預言カフェ 3回目と4回目 感想

 実は去年の7月と今年の3月に、再び高田馬場の預言カフェへ行ってまいりました。これで計4回、預言をいただいたことになります。

 そもそも、占いが好きで出かけたわけですが、こちらのカフェは厳密には預言ということで、神様からのお言葉だそうです。受けてみた感じは、アドバイスのような感じです。そしてこれが当たるのです。
 どういう仕組みなのか、不思議です。預言される方が一方的に話すことなので、コールドリーディングでないことは確かで。信じる人も信じない人もそれぞれいらっしゃることとは思いますが、私は信じてます。なぜなら、言われた言葉が、後からしみじみ響いてくるから。そして、日が経てば経つほど、書き起こした言葉が現実化していくのです。

 単純に、コーヒーもおいしいですしね(o^-^o)
 私はこのお店で、フレンチプレスで飲むコーヒーのおいしさを始めて知りました。紙のフィルターで漉す以外にこんな方式があったとは! 
 漉さない分、複雑な味がして、風味が増します。ドリップ式以外の淹れ方があったなんて、全然知りませんでした。

 ただ、混むのはちょっと残念かな(;´Д`A “` いつも、時間をつぶすのが大変です。たいてい、ウェイティングリストが用意される12時にお店へ行き、その後14時まで周囲のお店をうろうろ、という感じですが。3回目の訪問のときは、よさそうなお店があまりなくて、どんどん遠くまで歩いて行って、暑さでへとへとになり。デニーズのようなファミレスで、一休みした記憶があります。

 そしてその3回目の預言の中で言われたのは、「臆さずにもっと自由に動きましょう」、それから「直観を大事にしていきましょう」、というようなことでした。

 これについては、ものすごく心当たりがあります(;;;´Д`)ゝ
 臆してしまう、ためらってしまう、ということには。

 この3回目のときに、「あなたは目標に対して届かないと思っているかもしれないけど、届きますよ」と断言されて、確かに私はそのときある資格試験を目指して勉強中でしたが、実際、今年になって合格しましたヽ(´▽`)/

 そして私が預言カフェを好きな理由の一つは、褒めてくれるから、だったりしますo(*^▽^*)o
 大人になって、真正面から褒められることってあんまりなかったりするし、たまにあっても、お世辞なんだろうなあと思ってしまうのですが。この預言カフェではいつも、温かい言葉をもらえて、またそれを素直に受けとめている自分がいます。
 キリスト教系のカフェなのですが、神様の言葉はいつも、優しいです。

 あなたにはこういういいところがありますよ、と、行くたびにいくつか具体的に挙げて指摘してくれるので、それが嬉しいのです。

 預言はいつも、このような言葉で始まります。

「主は言われます。愛する我が娘よ、私はあなたのことを愛していますよ、と主が言われています」

 たぶん人の言葉だとしたら、ここまでストレートだと照れが入ってしまうと思うのですが。おっしゃっているのが神様だから、いいのです。素敵なのです。

「私はあなたを愛しています」って、いい言葉だなあと思うのです。でもこれ、英語だと I love you なのでしょうが、それと日本語の愛していますだと、少しニュアンス違うかも。

 たぶん、英語のI love you はもっと自然で、もっと気負わない言葉なのでしょう。日本語にすると、少し仰々しい面もあるのかな。預言カフェの店員さんが、預言中で淡々と口にする「愛」、という言葉を受け入れることは少し照れくさいけれど、でも自信につながるのです。

 お店の雰囲気も、清潔感があり、すっきりしていて居心地がよくて。ここでゆっくり、素敵な音楽を聴いてみたいなあと思いました。実際には順番待ちの方が大勢待っているので、コーヒーを飲んで預言をいただいたら、速やかに出るのが暗黙の了解ですが(^^; 私も、いつも預言が終わったら、余韻もそこそこに出て行ってます。

