暗記した詩というのがいくつかあって、それをときおり思い出しては、口ずさんで楽しんでいる。言葉の響きや、連想する情景に胸をうたれる。
もちろん、そうした詩に出会えるのはめったにないことで。
私が心惹かれた詩は、これまでに三篇。そのうちの一つは、以前にも書いた西脇順三郎さんの『太陽』。
『太陽』が、見知らぬ異国の初夏のイメージならば、秋から冬にかけて、金木犀の香りと共に思い出すのは一條和春さんの詩だ。
今はもう、遠い昔。
なにげなく古本屋さんに足を踏み入れ、なにげなく棚を眺め、なにげなく手に取った一冊の本。
本当に、すべてが偶然だった。なんの予備知識もなく、その本を手に取り。そして、表紙が気に入って買い求めた。
漫画だったけど、内容はほとんど覚えていない。ただ、その漫画の中に出てきた詩が、とても印象的だった。
漫画の作者は一條和春さんなので、一條さんが書いた詩なんだろうと思う。
漫画のストーリーとはまったく別のところで、私はその詩が好きになってしまった。その詩だけが、独立していたように思う。絵柄もストーリーも、関係のないところで。その詩だけが、異世界を構築していたような。
それはこんな詩です。
>東京世田谷松蔭神社前における
>逢魔の見事な投身自殺
>小さな頤(おとがい)は
>冷たくレエルの上に映ゆ
>それは路地裏に幽(ゆら)ぐ青い燐光か
>金木犀の仄かに香る月光蘭灯(ランプ)か定かでなく
>ただ一つわかるのは
>彼女の魂はもうここにはいないのだと
もしかしたら、漢字の使いかたなど、ちょっとうろ覚えなので多少、原文と違っているかもしれませんが(^^;
この詩は、読み終えたときに、目の前に寒々とした空気が漂ってくるような感覚がありますね。
果たして逢魔に命があるものかどうか。レールではなく、レエルとした言葉遣いも、独特の雰囲気だと思いました。
私のお気に入りの、高架橋があります。
先日、そこを通りがかったときに、すぐこの詩を思い出しました。夜になれば人通りもまばらとなり、冷気があたりを包みこむような寂しい場所です。
高いところだから、眼下の景色がよくみえます。あたりには視界をさえぎる物もなく、遠くに高層ビルが見えます。眼下にはどこまでも、線路が伸びていきます。
レールは、何本も通っています。どのレールにどの列車が通るのか、切り替えが大変だろうなあと心配になるくらいです。
しんと静まり返ったその向こうに、月が煌々と輝いていました。
世田谷の松蔭神社には行った事がありません。でも、この詩の情景には、この高架橋のほうが似合うのではないかと思ってしまいました。しばらくその場でお月見です。人が通らない不気味さや怖さはあったのですが、その眺めはぞっとする美しさでした。
人の気配のしない詩、ということでは、『太陽』と共通しているなあと思います。
どこにも、誰の気配もしないから。その情景を眺めている、自分という視点があるだけです。『太陽』にはドルフィンを捉えて笑う少年が出てくるけど、この少年は人間じゃないだろうなあ(と、私は勝手にそう思っている)。
どこまでも、この世界とは違う、また別世界の話ではないだろうかと、そんな気がするのです。
逢魔、という言葉が暗喩するのは、異世界で。だから、この一條さんの詩も、きっと別世界のことを詠っているのかなと思うのです。
私はこの、別世界の持つ、不思議な雰囲気が好きなのです。一歩足を踏み入れたら、二度と帰れないような怖さを含めて、その静けさに安らぎを覚えるというか、懐かしさを感じるというか。
夜、その高架橋の下を通る貨物列車にも、妙な感慨を覚えるのです。あの貨物列車に乗っていったら、いったいどこに辿り着くのかなあ、なんて。夜通し走る列車に乗っているのは、運転手さん一人きりでしょうか。闇の中を、たった一人でどこまでも走るのは、どんな気持ちなのでしょう。
そうそう、そもそも夜行列車という存在そのものが、なんだか胸をざわめかせるんですよね。一度は乗ってみたいと思っていて、数年前、カシオペヤ号に乗り北海道へ行きました。憧れて憧れて、期待に胸をふくらませて乗ったものの、すぐに頭が痛くなってしまって、実際にはあまり楽しめませんでした(^^;
軽い頭痛が続く中、憂鬱な気持ちで、窓の外を眺めていたのを覚えています。いったん乗ってしまえば、途中下車して気分転換というわけにもいかず、「なんだか空気が薄い気がする・・・・」なんて思いながら、眠りについたのでした。
秋から冬にかけては、どことなく寂しい気持ちになる季節ですが。そのたびに、この詩を思い出します。
寒いのは嫌ですが、でもその一方で、寒さを気高く感じたり。どんな生温さも受け付けない、その冷たさを綺麗だと感じたり。
気温が下がるにつれ、月は輝きを増しますね。寒さの中で美しさを増すものもあるのだと、そう思いました。