいに行くという亘に、里見は嬉しそうに「待ってます」なんて言っちゃってましたが。その返事こそが。亘の行動を決定づけたんだろうなあ。もしも、それをとめる里見であったなら。
亘は教会に、現れたのかもしれない。
亘は、自分が略奪者の立場に立って初めて、略奪者もまた、愛されてはいなかったと知ったのではないでしょうか。
結婚式の前日。別れ際。階段を上がる里見を寂しそうに見上げたのは。自分が愛したのは幻だったと、亘が気付いたからかもしれません。目の前にいる人。姿形は、確かに自分の愛した人なのに。その心には、自分は存在していなかったと。深く悟った、その寂しさだったのかもしれません。
それじゃあまた明日、と言ったときにはもう、わかっていたんでしょうね。おやすみなさい、と言って車で走り去る亘を見送り、里見が不安そうな顔をしたのは。亘の心境の変化を、本能で察知したからだと思います。もう、亘は里見に恋していなかったから。
ただ、悲しい目で見てましたね。
最終話は、謎の少女ミアの演技も印象的でした。坂井真紀さんが演じています。このドラマを見るまで「絶対キレイになってやる」のCMの人、というイメージしかなかったのですが、ミアはハマリ役でした。
>お前は一体誰なんだ?
>死神…私いる…お前も…死ぬ…
>どうして、俺を連れていかない?
>あたし…お前…
>お前は死神なんかじゃない。天使だよ。
>ありがと。
亘を助けようとするミアと。ミアを気遣う亘と。二人の間に存在したのは、愛だったなあと。
私はこのとき、ミアに感情移入していたので、亘の言葉を聞いて胸がつまりました。
ミアは死神。だったら、こんなに好きな亘と、離れるのは必定。一緒にいれば死をもたらすから。なのに。
「天使だよ」なんて、力強い言葉。
いや、こんなこと言ってくれるような亘と別れなきゃいけないんだから、そりゃあ泣くでしょう。泣くしかない。たぶん、死神のミアにそんなこと言ってくれる人、亘しかいない。でも、だからこそ亘を解放しなきゃいけないという、この皮肉。
ミアは、自分の死神という役割に、今までなんの疑念も抱いていなかったんだと思います。ただ亘と出会って、この人を死なせたくないと思って。そのためなら自分が去るしかないと悟ってそれが悲しくて。
別れの時を知ったとき、ただ感情のままにわんわん、子供みたいに泣いた。その姿が、とても可愛かったなあ。
愛について考えながら、キャバレーのトイレでブラジャーを握りしめて独りで死んでいった百瀬。その最後は、百瀬らしかった。
百瀬の意志を継いで、潜水艦で新天地を目指した野亜亘。野亜が、新しい世界を創造するノアその人だとしたら、亘が行く潜水艦の先には、どんな景色が広がっているんだろう。
ノストラダムスが世界の終わりを予言した1999年が何事もなく過ぎ、今年はなんと2012年。『世紀末の詩』その続編があるとしたら、脚本家の野島伸司さんはどう描くんだろう? そんなことを考えていたらなんと、衝撃の事実が発覚。
野島さん、2011年に結婚されていたのですね。しかも23才年下の方と。そしてすでにお子さんがいらっしゃるとは。びっくりしました。自分を作品に投影しない作者はいない、と私は思っているので。亘は野島さん自身の投影だと思っていたから、その結婚はきっと、亘の見い出した新世界そのものなんだろうと想像しています。
ドラマの主題歌は、ジョン・レノンの『LOVE』。これを聴くと、愛って哀しいものなのかなあと、思ったりします。全面的な幸福を歌った曲には思えなくて。
ジョンとヨーコの愛も。この『LOVE』のように、喜びや優しさだけではなかったのかな、としんみりしたり。
愛ってなんだろう。あらためて考えてしまうドラマでした。