 そして、4度目の訪問をした今年、2015年3月の預言もまた、心に響く、ありがたいものでした。

 カフェの開店前、時間をつぶすために入ったファミレスでは、隣に座った男女の会話が、妙に印象的で。

 会社を辞める部下と、その上司の組み合わせだったようです。自分の夢を追うのだと、若い女性が静かに話していました。向かい合った上司は、その夢を応援していました。がんばって夢を実現させなさい、と。
 席が近いため、聞くともなしに隣の会話が耳に入ってしまい。全く知らない人とはいえ、私もその女性の旅立ちを応援する気持ちになりました。3月は旅立ちの季節。慣れた環境を離れ、新しい生き方を求めた彼女の勇気。もちろん未知なる世界への恐さや、安定を手放す不安もあったでしょうが、彼女が自分で選んだ道。そこには不安以上の希望が、みてとれました。

 その後、ファミレスを出て預言カフェへ向かう途中、道に迷ったらしき方から道を聞かれました。東京から引っ越して6年。全然地元の人間じゃないのですが、スマホでグーグルの地図を表示して説明。グーグル地図の便利さを実感しました。現在地もすぐ出るし、本当に便利。
 しかも、その方の行先が預言カフェと同じ方向だったので、途中まで一緒に歩いて話が弾みました。思わず預言カフェの良さを、ひとしきり語ってしまいました。

 その後、預言カフェへ4度目の訪問。前回(2014年7月)とは8ヶ月間があいたわけですが、受ける預言はいつも、全く違うものです。
 4度目の預言で言われたのは、「あなたは卒業と入学を繰り返していく」ということでした。ドキっとしました。去年、思い立って新しいソフトの講座を受けていたから(;´▽`A“

 卒業と入学ってこのことかな。確かに私は仕事もいろいろ変えているし、なにか新しいことがあると気になって挑戦したくなったり、そういうことを言っているのかな、と。

 この卒業と入学が、あなたの人生を豊かにしていく、と言われて嬉しくなりました。飽きっぽいと捉えれば短所になりますが、見方を変えれば、いつも新しいチャレンジをしていると、肯定することもできるわけです。

 前にもブログに書いたことがありますが、私は「学校」って好きなのです。夢にもよく見るし、資格をとるのも好きだし。「学校」という言葉に、特別な感慨を覚えます。散歩中に、学校(小学校や中学、そして大学、専門学校など、種類問わず)を見ると、無条件に、いいなあという気持ちがわきあがってくるのです。不思議な感覚です。

 だから、「卒業と入学」の預言を聞いて、なるほど~と納得してしまいました。
 この先も私はきっと、人生の中で卒業と入学を繰り返していくんだろうなあと。自分でも、そんな予感がしています。 

続く吉兆。なにかいいことありそうな。

 難しいかもと思っていた某資格試験。合格しました。おめでとう私ヽ(´▽`)/

 ただ、今思うと、今年に入ってから吉兆のようなものはたくさんあったような。

 

 一つ目。まず、彩雲をみたこと。
 正月明け間もないある日の午後。次の電車を待つまでの間、私はベンチに座って空を眺めていた。すると、見上げた空に浮かぶ雲が、なんと七色に光り輝いているではないか!

 雲に色がついているのは、初めて見た。虹のようにしっかりした形があるわけではなくて、いかにも光の反射という感じだった。あんまりきれいで、不思議で。後から調べたら、それはよくある気象現象らしいけれど、私には初めての経験だった。

 周囲が落ち着いているのが気になって、キョロキョロ辺りを見回してしまった。周りから歓声があがってもいいくらいの美しさだと思ったから。

 辺りが静かな理由はすぐにわかった。ホームにいた人たちは、誰ひとり、空を見ていなかったから(^^; ほとんどの人が、携帯の画面に夢中。誰も、空の彩雲には気付いていない。

