2007年 レ・ミゼラブル 観劇記 2回目

 2007年6月16日(土)ソワレ。帝国劇場で『レ・ミゼラブル』を観劇しました。以下はその感想ですが、ネタバレが含まれておりますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 以前と演出が一部変わっていたのですが、総合的に見て、私は以前のバージョンの方が好きです。いくつか、変更場面を挙げてみます。

1仮出獄許可証を手にしたバルジャンが、宿を借りようとして断られる

以前は、農場?で働いたのに、他の人より賃金が少なくて前科のある惨めさを痛感、というシーンでした。自分だったらどっちがショックだろうと考えてみました。労働賃金が少ない方が、悲惨な感じでしょうか・・・。宿よりも、その方がバルジャンの憤りを素直に実感できるような気がします。

2ニ幕が開いた直後、スモークの中に、スローモーションのように浮かび上がる若者たち。バックに穏やかな曲が流れる。

以前は無音だったのに、今回は、場にそぐわないのんびりした曲が流れています。私はなぜか、「おもちゃのチャチャチャ」をイメージしてしまいました。命を賭けた戦いのはずなのに、曲の雰囲気がまるで合っていません。ここで曲を、しかもこんなに緊迫感のない曲を使う理由がよくわからないです。

 以前のように、無音の後、スローモーションが終わると同時に曲が溢れ出る、そういう演出の方がよかったような気がします。

3ガブローシュ死の場面で、「ちび犬でも・・・」の歌ではなくなっている

いやー、ここはどうして変えてしまったのか。胸にせまる場面だと思うのに、ガブローシュの健気さが伝わらなくなってしまいました。

私は、今回の新曲を初めて聴いたときに桃太郎侍の名台詞を連想してしまいました。わかる人にはわかってもらえる感覚だと思います。

以前のように、ガブローシュが強がりを歌いながら弾を拾う演出にした方が、よかったです。ガブローシュが恐くなかったわけはありません。撃たれる恐怖を感じながら、それを吹き飛ばすように、いつものように歌っていたあの、「ちび犬でも・・・」の言葉。

 あれを変えた理由が、よくわかりません。

4革命を夢見て死んでいった若者を、女たちが悼む場面で、歌詞が変わっている

新歌詞だと、小さな頃から知っている若者を失ったショックを歌ってます。死がより身近に感じられる、人ごとではない衝撃が伝わってきて、以前よりこちらの方がいいなあと思いました。

近所に住んでいて、生まれたときから大きくなる過程をずっと見てきた、そういう若者の死は重いはずです。なぜ死ななければならなかったのか。なにを求めたのか。嘆き悲しむ人がいる一方で、

誰が泣く?と冷めた見方をする人もいて、そういう世間の縮図が見える場面です。

 気付いて気になったものだけを挙げましたが、4以外は、以前の方がいいなあと思う演出の変更でした。とくに2と3は、変わったことで感動が薄れてしまったように思います。演出家は同じジョン・ケアードさんなのに、何があったんだろう?と不思議な気持ちになりました。同じ人が演出したとは思えない、センスの相違です。

では次に、バルジャン以外の出演者の感想です。

・コゼット役 菊地美香さん

声が好きです。以前のたまきさんや河野さんよりも、私は菊地さんの声が好き。なんていうんだろう、主張してる声。個性がある声です。清楚だし、お嬢様ぽいイメージがコゼットにぴったり。バルジャンに対する愛も溢れてるし、過去を教えてと父に迫る場面もよかったです。

・エポニーヌ役 坂本真綾さん

甘いフワフワな女の子のイメージが拭えず、エポニーヌにはちょっと合わないかと思いました。普通に可愛らしくて、マリウスにも好かれそう。好きな相手に受け入れられないせつなさを表すのには、蓮っ葉なところが欲しいです。

・ファンティーヌ役 シルビアさん

落ち着きすぎてしまってる感じがしました。ファンティーヌの若さゆえの過ち感、未熟さがもっと欲しかったです。

・アンジョルラス役 坂元健児さん

やっぱりいいですねえ。バズーカ健在。これだけ気持ちよく歌い上げてくれると、すがすがしいです。頂点で歌うのがすごく似合っています。美貌のカリスマアンジョルラスとは、ちょっと違うかもしれませんが。

