カバンに揺れていた黒猫マスコット

 高校のときの話。仲のよかったMちゃんという子が、私の持っているジジのマスコットを欲しがった。ジジは、映画「魔女の宅急便」に出てくる猫だ。私はその映画が別に好きなわけではないし、テレビで放映されたときにチラっと見ただけだし、なぜジジのマスコットを持っていたのか、自分でもよくわからない。

 誰かにもらったのかな。覚えていない。自分で買ったものでないことだけは確かだ。

 カバンの持ち手のところに、マスコットのヒモを結びつけていたように思う。そもそも、なんでカバンにつけたのかも、よくわからない。私は当時、アクセサリーの類に、全く興味はなかったのだ。

 だけどともかく、そのジジを見つけたMちゃんが、「可愛い」と目をハートにして、マスコットを欲しがった。私はとても冷めた気持ちで、「ダメ」と言い放った。

 ジジに、執着があったわけではない。「欲しい」と言われると、急に価値が上がった気がして、惜しいような気持ちになったのだ。私自身は、そのマスコットに特別思い入れがあったわけではない。

 Mちゃんに欲しいと言われた後、一人になって、この黒い猫の、どこが可愛いんだろう・・・としみじみ眺めた。なんの変哲もない、ただの猫。派手でもなく、媚を売る姿でもなく。けばけばしいマスコットなら、たぶん私は引き出しにしまいこんで、2度と出さなかっただろう。

 人目をひかないような地味な雰囲気だったから、ほんのきまぐれで、カバンにつけた。

 そしてそれを、Mちゃんが目にした。

 それから何度も、Mちゃんは私に「その猫可愛いよね。頂戴♪」と頼んだ。

 どこまで本気かはわからないけど、私はそのたびに断った。

 Mちゃんとは、20才のときにお茶したのが最後。手紙のやりとりは、22歳まで続いた。

 この頃、Mちゃんのことを思い出す。

 私はジジに興味がなかった。戯れにカバンにつけていただけだ。Mちゃんがそんなに欲しいものだったら、あげればよかった。

 物は、それを心から欲する人のもとにあるのが幸せなのだと思う。

 実際、私はそのジジのマスコットを今、持っていない。私にとっては、どうでもいいものだったから。何かにまぎれて、引越しの折にでも、捨ててしまったのだろう。

 今になって、Mちゃんが本当にジジのマスコットを欲しがっていたんだなあということが、よくわかった。私があげれば、きっと大喜びしたんだろう。そして、ずっと大事にしてくれたと思う。引越しに紛れて、捨てられてしまうこともなかったはず。

 私が持っているよりも、Mちゃんが持っていたほうがよかったと、そう思った。

厳しかったピアノの先生

 私は4才から16才まで、音楽を習っていた。最初はヤマハ音楽教室。皆で合唱したり、合奏したりと遊びながら音楽と触れ合った。

 その後エレクトーンのコースをとって、そのコースが終了すると同時に、近所のピアノ教室に通い始める。

 エレクトーンの先生は、ものすごく優しい先生だった。私はその優しさに甘えて、どんどんわがままな子供になっていった。弾いている最中、何度も間違えると、自分で自分が許せなくなり「もうやめた」と演奏を中断。

 最後まで弾かなくては駄目よ、と優しく諭す先生に、「だって嫌なんだもん」と言い返す始末。可愛くない子供である。だがY先生は決して怒らず、困ったわねえと言うだけだった。当時の先生は、こんな言葉をノートに書いた。

「今月の目標:途中で投げ出さず、最後まで弾きましょう」

 とてつもなく低い目標である(^^;

 テクニックうんぬんの前に、まず最後まで弾けと。

 そして、そんな優しいエレクトーンの先生の後に習ったのは、スパルタなピアノの先生だった。2人の先生のギャップは、すごいものがあった。

 私は別にプロの音楽家を目指していたわけではないのだが、ピアノのT先生はとにかく厳しく、妥協を許さなかった。一度、「言われた通りのリズムがとれない」という、ただそれだけの理由で激しい叱責を受け、なんと途中で帰されたこともあるのだ。小学生相手に、それはどうよ?という気もする。

