伝わるもの

 自分の、人に対する感じ方は、独特すぎるのだろうか、と思う時がある。

 私にとっては物凄く単純明快、これ以外の解釈は無理でしょ、というほどの、あからさまなイメージを持つ人が、一般的には逆のイメージでとらえられていたり。

 その最たるものが、とあるスピリチュアル系のタレントさん。

 私は実際会ったことはないし、テレビで見た印象だけなんだけど。私には、水戸黄門の悪代官にしかみえないその人は、「優しい人」「癒しの人」としてもてはやされている。

 言動とか一切除外して、本当に、100パーセント外見の印象だけで見たとき、その人の放つ、「悪」な感じは、半端ないエネルギーに思える。

 私はその人をテレビで見て、うわー漫画とかに出てくる典型的な悪キャラだなあ、と思ってしまう。でもその人には、たくさんの信奉者がいて、その人は神のごとく崇められている。

 単純に不思議だ。
 どうして? と思ってしまう。
 自分の感じているものと、人が感じているものは、これほど違ってくるんだろうか、と。

 人それぞれ、とはいえ。

 私からしたら、いかにも「悪役」らしいメイク、声で演技する悪代官を、なぜ信じられるんだろう、と。
 だって、もう姿形が、あからさまに「悪代官」なのに。
 この胡散臭さを、感じていない?と。

 外観だけで、伝わってくるものがある。すべての人ではないけど。たまに、うわぁーっと思う人がいる。

 それが実際本当の姿なのか、私の誤解なのか、それはわからないけど。
 とにかく私の「この人やばい」センサーが迷うことなく激しい警告音を鳴らす、それだけ怪しさ満点の人なのに、その人を信じる人が少なからず存在する、ということが、私にはとても不思議でならない。

 いくら感じ方が違うとはいえ。

 あんなにも見た目が典型的な、ステレオタイプの「悪」を、なぜ信じられるんだろう。

 いや、まだ、表面上はいい人っぽいっていうならわかるのだ。まだ。「でもなんか、裏がありそうだよね~」と私が感じてて、それを、そうは思わないっていう人がいる、それ位の誤差ならば。

 でも。私からしたら、しつこいようだけど、「水戸黄門の典型的な悪代官」なわけです。もう、言動とか一切抜きで、見た目が明らかに、怪しい雰囲気なのに。一言話せば、それだけで、十分わかる(ような気がする)のに、なぜあの人は、世間的には「人格者」として人気があるんだろうっていうのは、本当に謎です。

『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ著 感想

 ずっと、食わず嫌いならぬ、読まず嫌いで避けていた『神との対話』二ール・ドナルド・ウォルシュ著を読みました。
 以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

 もっと早く読めばよかった~というのが、読後一番の感想です。
 タイトルがあまりにも宗教ぽくて固く思えたので、ずっと避けてきたのですが。その名前だけは、ちょくちょく耳にしていました。

 私のように、タイトルだけで避けている人がいたら、ぜひ、中身を読んでみることをお勧めします。内容は深遠ですが、言葉はわかりやすく、すらすら読めます。神様、という概念が変わる本です。

 この本のすべてを信じる、とかではなくても。
 この本に書かれた文章に、心を打たれる人は多いのではないでしょうか。

 私もです。のめりこむようにして、一気に読んでしまいました。

 この本に出てくる神様は、原罪を、地獄を、そして、約束、を否定しています。

 実は私もずっと思っていました。
 原罪って、悲しすぎると。そして地獄も。神様は、人類に地獄を用意するような存在なのだろうか?と。

 中でも、「約束」について書かれた次の記述には、衝撃を受けました。

>どうしてそんな権利が欲しい?
>ひとがあなたとの約束を破るたったひとつの理由は、もう約束を守りたくないからだよ。
>あるいは、もう守れないと感じるからだ。
(中略)
>ほんとうに、相手が守りたくない約束を守らせたいかな?
(中略)
>ひとに無理やり約束を守らせて、それで自分たちは傷つかずにすむと思うか?

 こういう発想は、今までの自分には全くなかったもので。何度も噛み締めて考えてしまった。

 私は「約束」って、神聖なもの、絶対のものだと思っていたから。「約束」こそが信頼の証。それが破られたとき、関係は永遠に断絶すると。

 でも、じわじわ心の中の声が、この本の記述に賛同するんですよね。確かにその通りだな~と。

 約束を守らせようとすればするほど。きりがないっていうか。
 誓約書にすればいい? 罰をつければいい? 担保があれば、それで安心?

 どれも違うと思う。

 約束を守らせることが、相手を傷つけることにつながるなら。
 傷付きながらも相手には約束を守ってほしい?
 それとも、無理なんてしなくていいから、約束は破っていい?

 本当に好きな相手がいて。その人が約束に苦しめられてるなら。約束を破れば、楽になれるのなら。
 どっちをとるか。自分の苦しみ。相手の苦しみ。
 好きな人が苦しんで、それでも約束を守ってくれて、それって嬉しい?

 昔の私なら。たぶんそれでも、「約束を守る」ことにこだわり続けていたかもしれないけれど。
 今は、なんだか、この本に書かれた「約束」の概念が、すーっと胸にしみこんでいったのです。抵抗なく。

 人は、自由な存在なんだなあということを、あらためて思いました。そうです。心は嘘をつけない。

 約束で縛る、その鎖の重さ。
 そもそも、縛るっていう概念が間違っていたのだろうか。
 約束という条件をつけなければ、相手を信用できないのは、自分が相手を信じていないから?

