続く吉兆。なにかいいことありそうな。

 難しいかもと思っていた某資格試験。合格しました。おめでとう私ヽ(´▽`)/

 ただ、今思うと、今年に入ってから吉兆のようなものはたくさんあったような。

 

 一つ目。まず、彩雲をみたこと。
 正月明け間もないある日の午後。次の電車を待つまでの間、私はベンチに座って空を眺めていた。すると、見上げた空に浮かぶ雲が、なんと七色に光り輝いているではないか!

 雲に色がついているのは、初めて見た。虹のようにしっかりした形があるわけではなくて、いかにも光の反射という感じだった。あんまりきれいで、不思議で。後から調べたら、それはよくある気象現象らしいけれど、私には初めての経験だった。

 周囲が落ち着いているのが気になって、キョロキョロ辺りを見回してしまった。周りから歓声があがってもいいくらいの美しさだと思ったから。

 辺りが静かな理由はすぐにわかった。ホームにいた人たちは、誰ひとり、空を見ていなかったから(^^; ほとんどの人が、携帯の画面に夢中。誰も、空の彩雲には気付いていない。

 「みなさーん。今、空がすごいことになってますよ。こんなふうに雲に色がつくなんて、虹みたいな原理なんだろうけど、とにかく珍しいですよー。見た方がいいですよー」

 という私の心の声は、当たり前だが誰の耳にも届くことはなく。

 穏やかな午後の空気の中。私だけが空の彩雲を見ていた。次の電車が来るまでの時間を惜しむように。

 二つ目。ある日玄関を開けると、大きな虹が目の前に広がっていた。それも、ちゃんと端までちゃんとあるやつである。

 一瞬、見間違いかと思うほどの完璧な、大きな美しい虹であった。

 部分的な虹を見たことはこれまでにもあったけど、端から端まで完全に存在する虹を見たのは、初めてのことだった。もちろん、荒野ではないので、正確には端の部分は多少住宅に隠れてはいたが。

 大きく、大きく。ほぼ180度に展開された虹はド迫力で。私は口をぽかんと開けるようにして、目の前の虹と対峙した。それから5分、10分。虹は消えない。薄くなることもない。

 これはまた、なんて虹だろう! 大きいだけじゃなくて、消えもしないんだから。こうなったら、消えるまで眺めていよう。
 私は虹を眺めていた。驚くほど大きく、確かな存在感。まるで夢をみているみたいだなあ、と思いながら。

 虹はしばらくの間、ごく当たり前の顔をして空に鎮座していた。20分ほどすると、不意に薄くなり始め、時間の経過と共に、少しずつ溶け、消えて行ってしまった。

 三つ目。右手の爪に白点が発生。しかも大きい。1ミリ×2ミリ強はある。真っ白で、存在感はかなりのもの。

 爪の白点は幸運のしるし。そんな記事を読んだことがあったので、うれしくなってさっそく調べてみた。白点が出た指によって、幸運の種類が違うらしい。

 私の場合は、人差し指だった。諸説あるようだが、願いが叶う、という説を書いているサイトが多かった。

 四つ目。とある教会の、鐘の音を聴いたこと。

 教会なので、たぶん礼拝のときとか、鳴らす機会は多いのだろうけれど、私は一度もその教会の鐘の音を聴いたことがなくて。
 きっと素敵な音なんだろうな。その教会の建築、佇まいが気に入っていたから、そこで鳴らされる鐘の音を聴いてみたいな、とはずっと思っていた。

 ただ、その教会は、私の家からは遠く離れた場所にある。その周辺に行く機会がそもそも、滅多にない。

 偶然に鐘の音を聴くことなど、諦めていた。それなのに。

 試験の日。少し早目に試験会場に向かった私の耳に、鳴り響く鐘の音。
 励まされたようで、嬉しくなったのは本当である。

 五つ目。試験の帰りに、前から気になっていた某神社に寄ったとき、おみくじを引いたら大吉だった( ̄▽ ̄)