 「もうこれ以上やっても無理。帰りなさい」

鬼のような形相の先生を前に、私はすごすごと帰るしかなかった。

 あるときには、上手く弾けない私に苛立ったのか、私の手をペシリと叩いてみたり。とにかく怖かった。今でも思い出すと、笑顔の先生ではなく、怒ったような表情の先生が浮かんでくる。

 あまりにも怖かったので、私は前の生徒さんがピアノを弾いているとき、教室に入れなかったことがあった。本当は前の人が弾いているときに挨拶をして教室に入り、部屋に置いてある本を読みながら待つ、というのが決まりだったのだが。

 部屋に入れない私は、教室の周りをうろうろ歩いていた。花壇に植えられた花を触ったり眺めたりしていると、2階の窓が開き先生が怒鳴った。

「なにしてるの!早く上がってきなさい」

そして私はとぼとぼと、重い足取りで階段を上がるのだ。

 だが不思議なことが1つある。そんなにも怖い先生だったのに、私はそれが理由でやめようと思ったことは1度もない。これは自分でも、本当に不思議。そうまでして続けなくてはならない理由なんて、どこにもないのに。

 なぜだかわからないが、私は「ピアノは習って当たり前のもの」と思いこんでいた。だから、選択肢に「やめる」というオプションはなかったのだ。どんなに怖くても、「やめよう」だの「やめたい」だのという気持ちは、全く無かった。

 中学生になり、部活が忙しくなると、レッスンを遅い時間にずらしてもらった。相変わらず練習をさぼる不出来な生徒で、お世辞にもピアノが上手な生徒ではなかったが、先生も長く教えるうちに愛着がわいたのかもしれない。本当はやっていないような遅い時間、特別に私のために、レッスンの時間をとってくれた。

 ただし、怖さは変わらず。

 私が下手なせいもあるのだろうが、先生はいつもピリピリしていて、レッスン中には全くなごやかな空気はない。

 16才のとき、事情でピアノをやめることになった。レッスン最後の日。先生はしみじみと、こう言った。

「あなたがこんなに続くだなんて、全く思っていなかったのよ。すぐにやめると思っていた。だって、教室にすら入れなくて、外にいたこともあったでしょう?」

怖かったんです・・・・とは、先生には直接言えなかった。

「それと、1つ謝らないといけないことがあるの。あなたは1日のレッスンの最後になることが多かったから、私は前の生徒さんのときのイライラを、あなたに持ち越してしまうことがあったと思う・・・・」

そうですよね、と、その言葉に内心深くうなずく私なのであった。

 なんだかわからないけど、最初から怒りモードのときがあったもの。先生がピリピリしていて、ちょっとのことでもすごく怒られたり。自分でも???と思っていたのが、先生の言葉で氷解した。

「前の子が練習してこなかったりすると、どうしてもね・・・。それが2人も3人も重なった後にあなただと、つい当たってしまったことがあったから。ごめんなさいね」

 そして先生はお別れにと、いつもは弾かないピアノの曲を、数曲弾いてみせてくれたのだった。怖かった先生が、その日はとても優しかった。8年間の師弟関係。最後の日が一番、近づけた瞬間だったように思う。ただただ、怖いだけの存在だった先生が、その日は違っていた。

 今思うと、いい先生だったなあ。一度も「やめたい」と思わなかったのは、そんな先生だったからなのかもしれない。無意識に、それをわかっていたからなのかもしれない。

 その先生のおかげで、譜面さえあればとりあえず、知らない曲でも弾けるようになった。買ったままでしまいこんである『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の譜面、今年中には弾けるようになりたいなあと思う。近所にピアノを貸してくれる音楽スタジオがあるので、一度出かけてみるつもりだ。

キャセイパシフィック航空のCM

 いいなあと思うCMがある。キャセイパシフィック航空のCM。CNNを見ていると、よく流れる広告だ。歌声が耳に残る。こんな歌詞。

Everyday I wait for you

Have you gone away?

