作品「A」

 最近、私の中の『ガラスの仮面』熱が高まっております。 それで二次創作、パロディのHPにもお邪魔させていただいているのですが、皆さん凄いですね。二次創作サイトの数自体も多いけど、質が高くて、ひしひしと原作への愛が伝わってきます。

 愛されてますね。速水さんとマヤちゃん。
 もうキャラが独立して、歩き始めてるんですね。

 私が夢中になってるサイトは2つあります。それでさっき、中でも私が大好きな作家さん(この方はもはや素人ではなく、プロの域)が作品「A」(本当のタイトルは出せないので、仮にAとします)を更新されてて、待ってましたと飛びつくように読んだんですけど、泣けました。

 感動して泣くのって、自分でも驚きました。
 そんなに長いお話じゃないんですけど、その一部を読んだだけで。涙がブワーっとあふれてきて。
 

 泣くつもりないのに、気付いたら涙がつつーと。涙と鼻水でエラいことになったので、しばらくティッシュと格闘して。なんとか今、落ち着いてます。それで、私もブログを更新したくなりました。

 「愛」について語りたくなったのです。陳腐だけど。
 それがどんな作品か、ここで具体的に作品名とか紹介せずに解説するのもどうかと思ったんですけど、でも語りたいんで、語っちゃいます。作品「A」を読んで思ったことなど。

 速水さんって、愛の権化なんですね。愛を人間にして、服着せてみましたらこんなん出ましたけど、みたいな。
 それで、愛にあふれてて、優しいんだけどその優しさはちゃんと、強さを伴った優しさで。

 上っ面じゃなくて、本当にマヤちゃんのこと愛してるんだなあって。そういうのに触れると、なんか泣けてきませんか。真摯な愛情、純粋な愛情って、別に自分に関係なくても、それを見ただけで泣けるもんなんだなあと実感したのです。

 なんだろう。心の奥に響いてくるものがあるというか。
 圧倒的な愛を感じると、感動します。

 やっぱり、速水さんに比べたら全然、マヤは子供で。愛情の深さも、天と地ほどの差がある、と思いました。もちろん、マヤがマヤなりに恋してるのも惹かれてるのもわかってますが、速水さんがマヤちゃんを想うのって、それを遥かに凌駕してると思います。

 たとえばもし、速水さんがマヤを失ったら。それがどういう形であれ、彼は、廃人(言葉は悪いけど)になるだろうと、それが容易に想像できてしまう。そこには喜びもないし、未来もないし。マヤの代替の人間なんて思いつかない。速水さんにとって唯一無二の存在がマヤで。
 そしてそんな速水さんに気付かないのが、マヤの天然たる所以であり、魅力なのだなあと。

 マヤは全然わかってない。
 どんなに速水さんがマヤを恐れ、慈しみ、崇めるようにしてその微妙な距離を保ってきたか。

 速水さんは基本クールで大人で、普段は余裕かましてますが(笑)、本当はマヤの前ではいつだって完敗で、汗ばんでるんですよね。緊張して不安で、どう振る舞うべきかいつも迷って。
 怯えてるといってもいい。マヤを失うのを恐れてる。やっと手に入れた魂のかたわれが、離れて行ってしまうことを。嫌われて、拒絶されて、二度と手の届かない場所に行ってしまったら、きっと速水さんは狂ってしまう。

 一方マヤは。
 ぜーんぜんそんなの、わかってないと思う。
 「私の方が速水さんを好き。速水さんは大人だから、私なんて相手にしてくれないだろうな。きっと速水さんの周りには、私よりもずっと速水さんにふさわしい、きれいな相手がたくさんいて」なんて、それなりに可愛い嫉妬をしているんだろうけど。

 案外、速水さんを失っても大丈夫じゃないかと。
 

 これは作品「A」を読んだから、というわけでなく、原作を読んでいたときにも思ったのですが、マヤは速水さんを失っても、ちゃんと立ち直るはず。それだけの強さをもっているし、なんていうか、速水さんへの思いは、そこまで絶対的なものではないと感じるんですよね。
 速水さんがどれだけ深くマヤを愛しているかというのを考えたときに、マヤ→速水さんの思いの量など、たいしたことないんじゃないかって思える。