・テナルディエ役 駒田一さん

悪いテナルディエに見えず、いい人オーラを感じてしまいました。下水道で歌うシーン、あそこで「テナルディエが強がりながらもふと見せる、不安。自分の行動への懐疑」が見えるといいなあと思います。私は三遊亭亜郎さんの演じるテナルディエが好きでした。こすっからいというか、小物感がうまく表現されていたと思います。

・テナルディエ妻役 森公美子さん

やっぱり森さん突き抜けてるなあ、と思ったのでした。上手い役者さんはたくさんいるし、上手いひとならどんな役でもそこそここなしてしまうと思うけれど、森さんは、中でも一枚上手。森さんのテナルディエ妻は、頭一つ抜きん出ている感じ。周りの空気を読んで素早く反応してるし、見ていてすごく面白いです。

・マリウス役 泉見洋平さん

私にとって、去年演じた『ダンス・オブ・ヴァンパイア』のアルフレート役のイメージが強い役者さんなのですが、やっぱりレミゼの中でもアルフレートを見る目で見てしまいました。コゼットの家の庭で「君の名前も知らない」などと会話を交わすシーン。身づくろいしようと服をパタパタさせるマリウスのしぐさが可愛らしくて、まるでサラを追いかけるアルフだな・・などと思ったのでした。

・ジャベール役 今拓哉さん

ジャベールが持つ凄みが、足りない感じがしました。もう少し、そこに立つだけで「おおっ!」と後ずさってしまうような威圧感が欲しかったです。

 では、山口バルジャン初日の、全体の感想を書きます。

 最初、山口さんの第一声、「自由なのか~」が小さかったように感じました。それ以外にも、全体的に薄いイメージ。登場人物がそれぞれ、なんとなくぼんやり霞んでいるような。あんまり響いてくるものがなくて、舞台との距離感を感じました。物理的なものではなく、胸に響く迫力がなかったような。

 そんな中で、光っていたと感じた人を挙げてみます。菊地さん、坂元さん、森公美子さん。この3人はそれぞれ、きらきらと輝いていました。

 オーケストラの演奏は、ときどき、歌と微妙に合っていない感じがしました。呼吸を合わせるのは難しいと思いますが、これも回を重ねればどんどん良くなっていくのでしょう。

 子役のガブローシュ君。「バンザイ!」というところと、「ラマルク将軍が死んだ」という台詞をもう少し頑張って欲しかったです。あのバンザイは声が小さいのが気になりました。ラマルク将軍・・はもう少し感情をこめると、もっとよくなると思います。

 以上、久しぶりのレ・ミゼラブル観劇記でした。次に見に行くのは8月を予定しています。

2007年 レ・ミゼラブル 観劇記 1回目

 2007年6月16日(土)ソワレ。帝国劇場で『レ・ミゼラブル』を観劇しました。以下はその感想ですが、ネタバレが含まれておりますので、未見の方はご注意ください。なお、感想は、山口祐一郎さんが演じたバルジャンについてのみ書いております。その他の役については、後日あらためて書く予定です。

 およそ1年ぶりに、山口バルジャンとの再会。楽しみにしていた本日の舞台ですが、今日はバルジャンを演じる山口祐一郎さんの裏声に、心を全部持っていかれてしまったのでした。もう、その一言に尽きます。

 バルジャンが、自ら隠していた素性を明らかにする場面です。「にいよんろくごうさ~~~ん!!」と絶叫するのですが、その「さ~~~ん!」がですね、綺麗な裏声でした。瞬間、私の脳内では女学生の全国コーラスコンクールが開催されておりました。乙女の声です。

 淀みなく、澄み切ったその声が辺りの空気を清浄化しておりました。

 私はこみ上げてくる笑いを、必死で抑えて。舞台を見ずに、視線を下にさげて、なんとか落ち着こうとがんばりました。脳内のセーラー服映像は消えず。無骨なバルジャンが、清らかな乙女へと変容したその映像は、いつまでもぐるぐると頭の中を回っていて。

 そういえば、『ダンス・オブ・ヴァンパイア』を初めて見たときにも、クロロック伯爵がサラを誘惑にくる場面が覗きにしか見えず、噴出したっけ・・・などと、この場に関係のないことを思ったりして。

 完全な失敗だと、思いました。裏声で歌うはずがないと。それが裏声になってしまって、なった以上は涼しい顔で、まるでこれが当初からの予定であったかのように歌いきったのだと思いました。あまりに堂々とした歌いっぷりは、山口バルジャンのレミゼが初見であれば、失敗だと思わないレベルです。