 その神社自体、深い森の中にあって、境内はどこを通っても空気が清々しく、そこにいるだけで気分がよくなるような不思議な空間だ。

 神様をお祀りする建物はいくつもあって。おみくじを売る場所も複数あり。

 二度引くのはどうかと思いつつも、ふとまた別の場所でおみくじを引いてみたところ、またしても大吉。

 この神社は、おみくじを全部大吉にしてるのでは?と、一瞬そんな風に思ってしまったのだが、そんなことはあるはずもなく。

 年明けからこれだけ吉兆があったのだから、資格試験に合格したのも当然なのかな。
 なにかこの先もまだいいことありそうな、そんな予感がします。

自分を大切にするということ

 私は昔から、怖い話や不思議な話(占い含む)が好きでして。その流れから、いわゆるスピリチュアル系とか、自己啓発の本などもよく読んでいます。

 それで、ここ数年でかなり、考え方が変わってきたんです。マイナス思考からプラス思考になったというのが一番大きいですが、そんな中で今日考えついた今年の抱負。

 今年は「自分を大切にする」年にしたいと思います( ̄▽ ̄)
 いや~、シンプルですけども。これってかなり、すべてが変わってくる鍵じゃないかな~と、そんな気がします。

 「あなたは自分を大切にしていますか?」と問われたとき、過去の私はYESとは言えません。

 そうだな~、なんのかんのいって、かなり自分を粗末に扱ってたなあと。
 そして、自分の決断を責めたりもしてました。済んでしまったことを、思い返しては。もっといい方法があったのではないかと、考えても仕方のない思いに囚われたりして。

 でも、いろんな本を読んで、だんだん気付いてきたことがあります。それは、自分がそのとき、いつでも最良の選択をしたのだ、ということ。

 まあ、当たり前ですよね(^^;
 誰だって、無数の選択肢の中で、一番よいと自分が信じる道を選んで、今がある。

 どの時代の自分も、一生懸命でした。

 それを認めるってことが、自分を愛することなんだなあって。
 だから、後悔するってことは=、自分を責めるってことなんだと。その決断を下した自分を、否定するわけですから。

 私はときどき、昔のことを思い出して、重苦しい気持ちになることがあるのです。でも、そういうとき、「自分なりに一生懸命やったんだから、あれ以上はできなかったなあ」と思うことで、気持ちはとても楽になる。

 変な話なんですが、この頃自分を責める気持ちが出てきたとき、私は必ず、もう一人の私を想像するようにしました。そのもう一人の私は、優しい言葉で過去をすべて、肯定します。

 自分を大切にする。自分を愛するということ。
 意外に難しかったりします。私の中には、どこかにいつも、自分を責める自分がいた。

 何度でも、何度でも。もう一人の自分が、自分を肯定するイメージ。それを繰り返すと、胸の痛みはやわらぐし、優しい気持ちになります。

 うん。今年は「自分を大切にする年」にしよう。

 とある方のブログ(Aさん)に、感銘を受けました。その方は、「いい気分でいる」ことを推奨していました。

 なるほど~。自分がどうすればいい気分になるのか、それはその人にしかわからないし、その選択もまた、その人自身の意志なわけです。

 

 私がいい気分になるもの。綺麗な花、森、雰囲気のいい建物、落花生、クマエビ、いくらとご飯。みかんの花の香り。規制されない時間。自由。ゆっくり眠ること。

 人が好きなもの、求めているものって、本当に様々。だから、どうすれば幸せな気持ちになるかってことは自分じゃなきゃわからないわけです。

 Aさんは、他人に幸せを求めることは違う、と書いていて。深く、納得しました。

 うん。本当にその通りだと思います。誰かに依存する幸せは、幻みたいなもので。本当の幸せは自分が描くものでしょう。
 自分を大切にするということ。今年一年、実践してみたいと思います。

なにもかも幻

 まるで現実と変わらないような、鮮やかな夢を毎晩見ています。

 

 おととい見た夢。それは、私の隣にいた小さな女の子が、指にひどい怪我を負ってしまうというもので。それを防げなかった自分に、自己嫌悪を感じる中、目が覚めました。目が覚めて、ああ夢でよかったと思ったけれど、本当に夢と現実の境目というのは、曖昧なものです。

 どちらが現実なのか。その証明を厳密にすることなど、不可能ではないでしょうか。

 そこにあるのは、ただの自分の感覚だからです。

 時間を確かめるのには時計がある。けれどその時計が幻でないと、どうして言えるでしょうか?