 私が作品「A」を読み終えたとき。
 頭の中で、My Little Loverの『DESTINY』、その一節が鳴り響きました。

>アイシテル 愛している ただその言葉だけで

 愛という言葉は陳腐かもしれないけど、つきつめれば、最後に残るのは愛なんだなあと、そう思ったのです。
 誰かを好きになって、それは最初は恋かもしれなくて。

 でも本当にその人を心から、存在丸ごと、魂のかたわれレベルで愛したら。語る言葉はもう、「愛してる」しかないんですね。

 この気持ちを、あふれる思いを。もうどう表現したらいいのかっていう。そしたら最後には、「愛してる」しかなくて。
 それ言ったからどうだってことじゃないんですけど、もう言わずにはいられない瞬間があるっていうか。ただ目の前の存在が愛しくて愛しくて、感情が自然にあふれ出して、相手に伝えてるんだか、自分に確認してるんだか、その区別もつかないけどとにかく、「愛してる」って言葉が出てきちゃうわけです。

 作品「A」の速水さんはとにかく優しくて。
 マヤを傷つけないようにっていう気遣いがよけい、泣けました。

 もう、見ててマヤに説教したくなりましたもん。

 マヤちゃん、あなたぜんっぜんわかってない!
 速水さんがどれだけあなたを大切に思ってることか!!

 いや、理不尽な説教ですけども(^^:
 そんなこと言われてもマヤちゃん、ぽかーんだろうし。
 そんな邪魔者が現れたら、即効で速水さんが退去させるだろうけど。

 愛してるって、いいですね。本当に、そう思いました。

憎しみに代わるものを手に入れたから

『ガラスの仮面』美内すずえ 著を読んでの感想です。今日はちょっと短いですが、少しだけ。思ったことをつらつらと書いてみます。

もし速水さんがマヤと出会っていなかったら・・・。

破滅へのカウントダウンは、静かに始まっていたと思うのです。速水さんは英介への復讐心を心の支えに生きてきたけれど、いざ紅天女を手に入れたときには、果てしない虚しさと孤独が彼を打ちのめしたと思うから。

目標を達成した瞬間が、速水さんにとって地獄の始まりになったでしょう。

そもそも、愛情をもらうべき親(たとえ血がつながらなくても)、たった一人の肉親を憎まねばならなかった時点で、彼の心はひどく傷ついていたはず。その傷の痛みに気付かなくてすんだのは、紅天女への執心が、感覚を麻痺させていたから。

速水さんは、紅天女さえ手に入れればこの底知れない絶望から逃れられると思っていたんだろうけれど、それは違う。速水さんが望むものは、そこにはないと思う。

誰かを憎む心は、自分の心を蝕んでいく。ゆっくりと、着実に。誰かを憎むことは、自分の心を傷つけるということだ。怒りは毒になり、体中を回る。

昔の写真を見て、紫織さんが、速水さんの笑っている写真が一枚もないと驚いていたけれど、彼がそれに耐えられたのは「紅天女を奪い、英介に復讐する」目標があったからだ。

マヤに出会い、マヤを愛することで憎しみの心は消えていった。今速水さんは、英介を憎んでいるだろうか? 私はそうは思わない。マヤを愛することで、速水さんの中で憎しみなどはどうでもいい存在になり、マヤを思うときの温かい気持ちが傷を満たし、ぽっかりあいた心の空洞を、ひたひたと埋めていったのだと思う。

一真の台詞

『ガラスの仮面』美内すずえ 著 の、雑誌最新掲載分を読んで思ったことや、今後の展開予想について語ります。過去のネタバレを含みますので未読の方はご注意ください。また、暗い話についても触れていますので、暗い気分になりたくない、という方は、読まない方がいいと思います。

前回、私は速水さんが紫織さんと結婚して、その犠牲と引き換えにマヤが紅天女を勝ち取る、という予想を書いたのですが。

ただ、何かが違うなあ・・・とひっかかるものを感じていたのは確かで。その何かというのは、「それが結婚で離れたものならば、いつか離婚し、また二人が結びつく可能性はある」ということでして。