Will I see you again?

>毎日あなたを待っている

>遠くにいるの?

>また会えるかな

>部分は、私が日本語に訳したものだ。

歌は英語のみ。

淡々と歌われている。

オルゴールの素朴な音色をバックに、見知らぬ異国の風景。そして、forget something? (なにか忘れてませんか?)の文字。

 別に再会を待ち望む相手がいるわけではないのだが。

 なんとなく、遠いどこかに会いたい相手がいるような気分にさせられる。CMマジックである。

 いつか行ってみたい外国はエジプト。実際にピラミッドを見てみたいのだ。砂漠の中に立って、満天の星空を見てみたいというのもあるし、バザールのざわめきを体感してみたいというのもある。

 昔、久保田早紀が「異邦人」という歌を歌っていて、私はその異国情緒に憧れた。バザールを表現したこんな歌詞。

>祈りの声 ひづめの音 歌うようなざわめき

 これを聞いたとき、ブワァーっとイメージが広がった。実際にはそんな場所に行ったことなどないのだが、そういう場所に立っている自分を想像してうっとりした。周りの雑音が心地よいというか。

 私はもともと、大勢の中に紛れる自分、というシチュエーションが好き。その場所にいて、違和感のない自分を、心地よく感じる。大きなパズルの中、その中の一片である自分が好き、というか。

 砂漠の星空って、さぞかしすごいんだろうなあと思う。遮るもののない、360度の視界に、キラキラ輝く光点の美しさ。見上げてみたい。

 実は今年に入ってから、エジプト旅行を真剣に考えた時期があった。パスポートを更新したり、いろいろ具体的に動いたのだが、結局実現しなかった。だけど不思議なもので、エジプトで観光している自分自身を、心の中でたやすく思い描くことができる。

 キャセイパシフィック航空のCMを見ながら、「海外に行くなら、エジプトだな」と思う今日この頃なのだった。 

美しい人

 美しい人を見ました。ちょっと(かなり)遅い話題ですが、マックスファクターのCMに出てた綾瀬はるかさん。綺麗だな~。

 動画を見て、あまりに美しいのでうっとりでした。恋人?と思われる男の人は、肩の一部だけがぼやけて映っていて、その人とほぼ同じ目線で彼女を見るアングルです。

 私は女性ですが、もし男性だったら。そしてこの、綾瀬さんに向かい合っている男性だったら、やっぱり見惚れてしまうでしょうね。

 私は派手な化粧や洋服は嫌いなんですが、このCMの綾瀬さんはお嬢さんぽくて素敵。清楚だし、素直そうでまっすぐで、こんな女の子に優しく微笑まれたら・・・。間違いなく、惚れますね。(きっぱり)

 「私じゃ、駄目かな」なんて台詞もありましたけど。駄目なわけないじゃ~ん、と思わず言いたくなってしまった。

 「何か言ってください」という言葉の後、不安な目をするところがキュートです。相手の顔に答えを見出そうとして、瞳が揺れるんですよね。ぐぉ、可愛い。可愛すぎる。その揺れの中に、「やっぱり駄目かも・・・」とか、「もう会えない?」とか、悪い予感が胸をよぎってるんだろうなあと思わせるものがあって、ほんの短い時間のことなんですが、その表情にたくさんの思いがつまっている。

 好きな相手にこんな顔(しかもかなりの至近距離)されたら、もう、言葉を失ってしまうでしょうね。CMの中の男性は、やっとのことで一言。「綺麗だよ・・・」わかります。わかりますよ~。長い言葉なんて言えない。だって、本当に綺麗なんだもの。ただ、吸い込まれるようにみつめてしまいますよね。

