山に行ってきました。といっても、そんな山奥ではなく、空気の綺麗な田舎を散策~という感じです。
もうずっと、「山に行きたい」と思っていたので。
秋の山はちょっと寂しいけど、その寂しさがいいのです。
もう冬に向かって、まっしぐらって雰囲気が胸にしみます。外で食べるお弁当はおいしいし、いい気分転換になりました。
山道をなにげなく歩いていたら、崩れ落ちて自然に還りかけている平屋の豪邸を発見。それは、大きな道路からは見えない位置で、静かに朽ちていく木造の家でした。すぐ脇には、現在も人が住んでいる気配のあるお家があります。
ということは、このお家は壊さずにわざと、そのままにしているのか? それとも持ち主はまったく別人だから、手をだせずにいるのか?
詳細はわかりませんが、人の住む家からあふれる生活感と、もう誰も住まない家の持つ独特の息づかいのようなものが、とても対照的でズシっときました。
崩れていくお家は、障子も破れ、戸も開け放ったままで。屋根には落ち葉やら枝がうずたかく積もり、風雨にさらされて今にも壊れそうで。でも凛とした佇まいが、往時の権勢を思わせるのです。屋根瓦も本格的。新築のときには、さぞかし見栄えがしただろうなあと、想像できるようなものです。
家はそれほど広くありませんが、作りのひとつひとつが丁寧で、施主の思い入れが伝わってくるのです。
外から見る限り、家の中にはそっくり荷物が残っていました。箪笥もテーブルも、生活のあとはそのままに、ただ埃が静かに積もっていて、なにもかも遠い昔のことだと主張しているようでした。
乱雑に散らばった生活用品は、主がいなくなった後に、誰か侵入者があったんでしょうか。無粋なことをするなあ、と思いました。
この家に最後に住んだ人は、どんな人だったんだろう。しばし、見知らぬ人に思いを馳せました。
おじいちゃん、おばあちゃんだったんだろうか。この家を新築したときは、若夫婦だったのかも。若夫婦は自分たちの家を建て、この家で新しい生活が始まった。
何人か子供が生まれ、忙しいながらも充実した月日が流れ、やがて子供たちは大きくなり。
一人、また一人と都会に出て行ったまま、子供たちは遠くに根を下ろして。
縁側でおじいさんとおばあさんは、ときどきは、子供たちの話をしたかもしれない。
あの子は、小さいときあんなことがあったね。こんなときがあったね。楽しかったねえ。元気で暮らしているといいねえ。
時が流れ、おじいさん、おばあさんは一人になり。子供たちは都会に来ないかと誘ったけれど、きっと最後まで、この家にいたいと答えただろうなあ。
一人になっても、やっぱり家の中には子供たちの思い出がたくさん残っていて。あの柱の影で、この部屋で、走り回った子供たちのことを思いながら、時間を過ごしたんだろうか。
やがて、突然に、最後の一人もいなくなるときはくるわけで。
住む人のなくなった家は、急速に傷んでいく。
家の脇に、樫の木の大木がありました。ちょうど、その崩れていく家を見下ろすような位置です。幹の太さからいって、おそらくこの家がそこに建ったときから、その歴史を見守ってきたのだと思います。
この樫の木は、全部見ているんだなあと思いました。
新築の、希望に満ちた始まりの日のことも。子供たちの笑い声も。そして、最後の一人が去った日のことも。
どんな気持ちで見守ったんだろうと思うと、せつないです。思わず幹に手を触れました。
この木だけが、全部見てたんだなあ。
人の住んだ歴史というか、空気には、独特のものがありますね。それは、残留するような気がします。時間が経っても、過去は残るわけで。
学校に勤める知人の言葉を思い出しました。生徒たちが帰った後、一人で遅くまで残っていると、もう誰もいないのに、教室には昼間のざわめきのようなものが残っているんだよと。本当に不思議なものだし、きっと錯覚だと笑われるかもしれないねと、自嘲するように。
そのざわめきの感覚。
想像できるような気がします。
もう誰もいないのにね。昼間のエネルギーがそのまま残っている感じ。決して錯覚ではなく、そういうのって、あると思う。
建物に残る雰囲気は、独特だ。そこにいた人の思い、みたいなもの。
廃墟を見て感じるノスタルジイです。
古い建物の持つ歴史には、惹きつけられます。そこにどんなドラマがあったんだろうって思う。自然に、胸がざわめく感じ。
秋の山で、思わぬ廃墟をみつけ、物思いにふけりました。これから冬に向かう時期特有の、午後の光の弱さも、廃墟には似合っていたような気がします。もう二度と、時間が遡らないことを思い知らされるようで。ただひたすら、朽ちていくしかない。誰も、あそこに住む人はいない。もう、あの家に人の声が響くことはないと。
秋らしい一日でした。