速水さんと紫織さんとの結婚は、速水さんとマヤの絶対的な別離というわけではないでしょう。この世に二人が生きている限り。この世で二人が実際に会ったり、話をすることは物理的に可能。
するか、しないかの問題だけですもんね。
たとえ紫織さんがずっとずっと、そのまやかしの結婚にこだわり続けたとしても。現に速水さんもマヤも、その同じ世界に生きていて。呼吸して、活動して、それこそ意志さえあれば、すぐにでも触れあうことは可能なわけです。

究極の別れとはなんぞや。

それは、二人が違う世界に存在すること、なのかなあと。
違う次元に存在することになれば、もう、物理的な接触は不可能になります。
記憶とか、思い出とか。そういう精神的なものでの結びつきでしかなくなる。

一真の台詞。

>死ねば・・・恋が終わるとは思わぬ・・・

この言葉の持つ意味を考えれば、この世で引き裂かれる試練ではない、それ以上の試練が、阿古夜にはあったということで。

死の向こうにあるもの。
それを超えて、あなたはずっと、その人と繋がっていられますかと。
その人を信じることができますか、と。
それが阿古夜に突き付けられた試練なのだとしたら。

紅天女候補のマヤに、足りないものがあるとしたら。紅天女の心を掴む、最後の要素はなにか。

魂のかたわれとして巡り会い、一度は全身全霊で愛した人と、死によって残酷に引き裂かれるという悲劇、なのではないでしょうか。

死をもってしても、魂のかたわれであり続けられるのか? そもそも死とは、なんなのでしょう。

魂は永遠だというなら、死は一つの通過点に過ぎず。
肉体がすべてというなら、死はすべての終局。

どちらが正しいのか。
証明する術などどこにもない。

死とはなにかを考え始めると、それは生とはなにかという問いにつながり。では、生まれた意味はなんなのか、とか。生に対する死とはなんなのか、と。果てしなく、堂々巡りのように思考が広がります。

魂のかたわれ、という概念はとてもロマンチックで。そこに作者は、どう生と死を絡ませていくのだろうと。たぶん、これからエンディングに向かって語られるのは、作者自身の哲学なのだと思います。作者が何を考えているのか、黙っていたままでは他人が知るすべもないそれを、「紅天女」という架空の劇空間で、漫画という手段をもって表現しようとしているんですね、きっと。

私はそれを知りたい、見てみたいと、強く思います。
どんな結末が、そこには用意されているんだろう。

ハリウッド映画ならきっと、マヤが紅天女を勝ち取り、同時に速水さんの愛も手に入れて、二人はいつまでも幸せに暮らしました・・・でエンドロールですよね。

だけど、『ガラスの仮面』では、違う答えが示されるような気がするのです。雑誌掲載分が、単行本になったときにはざっくりエピソード削られていたり、あるいは加筆されていたり、という試行錯誤は、それだけ作者が真剣に着地点を模索しているのかなあと。
最終的に描きたいものは決まっていても、それをどう読者に伝えるか、表現方法は無数にあるわけで。その迷いが、雑誌掲載分と単行本との違いに表れてきてるのかもしれません。

きっと、単行本にした分だって、本当は「もう少しああしたらよかった」とか、「この展開にした方がよかったかも」という迷いは、あるんだろうなあと思いました。

マヤにとって一番悲しいのは。
速水さんが紫織さんと結婚することよりも。自分の世界から速水さんがいなくなってしまうことの方ですよね。

この場合、速水さんが阿古夜で、マヤが一真になるのかな。
阿古夜は一真のために、我が身を差し出す。一真(マヤ=紅天女を演じるという夢、彼女のレゾン・デートルそのもの)のために、阿古夜は我が身を滅ぼす。そうすることで究極の愛を捧げる。見返りのない真心を。
この場合、紫織さんは、戦そのものを暗喩するのかな。無益な執着心やエゴそのものを。それが、阿古夜(速水さん)を殺すことになる。

見返りのない愛、といえば速水さんは。
マヤに憎まれながらもずっと、変わらぬ優しさでマヤの成長を見守り、遠くから励まし続けた。
無条件の愛を、体現したような人だったなあ。
ときおり見せた、里見茂や桜小路君への嫉妬は、御愛嬌ということで・・・。人間らしいといえば、人間らしい感情です。
やがてそういうものをすべて乗り越えて、彼がマヤに捧げる愛情の最終形態は・・・・それこそがきっと、紅天女の答えなのでしょう。