 「ああ、やっちゃった・・・・・・」

 恥ずかしいだろうなあ。この失敗を、後後まで引きずらなければいいけど。今日終わった後、落ち込んだりするんだろうか。

 そんな心配までしてしまいました。

 ところが終演後、一緒に見ていた友人と語り合ったところ、彼女は「あれは演出だよ。そういう歌い方をするようにしたんじゃないの?」と言うのです。

 「ええええ? あそこで裏声って、ありえないでしょ。失敗して、だけどそこはプロだから、うまくカバーして、失敗に見えない完璧な裏声を聞かせてくれたんじゃないの?」

 私たちはいろいろ語り合いましたが、結局結論は出ませんでした。明日以降、裏声で歌うかどうかで、真実がわかると思います。

 あの場であの裏声。あれはハプニングであって、確信的、意図的なものとは違うのではないでしょうか。あれは、バルジャンの魂の叫びですから。きれいな響きで歌うというよりも、心の底からわきあがってくる情熱を、そのまま言葉に乗せて吐き出すのが似合うと思うのです。裏声でそれは、不可能です。

 裏声が素晴らしく活かされていたのは、「彼を帰して」の最後、「う~ち~へ~」の響きですね。これは本当に透き通ってました。信仰に篤いバルジャンが神様に対して、己の欲を捨ててひたすらに祈る。聖人にふさわしい、美しい声でした。心が洗われるような気持ちになりました。邪念がないまっすぐな声が、どこまでも光を伴って伸びていくようでした。

 このフレーズは逆に、裏声でないと観客に伝わってきません。そもそも高い音だから、地声で出すのが難しいというのはあると思いますが。仮に地声であの音が出せたとしても、あそこにはファルセットがふさわしいような気がします。あの清浄な雰囲気を出すには、裏声でなければ。

 今日の山口さんは、まだ本調子でない?感じがしました。

 初日ということもあり、慎重に探りながらやっている印象です。たくさんの役者さんと共同で作り上げる舞台ですから、周りと呼吸を合わせたり、場の雰囲気に馴染むのにはやはり、数日必要なのかなあと思いました。今でも十分質の高い舞台だと思いますが、回を重ねればもっともっと、よくなる気がします。

 

 テナルディエ夫妻に、コゼットを引き取りたいと交渉する場面。調子にのるテナルディエの額にお札を押し付けたのが笑えました。(という風に見えたのですが、なにぶん見ていたのがかなり後ろの席なので、もしかしたら見間違いもあるかもしれません)。

 テナルディエ夫妻とバルジャンの絡み、好きなんですよね。軽妙な漫才コンビみたいで。

 あそこで笑うと、なんだかほっとするのです。悲惨な時代、悲惨な暮らしの中に生きる、小悪党のたくましさを見たようで。

 テナルディエの滑稽さを、バルジャンが受けとめ、そしてやり返す。この流れが好きです。

 今まで(2003年~2006年)、私が山口バルジャンを見る上で一番好きだったシーンは、なんといっても「バルジャンの独白」でした。これを見るためにレ・ミゼラブルを見ていたといっても過言ではないほどです。改心し、生まれ変わろうとするバルジャンの心の変遷。圧倒的な歌唱力に乗って放たれるパワーには、いつも感動していました。

 ところが今日の「バルジャンの独白」は少し、迫力に欠けていたような気がします。やはり千秋楽が近付かないと、あの神がかり的な歌は聴けないのでしょうか。

 その代わり、というのも変ですが、第二幕の年老いてからの歌が凄かったです。マリウスに過去を打ち明け、コゼットを託すシーンの哀しみ、気迫。

 そして、揺れるろうそくの炎を前に、小さなコゼットを回想するバルジャンの寂しさ。

 私は泣くつもりはなかったのですが、気付くと泣いてました。ハンカチをバッグから出して手元に用意しておかなかったことを、後悔しました。

 人はいつかは死にますが、バルジャンはコゼットを育て上げ、マリウスに託したことで心の平安を得たのでしょう。死に臨んだバルジャンの、穏やかな声の響きが胸に染み入りました。

 カーテンコールで、心和んだことが一つ。山口さんが、床に落ちていたお花のかけら?を丁寧に拾い上げたのです。それは、お花が踏まれては可哀想と言う気持ちもあっただろうし、それを踏んで誰かが怪我をしてもいけないという、気遣いでもあったでしょう。

