懐かしい景色

 しばらくぶりの更新です。

 いろんなことを考えてました。でも昨日で一区切りついたというか。

 昨日、懐かしい街へ出かけました。駅前のロータリーは変わっていなくて、ちょっと泣きそうになりました。空はよく晴れていて、時間だけが流れていた。

 時間の概念についてはいろいろな考え方があると思いますが、ある本を読んだらこんなことが書いてありました。過去も未来も、確定したものではないと。今この瞬間しか、確かなものはないと。

 えー?過去こそ、確定したものじゃないの?未来はこれから起こることだから改変可能だけど・・・なんてそのときは思いましたが。過去は、結局は記憶の中にあるものだから。それに、この世界のなにがいったい現実でなにが架空なのか、本当は確かめる術なんてどこにもない。

 自分がどこから来たのか、なにを信じればいいのか。

 確かだと思えるものは、自分の感情だけで。ただ、快は快。不快は不快。

 昨日、友人と話して「個」を痛感しました。それぞれ、欲しいものは違うんだなあって。

 私が全く欲しくないもの、むしろ、くれるといってもお断りしたいようなものを、彼女は欲しいという。そしてそれは、たいていの人が欲しいものだと、彼女は言う。

 逆に、私は彼女が要らないものに、とても魅力を感じました。むしろ、そこにしか興味はないというか。理解できないと言われましたけど(笑)

 私はやっぱり、変わってるんでしょう。もう言われ慣れました。

 昨日出かけた街は、一時期勤めていた会社のある街で。けっこう思い入れがあったんですよね。複雑な感情がまだ残っていて、だから用事がない限り、たぶん一生行かないだろうなあって思ってました。少なくとも、今はとてもじゃないけど、自分から出向くような気分になれない。

 すべての出来事に意味があるというのなら。出かけようと思って、自分の感情を冷静にみつめようと決めてました。電車に乗って、窓の外の景色をくいいるように見てた。

 一駅、一駅、近付くごとにやっぱり胸は痛くなったし。だんだん、懐かしい景色が見えてくるほどに、感慨深いものがあって。

 そこに自分がいたから、その後の自分が繋がったというか。

 点と点じゃないんです。ドミノ倒しみたいな。流れにはすべて、関連がある。

 きっとこの場所で働いていた記憶がなかったら、その後の自分は居なかっただろうなあって。この場所で、あの時代に出会った人たち一人ひとりの顔が蘇って。

 それは嬉しくもあり、懐かしくもあり、そして痛くもあり。

 時間があれば、その会社の前まで行くつもりでした。そこに立ったとき、自分はなにを感じるだろうかって、そう思った。

 まあ、結局よけいなところに行っている時間もなかったのですが。

 駅前のロータリーで、昔の私を思い出したのは確かです。電車に揺られて、通勤してたなあって。いつも駅前のコンビニで、お決まりのサンドイッチにヨーグルト。来る日も来る日も、飽きるまで同じメニューを繰り返し買っていたことだとか。

 当時の自分は、時々考えていましたね。未来の自分は、たとえば10年後の自分はいったいなにをやっているだろうって。そして20年後はさらに、どんな変化を遂げているだろうかと。

 今自分がいるこの瞬間を、どんなふうに思い返すだろうかって、そんなことをふと思った日もあったと思います。

 やっぱりその街の記憶は、すごく意味深いなあ。

 そこから始まって今がある。

 子供の時、近所にでっかい道路がありまして。まだ小学校に上がる前の私にとって、その道路は、世界の境界線だったわけです。一人では、どうしても超えられないボーダーラインだった。

 この道路の向こう側には行けない。誰に教えられたわけでもなく、そう思いこんでいた。どんなことがあっても、その向こうに自分の居場所はないんだって。

 いつか時間が流れて、私はいとも容易くその道路を渡り、その向こうの世界へ、東京へ私は来たわけです。成長したなあ。

 そのときそのとき、ボーダーラインはあるのかなと思います。子供のころの私にとって、その道路が越えられない境界線だったように。今の私には、今の私なりに、越えられない(という気がする)自分が引いた線がある。

 その線の内側に居る限り、新しいことはなにもない変わりに、自分を脅かす存在というものもないわけです。内側の心地よさは、お風呂の生ぬるさに似ているかも。思わず居眠りしてしまうほどの心地よさ、安心感。そこに居る限り、傷つくことはないから。

 今日もいい天気ですね。

 窓から、青空を眺めてます。また、一日が始まります。 

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