 短く感じる時間も、長く感じる時間も。むしろ、時計の示す時間より、自分の感覚の方が、確かなような気がするこの頃です。

 時間と言えば、いつも思い出す出来事があります。

 それは、日本橋にある小さな会社で働いていたときのこと。私は本当にその仕事が嫌で、いつも憂鬱な気持ちで出社していました。

 派遣だったので、期限付きの仕事です。指折り数えて、契約終了の日を待ち望んでいました。嫌な気持ちが最高に達した日は、たしか契約終了の日まで、あと3週間だったでしょうか。

 その朝、会社までの道のりで、「あと何日で終わり」と、何度も頭の中で日にちを数えていました。そして、こんなことを思いました。

 次の瞬間、タイムスリップしてたらいいのに。
 終了まであと何日どころか、終わってからもう何年もたったようなときに、いきなり移動できたらいいのにな。

 今現在。このブログを書いている私は、あれから何年も経った時間軸にいる、はずです。

 でも、ふと思う瞬間があります。
 時間が一定に流れている、というのは本当だろうか。もしかしたら私は、あの強く願った瞬間から、今にいきなりジャンプしたのではないだろうか。

 あのときから現在まで、流れたはずの時間と記憶。それは、単なる記憶、というデータであって。自分ではそれを、一定の時間の流れの中で獲得したつもりでいるけれど、違う次元からみたら私は、望み通りに一瞬で、違う時間帯に移動したのかもしれないと。
 それを確かめる術は、どこにもないわけです。

 すべては幻、という言葉は、本物かもしれないな、などと思ったりします。

 現実ってなんでしょう。
 目の前にあるすべてが、実存するって、なぜ言い切れるのでしょう。
 「そう見えている」「そう思えている」だけかもしれない。

 枠から、はみでて見たら、また違う見方がある。
 だけど枠の中で生きている限り、その証明はできない。
 枠の中にいる人間は、どうしたら自分を、枠の外から眺めることができるんだろう。

 そんなことを考えていると、現実は曖昧なものに思えてきます。ぐにゃり、と簡単に曲げられそう。

 過去や未来などない。「今しかない」という考え方は、そういうことなのかもしれません。妙に納得してしまう。今この瞬間、この感覚。それ以外に確かなものなど、ないのではないかと。

 物思いにふける秋です。

預言カフェ 再訪 感想

 恐るべし預言カフェ。

 2回目の預言カフェ、行ってきました。上京したついでに、時間があったので高田馬場へ。

 駅からの道は、もう慣れたものです。前回行った時、ノートに名前書いてから実際にみてもらうまで時間があったため、近くを散歩したりしたから。どこのお店で時間をつぶそうか、うろうろ歩いたので近隣のお店事情にも詳しくなっていました。

 初めての預言が、振り返るとかなり当たってた。そして2度目の今回も、結果はびっくりするようなものでした。

 

 預言は、やっぱり当たってました。それも、言われた直後にはわからず、後から来るのです。言われた当初は、「え?」という戸惑いがあった言葉。だけど、後で考えたら心当たりがありすぎて怖いくらい。

 私がたぶん、一番心にひっかかっていたことを、言われました。でも言われた瞬間は、ぴんとこないのです。というのは、意図して忘れようとしていたから。そのことを、考えないようにしていた。

 たぶん顕在意識からは、消えていたようなこと。
 だから、言われても??? なんのことだろうという感じで。今回は当たらないのかな~なんて思っていたのですが。

 帰りの新幹線の中で、ぼんやりそのことを考えていたとき。はっと気付いたのです。
 もしかして、あの言葉はあれを指してるのかな?と。
 そう考えると、すべての言葉が、ぱたぱたっと見事に当てはまったというか。

 オセロで黒一色だったものが、たった一手で、あっという間に大逆転。白一色に変わっていくような感覚をおぼえました。

 封じ込めていたものを指摘されたわけです。
 預言カフェ、凄いと思いました。当たるとか当たらないとかいうのは不謹慎かもしれませんが、とにかく私にとってはずばりの言葉でした。

 そして今回も繰り返し言われたのは、「恐れないで」ということ。
 なにも恐れることはない。神様はいつもそばにいて、なにもかも計画のうちで、遅いのではない、一番いいタイミングで環境も情報も与えていくのだ、ということです。

 預言の言葉を、何度も噛み締めました。

自分に似た誰か、を思う

 たまにですが、初対面の人に顔を凝視されることがあります。

 最近は慣れてきて、すぐにピンときます。
 あ、また誰かに似てるんだな~と(^^;

 そっくりな誰かがいるみたいです。それも、声や喋り方含めて。世の中に三人は、自分に似た人がいるといいますが、会ってどのくらい似ているのか確かめてみたいですね。

 この間もそういうことがあり。
 自意識過剰?とも思いましたが、凝視する時間が長かったので、これはきっと知り合いの誰かと間違えてるんだろうなあと。
 いっそ聞いてみたかった。
 「あのう、私ってそんなに似てますか?」