 ミニブーケは出演者が皆拾っていましたので、それはたぶん、ちゃんとしたブーケではなく、そこからこぼれ落ちた一部、だったのだと思います。

 そしたらその後、ジャベールを演じた今拓哉さんも、まるで山口さんに習うかのように、舞台上に落ちていたかけら?を拾い上げたのです。

 こういうのって、いいなあと思いました。優しさとか思いやりが伝達するのを見て、心が温まりました。

 山口さん以外の出演者、演出についての感想は、また後日書きます。 

『真犯人』風間薫著

 風間薫著『真犯人』を読了。以下、その感想ですが、思いきりネタバレしていますので、未読の方はご注意下さい。

 中原みすず著『初恋』と登場人物が重なる本だ、と聞いていたので、読んでみました。非常に面白かったです! これは、『初恋』の後に読むと、かなり謎が解けます。

 中原みすずさんと、風間薫さんはお互いに顔見知りのようです。2人の違う視点から描かれた三億円事件の真実。『初恋』で感じた霧が、すーっと晴れました。

 これは私の考えですが、真実は風間さんの本の方が近いと思います。私には、『初恋』の登場人物みすずが(これは中原みすずさん本人?)実行犯だとは、やっぱりどうしても思えないのです。2冊の本の中で、2人の著者は同じ人物をそれぞれ別の名前で描いていますが、ここでは便宜上、『初恋』の登場人物名を使いたいと思います。

 まず岸について。『初恋』で解けなかった謎は、『真犯人』で解けました。岸が事件を起こした理由です。それは、いかにも当時の若者的な、権力への挑戦という単純なものだけではありませんでした。岸は当時政府高官だった、自分の父親に挑戦したのです。そして敗れました。

 みすずを通じて送り返した三億円は、表に出ることがなかったからです。現金は、闇から闇へ消えました。戦いを挑んではみたものの、岸が望んだ勝利はそこにはありませんでした。

 『真犯人』を読んで思ったのは、岸は現金を送る隠れ蓑、隠し場所として、みすずを利用したのだということです。みすずは実行犯ではなく、現金をアパートから送る役割を担当したのです。たしかに、それなら適任だったといえます。大学に入学したばかりの女子学生のアパートに三億円があるなんて、ぶっ飛んだ発想だからです。犯人を追う側からしたら、予想もしないことだったでしょう。

 

 ではなぜ、『初恋』の中でみすずが実行犯として描かれていたのか? きっとみすずは岸を本当に好きだったんだと思います。だから本当なら、実行犯にもなりたかったはずです。小説化にあたって、その方がドラマティックでもあるし、脚色したのも自然の流れかなあと思いました。もしも実行犯だったら、もしもそれを岸から頼まれたなら・・・想像をふくらませて、物語ができあがったのではないでしょうか。

 『真犯人』を読み終えた後、甘酸っぱい気持ちになりました。みすずの描いた理想の世界、空想の世界。それが『初恋』でした。しかし現実には、みすずは岸の複数のガールフレンドの一人にすぎず。『初恋』の中で、インドを放浪したまま帰らなかった岸は、『真犯人』では日本に帰国し、日本国内で心臓発作で亡くなったと記述されています。

 どちらが信憑性が高いかという話ですが、私はなんとなく、『真犯人』の方が真実のような気がします。

 岸が本当に、心からみすずだけを愛していたとしたら。インドへ出かけることはなかったでしょう。岸もみすずも独身で、二人を阻むものはなにもなかった。岸は日本に残り、愛するみすずと一緒に暮らしたでしょう。仮にどうしてもインドへ行きたかったとしても、みすずと離れる寂しさに耐えかねて、数ヶ月程度で、すぐに帰国したのではないでしょうか。

 現実には、岸はみすずの元に戻らなかった。岸はみすずに好意を抱いていたのでしょうが、それはあくまで好意で、愛ではなかったのだと思います。

 みすずは、「岸はインドへ行ったきり帰らなかった」という物語を作り上げたのかなあと思いました。日本にいるのに連絡をくれないのだとしたら、こんなにはっきりした失恋はありません。だから、みすずの心の中では岸は、幻の恋人としてインドへ消えたことになっているのだと思います。

 岸という人は、運も味方したとはいえ、あれだけの完全犯罪を可能にしてしまった頭のきれる人物です。もしも本当に愛する女性がいたら、実行犯どころか、計画のほんの端っこにさえ、その人を関わらせることはなかったと思います。その人を巻き込むことはしなかったし、自分の犯した罪を徹底的に押し隠し、その人の前では何ごともなかったかのように、無関係を装ったのではないでしょうか。

