今日は、某浄水場を右手に眺めながら歩いてた。ちょうど夕暮れ時で、オレンジの光が広大な土地を照らすのが、柵越しに見えて、頭の中をくるくると廻り始めたメロディは、松任谷由実さんの『セシルの週末』。
この曲いいなあ。ユーミンは正直、個人としては苦手なんだけど、アーティストとしては凄い人だと思う。『ベルベット・イースター』や、『翳りゆく部屋』、『守ってあげたい』『リフレインが叫んでる』などなど、名曲がいっぱい。
『リフレインが叫んでる』は、初めて聴いたのが何気なくかけてたラジオで、たった一度聴いただけで心を鷲掴みにされたもんね。曲も詩も、強烈だった。
『セシルの週末』は、じわじわ来た感じ。今日の夕焼け、そして浄水場の情景は、なぜかこの曲を思い起こさせて、胸がチクチク痛んだ。
単純な痛みじゃない。いろんな昔の感情が蘇るから。
aikoさんもこの曲をカバーしている。aikoさんの方が声が綺麗だ、と思う。ユーミンの声は、いわゆる美声というものではない、と思う。だけどユーミンの歌う『セシルの週末』には不思議な説得力があって、私はユーミン派なのである。
決して同情を誘うような歌い方をしていない。だからよけいに、歌の中の女の子のまっすぐな気持ちが、そのままストレートに胸に沁みる。
誰になにを言われようとも、自分の信じる人に認めてもらえたら、その瞬間に人は変わっていくんだなあと思う。
曲の中の女の子。自分の良くない部分も、全部わかっていて、自分が周りからどう思われてるかも敏感に察知していて。自分を貶めて、それで投げやりになっているんだけども、差し出された救いの手を素直につかめるだけ、汚れてないんだなあと思った。
本当に絶望していたら、もう手をつかむことさえできないだろうからね。
「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉を思い出した。たとえば誰かの手を借りて、苦境を抜け出そうとするならば。まずは、助けてくださいと、求めることが必要なわけで。
歌詞の中の女の子はきっと、暗闇の中で手を伸ばしていたんだろうなあ。そして、それに気付いて差し出された手。その手を信じて、その手にすがった。
だからもう恐くない。
だからもう、それ以外のものはいらない。
陳腐な言い方だけど、本当の愛に気付いたら、それ以外のものはいらないという感覚、わかるような気がする。願望は果てがないというけれど、究極の幸せって、愛だよなあ。
いい詩や曲に出会ったとき、私はよく感情移入するんだけれども。
このセシルの週末の主人公が、変わり始めたときの感覚、今日の夕焼けの中で体感したような気がした。なんでこの状況でセシルの週末?っていう疑問はおいておくとして(^^;
理屈じゃなくて、ふっと不思議な感情に囚われる瞬間があるのだ。
ああこの光景。この匂い。どこか懐かしい、せつない空気の色。
昔、ある人が私に、「このときこんなことがあって、こんなものを見て、そしてこんな気持ちになりました」というメールを送ってきたことがあって。
それを読んだとき、私はまざまざとその情景を脳裏に浮かべて、まるで自分がその場にいたような気持ちになったのだ。「わかりますか?」と、その人は問いかけていた。言葉ですべてを説明するのは難しいから。そのときの空気のすべて、感情のすべてを伝えようとして、でも言葉ではとても全部は伝えきれない。
もどかしさも含め、私はその人が見たものを体感した・・・ように思った。
もちろん、誰かの認知したものを、自分も同じように感じたと思うのは、幻想にすぎないかもしれないけれど。頭の中など、視覚で確認するわけにもいかず、2人はそれぞれ別のことを思っているのかもしれないけれど、でもそのときたしかに私は、その人が見たであろう景色を見たし、その人の感じたものをそのままダイレクトに感じた気がしたのだ。
不思議な感覚だったなあ。
言葉は、手がかりにしか過ぎず。
私も、そのすべてを言葉で上手に表すことはできなかった。だからもどかしいその人の気持ちも、よくわかった。
後日、本人に会ったときにメールの話になり、「わかります」と言ったら、その人は嬉しそうに笑った。
そのとき、たぶんこのとき感じたものは、他の人には決してわからないだろうなあと思った。他の人は他の人で、私たちとは違う場所で、随時違う感情を共有しているんだろう。感じ方、センスというのは人それぞれで。努力とは違う領域にある。
同じ感覚を共有する瞬間、これは奇跡に近いものがあるのかもしれない。
同じ相手だとしても、いつも起こるわけではないから。
『セシルの週末』を聴いた人には、それぞれの物語があるんだろう。私は夕陽の中で、静かな決意を胸に秘め、昨日よりも確実に強くなった女の子を想像した。