『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ著 感想

 ずっと、食わず嫌いならぬ、読まず嫌いで避けていた『神との対話』二ール・ドナルド・ウォルシュ著を読みました。
 以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

 もっと早く読めばよかった~というのが、読後一番の感想です。
 タイトルがあまりにも宗教ぽくて固く思えたので、ずっと避けてきたのですが。その名前だけは、ちょくちょく耳にしていました。

 私のように、タイトルだけで避けている人がいたら、ぜひ、中身を読んでみることをお勧めします。内容は深遠ですが、言葉はわかりやすく、すらすら読めます。神様、という概念が変わる本です。

 この本のすべてを信じる、とかではなくても。
 この本に書かれた文章に、心を打たれる人は多いのではないでしょうか。

 私もです。のめりこむようにして、一気に読んでしまいました。

 この本に出てくる神様は、原罪を、地獄を、そして、約束、を否定しています。

 実は私もずっと思っていました。
 原罪って、悲しすぎると。そして地獄も。神様は、人類に地獄を用意するような存在なのだろうか?と。

 中でも、「約束」について書かれた次の記述には、衝撃を受けました。

>どうしてそんな権利が欲しい?
>ひとがあなたとの約束を破るたったひとつの理由は、もう約束を守りたくないからだよ。
>あるいは、もう守れないと感じるからだ。
(中略)
>ほんとうに、相手が守りたくない約束を守らせたいかな?
(中略)
>ひとに無理やり約束を守らせて、それで自分たちは傷つかずにすむと思うか?

 こういう発想は、今までの自分には全くなかったもので。何度も噛み締めて考えてしまった。

 私は「約束」って、神聖なもの、絶対のものだと思っていたから。「約束」こそが信頼の証。それが破られたとき、関係は永遠に断絶すると。

 でも、じわじわ心の中の声が、この本の記述に賛同するんですよね。確かにその通りだな~と。

 約束を守らせようとすればするほど。きりがないっていうか。
 誓約書にすればいい? 罰をつければいい? 担保があれば、それで安心?

 どれも違うと思う。

 約束を守らせることが、相手を傷つけることにつながるなら。
 傷付きながらも相手には約束を守ってほしい?
 それとも、無理なんてしなくていいから、約束は破っていい?

 本当に好きな相手がいて。その人が約束に苦しめられてるなら。約束を破れば、楽になれるのなら。
 どっちをとるか。自分の苦しみ。相手の苦しみ。
 好きな人が苦しんで、それでも約束を守ってくれて、それって嬉しい?

 昔の私なら。たぶんそれでも、「約束を守る」ことにこだわり続けていたかもしれないけれど。
 今は、なんだか、この本に書かれた「約束」の概念が、すーっと胸にしみこんでいったのです。抵抗なく。

 人は、自由な存在なんだなあということを、あらためて思いました。そうです。心は嘘をつけない。

 約束で縛る、その鎖の重さ。
 そもそも、縛るっていう概念が間違っていたのだろうか。
 約束という条件をつけなければ、相手を信用できないのは、自分が相手を信じていないから?

 もう、約束はいらない、と。そんな気持ちになりました。

 

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