 

 岸と亮がなぜお互いに惹かれあったのか。それも、『真犯人』を読んで納得です。2人は同じような影を持っていた。だからこそ共感し合い、秘密を共有したのでしょう。他の人には理解できない微妙な心の揺れも、言葉に出さずともわかりあえたのだと思います。

 読み物としての面白さ、文章のうまさは『初恋』ですが、三億円事件の真実に近いのは『真犯人』だと思いました。『初恋』の後に、『真犯人』を読むのをお勧めします。これ、順番が逆になると読むのが大変です。『真犯人』はとても読みにくいのです。

 私は『初恋』を読んだ後、『真犯人』に、さっと目を通し、気になる箇所を拾い読みする、というやり方をとりました。全部をじっくり読むには、あまりにも読みづらかったのです。

 実際に起きた事件を語る2冊の本。関係者の多くが亡くなった今だからこそ、語れることもあるのかなあと思いました。

『初恋』中原みすず著

『初恋』中原みすず著を読了。あの有名な、三億円事件をめぐるお話。以下、ネタバレを含んでおりますので、この本を未見の方はご注意ください。

もともと、映画化されたときに「ん?」と興味をひかれていた。地下鉄に貼ってあったポスター。宮崎あおいちゃんが出ていたっけ。三億円事件と初恋。この奇妙な取り合わせ、一体どんな話なんだろう、と気になっていた。

それから、元ちとせさんの歌う主題歌「青のレクイエム」。これが名曲なのだ。

静かなピアノに合わせて歌う声が、耳に残っている。

ということで、期待を持って原作を読んでみた。

全体の文章センスは好き。ただ、表紙の装丁はどうだろう? 内容に全く合っていないと思った。いろんな色のクレヨン?で塗ったブロックはまるで絵本のようで。この本が伝えたかった、岸とみすずの心の交流とはそぐわない。

みすずのイメージは、宮崎あおいちゃんとは違っていた。好きな女優さんではあるけれども、みすずとは違う。あおいちゃんでは童顔過ぎる。

私が想像したのは、どこか日本人離れした違和感のある女性。完全に大人に成長する前の、不安定さのある女の子。見る角度、その日によって、大人びて見えたり、子供のように見えたり、表情がどんどん変わっていく女性だ。

そして必須条件は目の奥の暗さ。それがある女優さんが演じたら、素敵な作品になっただろうなと思った。

私はみすずと岸の交流を、美しいファンタジーだと思って読んでいた。ただ、結局はお嬢さんとお坊ちゃまなのだなあ、という冷めた目で見る部分もあった。

あの時代。日本は今よりずっと貧しかった。大学の、それも私学に通えるのは、それだけでもずいぶん恵まれたことだったと思う。進学したくても経済的に無理で、家庭のために高卒で働きに出た子も、多かったんじゃないだろうか。あるいは、高校に通いながら放課後は家計を助けるためにアルバイトしていた子。

そんな子たちからみすずと岸を見れば、ため息しか出ないだろうなあ。

ジャズ喫茶で仲間と話せる余裕。

それが欲しくて、叶わなかった子も、たくさんいただろう。

みすずは孤独で、可哀想な子だろうか?うーん。本を読んだ限りでは、私はあまり、せっぱつまったものを感じなかった。もっと厳しい状況の子がたくさんいることも知っているし。家庭に恵まれない寂しさは気の毒ではあるけれども、逆を言えば世の中は、そんなに恵まれた人ばかりとは限らない。

たとえば、晩御飯のこと。結局、お金は渡されていたわけで。そりゃ一人で食べるのは味気ないかもしれないが、空腹を耐える情けなさ、辛さはなかったわけで。

新宿御苑で襲われたみすずの心の傷。それがもし本物なら、ジャズ喫茶にはとてもじゃないが、入れなかっただろうと思う。見知らぬ、複数の、不良と呼ばれる人たちがいる場所だから。

寂しいから、そこに出入りすることができたなら。その傷の深さも、人生を変えてしまうほどには大きくなかったということだ。

岸は、みすずの目には魅力的に映っただろうなあと思う。どこか斜に構えて人生を見ている目。仲間内で一人だけ浮いているその空気に、神秘的なものを感じたのだろう。

だが、冷静に考えると、とんでもない奴なのだ。

本当にみすずを大事に思っていたら。大切な人を、まして自分よりも世間をわかっていない年下の子を、事件に関わらせたりするだろうか。東大に通うだけの知性を持っていた人に、それを判断する能力がなかったとは思わない。

三億円を奪うことが、権力への仕返し?打撃を受けるのは、本当に悪い人たちなのか?