 「みなさーん。今、空がすごいことになってますよ。こんなふうに雲に色がつくなんて、虹みたいな原理なんだろうけど、とにかく珍しいですよー。見た方がいいですよー」

 という私の心の声は、当たり前だが誰の耳にも届くことはなく。

 穏やかな午後の空気の中。私だけが空の彩雲を見ていた。次の電車が来るまでの時間を惜しむように。

 二つ目。ある日玄関を開けると、大きな虹が目の前に広がっていた。それも、ちゃんと端までちゃんとあるやつである。

 一瞬、見間違いかと思うほどの完璧な、大きな美しい虹であった。

 部分的な虹を見たことはこれまでにもあったけど、端から端まで完全に存在する虹を見たのは、初めてのことだった。もちろん、荒野ではないので、正確には端の部分は多少住宅に隠れてはいたが。

 大きく、大きく。ほぼ180度に展開された虹はド迫力で。私は口をぽかんと開けるようにして、目の前の虹と対峙した。それから5分、10分。虹は消えない。薄くなることもない。

 これはまた、なんて虹だろう! 大きいだけじゃなくて、消えもしないんだから。こうなったら、消えるまで眺めていよう。
 私は虹を眺めていた。驚くほど大きく、確かな存在感。まるで夢をみているみたいだなあ、と思いながら。

 虹はしばらくの間、ごく当たり前の顔をして空に鎮座していた。20分ほどすると、不意に薄くなり始め、時間の経過と共に、少しずつ溶け、消えて行ってしまった。

 三つ目。右手の爪に白点が発生。しかも大きい。1ミリ×2ミリ強はある。真っ白で、存在感はかなりのもの。

 爪の白点は幸運のしるし。そんな記事を読んだことがあったので、うれしくなってさっそく調べてみた。白点が出た指によって、幸運の種類が違うらしい。

 私の場合は、人差し指だった。諸説あるようだが、願いが叶う、という説を書いているサイトが多かった。

 四つ目。とある教会の、鐘の音を聴いたこと。

 教会なので、たぶん礼拝のときとか、鳴らす機会は多いのだろうけれど、私は一度もその教会の鐘の音を聴いたことがなくて。
 きっと素敵な音なんだろうな。その教会の建築、佇まいが気に入っていたから、そこで鳴らされる鐘の音を聴いてみたいな、とはずっと思っていた。

 ただ、その教会は、私の家からは遠く離れた場所にある。その周辺に行く機会がそもそも、滅多にない。

 偶然に鐘の音を聴くことなど、諦めていた。それなのに。

 試験の日。少し早目に試験会場に向かった私の耳に、鳴り響く鐘の音。
 励まされたようで、嬉しくなったのは本当である。

 五つ目。試験の帰りに、前から気になっていた某神社に寄ったとき、おみくじを引いたら大吉だった( ̄▽ ̄)

 その神社自体、深い森の中にあって、境内はどこを通っても空気が清々しく、そこにいるだけで気分がよくなるような不思議な空間だ。

 神様をお祀りする建物はいくつもあって。おみくじを売る場所も複数あり。

 二度引くのはどうかと思いつつも、ふとまた別の場所でおみくじを引いてみたところ、またしても大吉。

 この神社は、おみくじを全部大吉にしてるのでは?と、一瞬そんな風に思ってしまったのだが、そんなことはあるはずもなく。

 年明けからこれだけ吉兆があったのだから、資格試験に合格したのも当然なのかな。
 なにかこの先もまだいいことありそうな、そんな予感がします。

自分を大切にするということ

 私は昔から、怖い話や不思議な話(占い含む)が好きでして。その流れから、いわゆるスピリチュアル系とか、自己啓発の本などもよく読んでいます。

 それで、ここ数年でかなり、考え方が変わってきたんです。マイナス思考からプラス思考になったというのが一番大きいですが、そんな中で今日考えついた今年の抱負。

 今年は「自分を大切にする」年にしたいと思います( ̄▽ ̄)
 いや~、シンプルですけども。これってかなり、すべてが変わってくる鍵じゃないかな~と、そんな気がします。

