一真の台詞

『ガラスの仮面』美内すずえ 著 の、雑誌最新掲載分を読んで思ったことや、今後の展開予想について語ります。過去のネタバレを含みますので未読の方はご注意ください。また、暗い話についても触れていますので、暗い気分になりたくない、という方は、読まない方がいいと思います。

前回、私は速水さんが紫織さんと結婚して、その犠牲と引き換えにマヤが紅天女を勝ち取る、という予想を書いたのですが。

ただ、何かが違うなあ・・・とひっかかるものを感じていたのは確かで。その何かというのは、「それが結婚で離れたものならば、いつか離婚し、また二人が結びつく可能性はある」ということでして。

速水さんと紫織さんとの結婚は、速水さんとマヤの絶対的な別離というわけではないでしょう。この世に二人が生きている限り。この世で二人が実際に会ったり、話をすることは物理的に可能。
するか、しないかの問題だけですもんね。
たとえ紫織さんがずっとずっと、そのまやかしの結婚にこだわり続けたとしても。現に速水さんもマヤも、その同じ世界に生きていて。呼吸して、活動して、それこそ意志さえあれば、すぐにでも触れあうことは可能なわけです。

究極の別れとはなんぞや。

それは、二人が違う世界に存在すること、なのかなあと。
違う次元に存在することになれば、もう、物理的な接触は不可能になります。
記憶とか、思い出とか。そういう精神的なものでの結びつきでしかなくなる。

一真の台詞。

>死ねば・・・恋が終わるとは思わぬ・・・

この言葉の持つ意味を考えれば、この世で引き裂かれる試練ではない、それ以上の試練が、阿古夜にはあったということで。

死の向こうにあるもの。
それを超えて、あなたはずっと、その人と繋がっていられますかと。
その人を信じることができますか、と。
それが阿古夜に突き付けられた試練なのだとしたら。

紅天女候補のマヤに、足りないものがあるとしたら。紅天女の心を掴む、最後の要素はなにか。

魂のかたわれとして巡り会い、一度は全身全霊で愛した人と、死によって残酷に引き裂かれるという悲劇、なのではないでしょうか。

死をもってしても、魂のかたわれであり続けられるのか? そもそも死とは、なんなのでしょう。

魂は永遠だというなら、死は一つの通過点に過ぎず。
肉体がすべてというなら、死はすべての終局。

どちらが正しいのか。
証明する術などどこにもない。

死とはなにかを考え始めると、それは生とはなにかという問いにつながり。では、生まれた意味はなんなのか、とか。生に対する死とはなんなのか、と。果てしなく、堂々巡りのように思考が広がります。

魂のかたわれ、という概念はとてもロマンチックで。そこに作者は、どう生と死を絡ませていくのだろうと。たぶん、これからエンディングに向かって語られるのは、作者自身の哲学なのだと思います。作者が何を考えているのか、黙っていたままでは他人が知るすべもないそれを、「紅天女」という架空の劇空間で、漫画という手段をもって表現しようとしているんですね、きっと。

私はそれを知りたい、見てみたいと、強く思います。
どんな結末が、そこには用意されているんだろう。

ハリウッド映画ならきっと、マヤが紅天女を勝ち取り、同時に速水さんの愛も手に入れて、二人はいつまでも幸せに暮らしました・・・でエンドロールですよね。

だけど、『ガラスの仮面』では、違う答えが示されるような気がするのです。雑誌掲載分が、単行本になったときにはざっくりエピソード削られていたり、あるいは加筆されていたり、という試行錯誤は、それだけ作者が真剣に着地点を模索しているのかなあと。
最終的に描きたいものは決まっていても、それをどう読者に伝えるか、表現方法は無数にあるわけで。その迷いが、雑誌掲載分と単行本との違いに表れてきてるのかもしれません。

きっと、単行本にした分だって、本当は「もう少しああしたらよかった」とか、「この展開にした方がよかったかも」という迷いは、あるんだろうなあと思いました。

マヤにとって一番悲しいのは。
速水さんが紫織さんと結婚することよりも。自分の世界から速水さんがいなくなってしまうことの方ですよね。

この場合、速水さんが阿古夜で、マヤが一真になるのかな。
阿古夜は一真のために、我が身を差し出す。一真(マヤ=紅天女を演じるという夢、彼女のレゾン・デートルそのもの)のために、阿古夜は我が身を滅ぼす。そうすることで究極の愛を捧げる。見返りのない真心を。
この場合、紫織さんは、戦そのものを暗喩するのかな。無益な執着心やエゴそのものを。それが、阿古夜(速水さん)を殺すことになる。

見返りのない愛、といえば速水さんは。
マヤに憎まれながらもずっと、変わらぬ優しさでマヤの成長を見守り、遠くから励まし続けた。
無条件の愛を、体現したような人だったなあ。
ときおり見せた、里見茂や桜小路君への嫉妬は、御愛嬌ということで・・・。人間らしいといえば、人間らしい感情です。
やがてそういうものをすべて乗り越えて、彼がマヤに捧げる愛情の最終形態は・・・・それこそがきっと、紅天女の答えなのでしょう。

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