 一番最初にそういうことがあったのは、高校生のとき。
 茶道部の先生に、「あなた○○さんと同じ顔よね。どちらがどちらかわからなくて困っちゃうわ」と言われました。仲良くしてた友人からはそんなに似てるとは言われませんでしたが、あまり付き合いのない部員からはやっぱり、「似てるよね~」と。
 複数からそう言われたので、本当に似てたんでしょう。
 私は○○さんを見て、自分に似てるとは思わなかったですが(;;;´Д`)ゝ

 次は、18才のとき。三週間だけアメリカで語学研修を受けたのですが、現地のアドバイザーが、到着後すぐの説明会でチラッチラ私を見るんですよ。
 そのとき部屋の中には、30人くらいいたんですけど。
 なぜかすっごく視線が合いまくるという。
 そして、そのときの話が、交通事故には気を付けましょうという話だったんですね。以前に、アメリカに留学した学生が、交通量の多い道路で事故死してしまったそうです。
 日本から御両親がおみえになり、現地のアドバイザー達も、とても悲しい、いたたまれない思いをしたとのこと。
 勉強うんぬん以前に、まずは健康で、無事に帰国すること、そのためにも道路を横断するときは、くれぐれも気を付けてくださいという話でした。

 そして、その話をするとき、アドバイザーが私の方をちらちら見るんですよね。
 壇上には二人立ってたんですけど、その二人ともが、です。

 見ないように、不自然にならないように努力してるんだけども、見ずにはいられない。だけどいざ視線が合うと、ずっと見ていられなくて不自然に、動揺したように視線を外す、みたいな。
 それが何度も続いたし、一人でなく二人ともだったので、私もピンときまして。
 もしかしてだけど、その交通事故で亡くなった方が、私に似ていたんではないだろうかと。

 まさか、と思いながらも気になったので。説明会の後でさりげなく、声かけてみたのです。雑談もまじえつつ。
 「さっきのお話の交通事故で亡くなった学生、もしかして私に似てました?」

 結果。一瞬すごく驚いた表情をして。その後、不自然な笑みを浮かべて、でも否定はしませんでした(^-^;
 私も事情は察したので、それ以上は何も言いませんでしたが。

 もし違っていたら、「似てないですよ」と当然言うだろうし、態度は明らかにおかしかったので、よほど似ていたんだろうなあと思います。

 3回目の「似た人シリーズ」は、バイト先にて。
 あるメーカーの販促キャンペーンを、単発のバイトでやっていたときのことです。
 通りすがりの人が、私の顔を見て、「○○さん~」と親しげに話しかけてきたのです。名前も違うし、全く知らない人だったのですぐに、「いえ、人違いですよ」と言ったのですが、それでもなお、「またまた冗談言っちゃって~。○○さんでしょ?」としつこい。
 「いえ。本当に私の名前は○○じゃないですし」
 「ええ? でも△△の□□にいたよね・・・(△△はバイト先のメーカーです)」
 「私、△△の人間ではないです。これはバイトなので、本当に人違いですよ」

 そこまで言っても、相手の人は首をかしげていましたから、よほど似ていたのでしょう。しゃべってなお、人違いに気付かないというのは、相当です。声も、喋り方も似てる人なんですね。そんなに似てるなら、会ってみたかった。

 4回目は仕事先。教育係に、「以前私をいじめた先輩に、あなたがとてもよく似ているから」という理由で、ものすごく嫌がらせをされました。

 これは、最初嫌がらせをされる理由がまったくわからず、とても不思議だったのです。特になにをしたわけでもないのに、最初から敵対感まるだしで、数々の嫌がらせをされまして。あんまり露骨だったので、同期の間でも話題になっていたし、よく知らない先輩からも「大変だね」と慰められたり。
 「それにしても、なんで○○(教育係)は、あなたを目の敵にするんだろう」。同期は不思議がっていましたが、教育期間終了間際の飲み会で、酔った教育係が、同期にぽろっと話したそうで。
 「私をいじめた、大っきらいな先輩に似てるのよね・・・」とぽつり。

 5回目は、母がお世話になっていた習い事の先生。私はその先生に会うのは初めてだったんですけど、いろいろお話はうかがっていたので、失礼のないように挨拶しなきゃなあ、なんて緊張してました。