 素直な一言。本当に率直な感想。それを受けた綾瀬さんのはにかみ方がまた、素晴らしい。

 その照れ方が初々しくて、好感持てました。綺麗だよと言われて、傲慢な態度がつい出てしまう人もいるだろうし、優越感にひたる人もいるかもしれない。

 だけどこのCMの中の綾瀬さんは、好きな人、それもたった今まで、「きっと自分を好きになってはくれないだろう」と思っていた相手からの賛辞が本当に嬉しくて、偽りでない素直な感嘆が胸に響いたのでしょう。恥ずかしくて目を見られなくなってしまう心の流れが、とても自然に伝わってきました。

 この2人は、どういう設定なんだろうと考えました。

 男性の方は、30位? 綾瀬さんとは知り合ったばかり。なにか助けてもらうようなことがあって、お礼の意味で食事に招待したとか。

 綾瀬さんに対しては、好感はもっているけど、それはまだ知人レベル。

 食事といっても、別に下心があるわけでなく軽い気持ちで。2人きりでの食事は、ちょっと意味ありげかな~と、自分でも多少、気にするところもあり。

 いつも明るくてカジュアルな服装が多い彼女が、今日はレストランの雰囲気に合った大人びた装いで。灯りの下で見る彼女の肌が、まるで陶器のように輝いていて。自分をじっと見つめる瞳が、せつない感情に揺れているのを見たらなんだか、不思議な気持ちがこみあげてきた・・・と。

 綾瀬さんの立場からしたら。

 たぶん、綾瀬さんはもう、最初から恋におちてたんでしょうね。だけど言えない。自分じゃ駄目なのは、わかっている。ずっと一緒にいたい。でも言えない。

 そんなときに、お礼といって、食事に誘われて。

 もしかしたら、会えるのはこれが最後かなーなんて思っていたのかもしれない。だから、一番きれいな自分になって、会いにいった。後悔のないように。

 彼の目に映る私が、せめて、綺麗でありますようにと願いながら。

 彼の口から、否定的な言葉が出てくるのが怖かったんでしょう。理性ではわかっていても、悲しい言葉は聞きたくない。だから、黙りこんでいつもと様子の違う彼を前にして、不安になる。

 そして、怖いと思いながらも、本音が聞きたいと願ってしまう。

 短いシーンではありましたが、想像がふくらみました。

 綾瀬さん、とても綺麗です。

 このCMを作った人のセンスは素敵ですね。演出が素晴らしいと思いました。

石原真理子さんの暴露本に思う

 石原真理子さんが暴露本を出したとのこと。私はまだ読んでいないが、内容はかなりきわどいものらしい。特に、昔不倫をしていた安全地帯の玉置さんのこと。彼に骨を折るほどの怪我をさせられたとか。ショックだった。

 暴露という形に、「今さら」という批判もあるようだが、私は気の毒だなあと思った。石原さんに同情してしまった。たぶん彼女の心の傷は今も癒えず、あれからずっと、痛み続けていると思うから。

 それは、石原さんにとっても、玉置さんにとっても、不幸な恋愛だったはず。だけどそれに気付かず、今でも恋愛感情を残しているようにみえる石原さんは、深く病んでいるように思う。

 健康な女性は、暴力をふるう男を好きになったりはしない。暴力をふるわれたら、怒り、悲しみ、すぐに自分を守ろうとするだろう。百年の恋だっていっぺんに冷める。そんな相手と、一秒だって一緒にはいられないはず。

 ひどい暴力をふるわれて、それでも離れられないのは、女性の側になにか深いトラウマがあるのだと思う。それが正常な判断力を狂わせ、幻影をみせる。

 不倫が騒がれた当時、年下の彼女が会見をして、そのときに見せた涙。対して、玉置さんは全く表に出てこなかった。今考えると、おかしいよなあと思う。猛烈なバッシングを受けたのは彼女だけで、なぜか玉置さんはあまり批判されていなかったような。

 あまりにも強烈な体験をしてしまうと、そこから抜け出すのはなかなか難しい。周囲のサポート、そして本人の変わろうとする強力な意志がなければ、自分を変えることはできないのだ。

 

 石原さんは、今、幸せではないと思う。苦しんでいると思う。もう終わったこととして涼やかな顔をしているのは表だけで、実際は今なお、消えない記憶にあがいているのではないだろうか。