インドを放浪し、やがて行方不明になってしまう生き方。あくまで自分中心だったと思う。そのことが、誰かのために、世の中のためになったんだろうか?

みすずの子供時代。伝書鳩を飼えるのは余裕があったということだと思う。本当に意地悪な叔父夫婦なら、なにがなんでも、許さなかっただろうから。

失われた青春、というけれど、あの時代。青春もなにも、生きるために、家族のために、ただただ働き続けた人たちが大勢いた。進学の夢を諦め、他のことを考える余裕もなく。

そのことを思うと、なんとなく、これは「恵まれた人たちの物語だな」という気がする。

この物語がフィクションなのかどうか、結局ぼかして書いてあるけれど。時効を迎えた三億円事件に、著者がなにかしら関わりのあった人だというのは、本当のような感じがした。

真夜中に聴く「鬼束ちひろ」

「僕らの音楽」という番組に出演した鬼束ちひろさんの姿が、とても印象的だった。しばらく休業状態で、久しぶりに公の場に出てきたとのこと。精神的な不安定さが、表情に表れていた。でも、そんな鬼束さんの歌う「everyhome」そして「Smells like Teen Spirits」に魅了されてしまった。

いい曲だなあって。いい歌だなあって思う。迷いとか不安とか、そういうものの中にいる苦しさが伝わってくる。綺麗なものは綺麗。心地いいものは心地いい。そういう単純な次元で、今の私は何度もその2曲を歌う鬼束ちひろさんの姿を、思い出すのだ。

聴いていて、心が慰められた。言葉にするのは難しいのだが、その世界に浸っていると、少し楽になれる気がする。

小林武史さんのピアノがまた、心にじわじわと浸透してくるのだ。ピアノって、本当にいい音色の楽器だと思うし、それを思いのままに操り響かせるのは、弾き手にとって快楽の極み。

弾き手の心が、音になって鬼束さんを誘い、そのオリジナル、特注の船に乗ってゆらゆら、鬼束さんが進んでいく感じ。果てもなく広がる海を想像した。それは静かに凪いだ海だけど、一つとして同じ波はなく、世界にはその船と、船上で歌う鬼束さんしかいない感じ。

つい最近、一青窈さんとの不倫が騒がれた小林さんだけど、実は一青さんでなく、鬼束さんに惹かれているのでは?と一瞬、思ってしまった。

鬼束さんの歌唱は、「上手い」というのとはちょっと違う。うまさで言うなら、たぶん昔の方がずっと安定していたように思う。だけど今の鬼束さんの危うさ、脆さが、私の心にひたひたとしみ込んできた。

「僕らの音楽」では3曲歌ったけれど、その中の「流星群」に関して。これはもう、圧倒的に過去の方がうまかった。聴いていてつらくなってしまうほど、今の鬼束さんには合わない感じがした。だけど逆に、その他の2曲。「everyhome」「Smells like Teen Spirits」に関しては、これは過去の鬼束さんには歌えない。今の彼女だからこそ、歌える歌のような気がした。

その時代その時代、体現できるものは変化し続けるのだなあ、と、そんなことを思った。

鬼束さんを初めて知ったのは、「月光」。この曲を聴いたとき、綺麗だと思ったけれど、それほどの求心力は感じなかった。もともと私はCOCCOが好きだったこともあって、私の中では鬼束さんはCOCCOに似た人、という位置づけだった。裸足で歌うところや、曲のイメージに、似たものを感じていた。それが、一歩進んで強烈な印象を残したのは、「私とワルツを」。

出だしからいきなり、心を鷲掴みされた。

圧倒的な力で、曲の世界に引き込まれてしまった。その晩餐の重苦しさは、ユーミンの「翳りゆく部屋」と同種のもの。

この一曲によって、私の鬼束さんイメージはすっかり変わってしまった。誰かに似ている歌手、ではなくて、鬼束さんにしか書けない、鬼束ちひろの世界観。

鬼束さんで好きな曲は、「私とワルツを」「眩暈」「infection」。復活後では、「everyhome」の他、「MAGICAL WORLD 」だ。真夜中に聴くと、鬼束さんの作り上げた世界は一層、深みを増すように思える。