 「あなたは自分を大切にしていますか?」と問われたとき、過去の私はYESとは言えません。

 そうだな~、なんのかんのいって、かなり自分を粗末に扱ってたなあと。
 そして、自分の決断を責めたりもしてました。済んでしまったことを、思い返しては。もっといい方法があったのではないかと、考えても仕方のない思いに囚われたりして。

 でも、いろんな本を読んで、だんだん気付いてきたことがあります。それは、自分がそのとき、いつでも最良の選択をしたのだ、ということ。

 まあ、当たり前ですよね(^^;
 誰だって、無数の選択肢の中で、一番よいと自分が信じる道を選んで、今がある。

 どの時代の自分も、一生懸命でした。

 それを認めるってことが、自分を愛することなんだなあって。
 だから、後悔するってことは=、自分を責めるってことなんだと。その決断を下した自分を、否定するわけですから。

 私はときどき、昔のことを思い出して、重苦しい気持ちになることがあるのです。でも、そういうとき、「自分なりに一生懸命やったんだから、あれ以上はできなかったなあ」と思うことで、気持ちはとても楽になる。

 変な話なんですが、この頃自分を責める気持ちが出てきたとき、私は必ず、もう一人の私を想像するようにしました。そのもう一人の私は、優しい言葉で過去をすべて、肯定します。

 自分を大切にする。自分を愛するということ。
 意外に難しかったりします。私の中には、どこかにいつも、自分を責める自分がいた。

 何度でも、何度でも。もう一人の自分が、自分を肯定するイメージ。それを繰り返すと、胸の痛みはやわらぐし、優しい気持ちになります。

 うん。今年は「自分を大切にする年」にしよう。

 とある方のブログ(Aさん)に、感銘を受けました。その方は、「いい気分でいる」ことを推奨していました。

 なるほど~。自分がどうすればいい気分になるのか、それはその人にしかわからないし、その選択もまた、その人自身の意志なわけです。

 

 私がいい気分になるもの。綺麗な花、森、雰囲気のいい建物、落花生、クマエビ、いくらとご飯。みかんの花の香り。規制されない時間。自由。ゆっくり眠ること。

 人が好きなもの、求めているものって、本当に様々。だから、どうすれば幸せな気持ちになるかってことは自分じゃなきゃわからないわけです。

 Aさんは、他人に幸せを求めることは違う、と書いていて。深く、納得しました。

 うん。本当にその通りだと思います。誰かに依存する幸せは、幻みたいなもので。本当の幸せは自分が描くものでしょう。
 自分を大切にするということ。今年一年、実践してみたいと思います。

なにもかも幻

 まるで現実と変わらないような、鮮やかな夢を毎晩見ています。

 

 おととい見た夢。それは、私の隣にいた小さな女の子が、指にひどい怪我を負ってしまうというもので。それを防げなかった自分に、自己嫌悪を感じる中、目が覚めました。目が覚めて、ああ夢でよかったと思ったけれど、本当に夢と現実の境目というのは、曖昧なものです。

 どちらが現実なのか。その証明を厳密にすることなど、不可能ではないでしょうか。

 そこにあるのは、ただの自分の感覚だからです。

 時間を確かめるのには時計がある。けれどその時計が幻でないと、どうして言えるでしょうか?