 先生は他の方と談笑していて、私が先生の元へ近付き、先生が私の方を振り返った瞬間。

 私の顔を見て、先生の顔がみるみる変わったんです。浮かんだのは、恐怖。恐ろしいものを目の当たりにしたかのように、先生は硬直して私を見据えていて。

 驚いたのは私の方です。笑顔を予想していたのに、まるで化け物を見たような態度に、私もびっくりしてしまいました。

 初対面の人に、あそこまで驚かれたのは初めてかも。ぎこちなく自己紹介をしたものの、先生はやっぱり、最後まで、不自然な感じで私を見てました。

 後で他の方から聞いたのですが、先生には私と同い年くらいの、娘さんがいたそうです。それも、その娘さんが小さい頃に離婚してしまい、それ以来会ってはいないということで。
 想像ですが、その娘さんと私が、似ていたのかもと思いました。
 あれだけ、おびえた?ように見えたのは、娘さんにたいして、すまないという罪悪感があったのかなあ、なんて想像しました。
 会えてうれしい、という顔じゃなかったから。

 6回目は、東京で働いていたとき。とあるビルの廊下で、すれ違いざまに「○○さん」と声をかけられました。振り返ってみても、全く知らない人です。
 うれしそうに話しかけてくるので、「すみません、人違いだと思いますよ」と話しました。
 「ええ?」と、かなり驚いた様子でしたが。
 私がはっきり「人違いです」と言い切ったので、それ以上は話しづらい様子で、なにか言いたそうに、でも遠慮して口には出さず、私の顔をじっと見てました。

 私もそれ以上、何を言うこともないと思ったので、また歩き始めたのですが。何か気になって振り返ると、その人はまだ、じーっと私を見てました。歩き去る後ろ姿を、凝視してたようです\(;゚∇゚)/

 7回目は、ある日、母から電話がかかってきました。なんと、テレビニュースで流れたある事件の被害者の顔が、あまりにも私に似ているものだから、気になって電話してしまったとか。

 名前も状況も全然違うし、まさか本人というわけはないのですが、それでもなお、あまりにも顔が似ていたものだから、気になってしまったとのことでした。
 それも話を聞くと、父と一緒に夕食を食べている時のニュースで。父が「電話しろ」と強く言ったらしいんですね。
 オカルトめいた話は一切信じない、虫の知らせなども信用しない父でしたが。その父が、胸騒ぎを感じたというのは、本当に相当似ていたんだなあと思います。
 なんでも、二人して画面に見入ってしまい、何度も「似てたな」と、確認し合ったそうです。
 実の両親からみて、それだけ似てるってどういうことだよ~と、私も苦笑してしまいました。

 8回目は、ある事故現場にて。たまたま通りすがった私と友人、それから見知らぬ男性の三人で、救護活動をしたことがあったんですが。

 その後、しばらく会わなかったその友人と食事した際に、そのときの話題になり、こう言われたのです。
 「あの時は言わなかったけどさ、あの一緒に助けた人、あなたのこと、妙にチラチラ見てたんだよ。あなたは全然気付いてなかったみたいだけど。なんかこう、言いたげな感じでさあ。あれ、もしかして気があったのかもよ」

 いえ、違うのです。さすがに、ここまでくると私にもわかりますΣ( ̄ロ ̄lll)
 懐かしいこのパターン・・・。似てたんでしょうね、その人の知っている誰かに。
 この、チラッチラっと見る感じ。
 あれ? まさか? でも似てる? どうしてこんなところに? もっと見たら、本人かどうかわかるのに・・・みたいな。

 それで、9回目がこの間あったんですけど。

 聞いてみたいな~と思ってしまいました。その人は、私に似た誰かに、どんな思い出があったんだろう。
 人に歴史あり、ですからね。
 いろいろ想像してしまいました。
 その人が私を見て、私もその人を見返した時間。
 私の中に、どんな記憶をたぐったんだろうなあって。

 短い時間とはいえ、初対面にしては不自然なほど、みつめあってしまいました。

 今回は、相手の動揺は見えなかったです。すごく静かな感じで。冷静にみつめられてるような。
 でも、探られてる感はあった。
 私じゃない、誰かの記憶と重ね合わせているような。

 もし私がいたずらで、「お久しぶりですね」なんて、さも当人であるかのようにニッコリ笑ったら、相手はどんな返事をしただろう、なんて想像してしまいました。

 どんな言葉が返ってきたのかな。

 それだけ似ている人なら、私も会ってみたいです。