 もう、約束はいらない、と。そんな気持ちになりました。

 

再び出現したアザ

 以前のブログで、突然出現していつの間にか消えてしまったアザのことを書いたのだが。

 数年ぶりにまた出現したのである。このアザが。今度は右肩Σ(;・∀・) それも、今回は3つ。なんなんだろう、本当に。

 以前出たときは心臓の真上の位置で。そりゃもう、くっきりはっきり存在を主張していたものだったが、今は跡形もない。そこにアザがあった痕跡など、きれいさっぱり、なくなっている。指で触れてみても、通常の皮膚の感覚があるだけだ。

 そして、右肩にはっきりと出現した3つのアザ。謎である。

 別に痛くもかゆくもないし、また以前と同じように、数か月もすれば消えてしまうという確信があるので放置しているのだが。

 なにかを知らせるサインなのかな、なんて思ったりもする。ただ、以前のときも、アザが現れたから何かがあったわけでもなく、また、消えた時期になにか特別なことがあったわけでもないので、今回も多分、なにもないのだろう(;;;´Д`)

幸せの料理 2

 料理には、作った人の心がこめられていると思う。

 以前住んでいた部屋の近くに、小さなパン屋さんがあった。イートインのスペースはなく、売り場も狭い。パンの種類も、いわゆる大手のチェーン店に比べたら、その4分の1。

 よく行く散歩道の途中にあったので、ときどき、買うことがあった。引き戸をあけ、すぐ右手がレジ。いつもはそこに誰もいない。奥の部屋で、パンを作っているから。

 声だけが、客を出迎えてくれる。「いらっしゃいませ~」と。

 パンを選びレジの前に立つと、絶妙のタイミングで白い三角巾のお姉さんが登場。手早く袋詰めにしてくれる。

 

 私はこのパン屋さんで、不思議な体験をしたことがある。
 いや、不思議な体験というには、あまりにもささやかなものかもしれないが。

 ある日。通勤途中にそこのパンを買った。ごく普通のサンドイッチ。

 お昼休み。その日はとくに忙しく、くたくただった。とにかく疲労感がすごくて、食欲もあまりない。

 なかば義務的に、持ってきたサンドイッチを口に運ぶと・・・・。

 ??????

 その瞬間、びっくりした。うまく形容できないのだが、初めての体験。味が美味しい・・というのとはまた別で、なんというか、エネルギーが濁流となって流れこんでくる感じ。
 とにかく、流れこんでくるのだ。何かが。よくわからないけどその何かは、疲れをすべて押し流し、ぼんやりした意識まで、覚醒させた。

 味ではないのだ。
 何か本当に、そのときはエネルギーを感じた。飲みこむと、自分の体がどんどん力を増していくのを感じた。

 ただ、それだけの話なのだが、それはまさに、初めての感覚だった。

 ちなみにその後も、サンドイッチを食べる機会はあったが、あのときのような衝撃を再び体験することはなかった。

 あの日、白い三角巾のお姉さんは、特別に気合いを入れて作ったんだろう、と私は思った。このサンドイッチを食べる人が、元気になるようにと。いつもにはない、なにか特別な思いが、あったのではないかと勝手に想像した。
 そしてたまたま、私はそれを買ったのだ。

 数値にはできないし、目に見えるものではないけれど。人の気持ちというものは、料理にこめられるのだなあと、そう思う。

パーソナルカラーの変化

 パーソナルカラーというものがあるそうです。

 どんな人も、大きく分けて4つのグループにわけられるそうで。それぞれのグループには、合う色、合わない色があり。

 私は過去に2度、このカラー診断を受けていますが、それぞれ違うことを言われてしまったんですよね。

 最初は、スプリング(春)のグループだと言われました。そして、一番似合う色はキャナリーイエローだと。

 これ、言われたときにすごく納得したのです。昔、黄色が似合うって友達に言われたことがあったし。
 あと、冬にみかんを大量に食べるので。そういうとき、手のひらが黄色くなる(^^)
 肌の色も、イエローベースだと思ってました。

 でも、それから2年くらいたったときに、またカラー診断を受ける機会があって。そのときには、典型的なサマー(夏)タイプだと言われてしまいました。

 こういうグループって、色素による判断だから一生変わらないと聞いたことがあるのですが、変わることもあるのでしょうか?

 実は、サマーには憧れていまして。好きだった人が、サマータイプの人だったから。いいなあ、と思っていたのですが、最初の診断から数年経って、自分のカラーもサマータイプになるなんて、びっくりです。

 そう言われてみると、変化はあったかも・・・。

 当時、パステルカラーとか、そういう柔らかい色を着たほうが似合う、と、会社の同僚に言われたから。

 黒じゃなくて、きれいな淡い色を着た方がいい。と、真剣にアドバイスされました。

 憧れていたら、体の色素まで変わってしまうこと、あるんですかね。今までそんなこと言われたことなかったのに、そういえばその頃、「色が白いね」と言われたり。

 うれしかったけど、不思議でした。
 ミカン食べて、よく手のひらが真っ黄色になったのは、自分でもはっきり覚えているのです。
 感心するくらい、黄色でした。
 私ってまぎれもなく黄色人種だなあと、つくづく手のひらを眺めたものです。

 それが、なぜサマータイプに変わってしまったのか。

 今も、サマータイプのままなのか、興味があります。2度目の診断から数年たって、また、肌の色は変わったりしたのだろうかと。

 また機会があれば、診断を受けてみたいなあと思うこの頃です。サマーのままか、スプリングに戻るのか。それとも、まさかのオータムだったり?

 パーソナルカラー診断、面白いですね。