 短く感じる時間も、長く感じる時間も。むしろ、時計の示す時間より、自分の感覚の方が、確かなような気がするこの頃です。

 時間と言えば、いつも思い出す出来事があります。

 それは、日本橋にある小さな会社で働いていたときのこと。私は本当にその仕事が嫌で、いつも憂鬱な気持ちで出社していました。

 派遣だったので、期限付きの仕事です。指折り数えて、契約終了の日を待ち望んでいました。嫌な気持ちが最高に達した日は、たしか契約終了の日まで、あと3週間だったでしょうか。

 その朝、会社までの道のりで、「あと何日で終わり」と、何度も頭の中で日にちを数えていました。そして、こんなことを思いました。

 次の瞬間、タイムスリップしてたらいいのに。
 終了まであと何日どころか、終わってからもう何年もたったようなときに、いきなり移動できたらいいのにな。

 今現在。このブログを書いている私は、あれから何年も経った時間軸にいる、はずです。

 でも、ふと思う瞬間があります。
 時間が一定に流れている、というのは本当だろうか。もしかしたら私は、あの強く願った瞬間から、今にいきなりジャンプしたのではないだろうか。

 あのときから現在まで、流れたはずの時間と記憶。それは、単なる記憶、というデータであって。自分ではそれを、一定の時間の流れの中で獲得したつもりでいるけれど、違う次元からみたら私は、望み通りに一瞬で、違う時間帯に移動したのかもしれないと。
 それを確かめる術は、どこにもないわけです。

 すべては幻、という言葉は、本物かもしれないな、などと思ったりします。

 現実ってなんでしょう。
 目の前にあるすべてが、実存するって、なぜ言い切れるのでしょう。
 「そう見えている」「そう思えている」だけかもしれない。

 枠から、はみでて見たら、また違う見方がある。
 だけど枠の中で生きている限り、その証明はできない。
 枠の中にいる人間は、どうしたら自分を、枠の外から眺めることができるんだろう。

 そんなことを考えていると、現実は曖昧なものに思えてきます。ぐにゃり、と簡単に曲げられそう。

 過去や未来などない。「今しかない」という考え方は、そういうことなのかもしれません。妙に納得してしまう。今この瞬間、この感覚。それ以外に確かなものなど、ないのではないかと。

 物思いにふける秋です。

預言カフェ 再訪 感想

 恐るべし預言カフェ。

 2回目の預言カフェ、行ってきました。上京したついでに、時間があったので高田馬場へ。

 駅からの道は、もう慣れたものです。前回行った時、ノートに名前書いてから実際にみてもらうまで時間があったため、近くを散歩したりしたから。どこのお店で時間をつぶそうか、うろうろ歩いたので近隣のお店事情にも詳しくなっていました。

 初めての預言が、振り返るとかなり当たってた。そして2度目の今回も、結果はびっくりするようなものでした。

 

 預言は、やっぱり当たってました。それも、言われた直後にはわからず、後から来るのです。言われた当初は、「え?」という戸惑いがあった言葉。だけど、後で考えたら心当たりがありすぎて怖いくらい。

 私がたぶん、一番心にひっかかっていたことを、言われました。でも言われた瞬間は、ぴんとこないのです。というのは、意図して忘れようとしていたから。そのことを、考えないようにしていた。

 たぶん顕在意識からは、消えていたようなこと。
 だから、言われても??? なんのことだろうという感じで。今回は当たらないのかな~なんて思っていたのですが。

 帰りの新幹線の中で、ぼんやりそのことを考えていたとき。はっと気付いたのです。
 もしかして、あの言葉はあれを指してるのかな?と。
 そう考えると、すべての言葉が、ぱたぱたっと見事に当てはまったというか。

 オセロで黒一色だったものが、たった一手で、あっという間に大逆転。白一色に変わっていくような感覚をおぼえました。

 封じ込めていたものを指摘されたわけです。
 預言カフェ、凄いと思いました。当たるとか当たらないとかいうのは不謹慎かもしれませんが、とにかく私にとってはずばりの言葉でした。

 そして今回も繰り返し言われたのは、「恐れないで」ということ。
 なにも恐れることはない。神様はいつもそばにいて、なにもかも計画のうちで、遅いのではない、一番いいタイミングで環境も情報も与えていくのだ、ということです。

 預言の言葉を、何度も噛み締めました。