『雪の断章』佐々木丸美著を読みました。以下、感想を書いていますが、思いきりネタバレしていますので、未読の方はご注意ください。
斉藤由貴さん主演の、映画のほうを先に見て、それから原作を読んだのだが。
面白かったです。ハイ。佐々木丸美さんの本は、以前に『沙霧秘話』とか『水に描かれた館』を読みましたが、文体があまり好きになれず、自分とは合わない作家さんだと思っていました。
でも、この『雪の断章』は違います。上記の二作は、修飾語の多用と抽象的な表現が多くて、ストーリーそのものよりもイメージ映像を見せられているようで、抵抗があったのですが。この『雪の断章』はもっとすっきりしてます。普通に読める。
それと、映画で感じていた疑問点が、原作を読んで多々解消されました。
大まかなあらすじは原作も映画も一緒なのですが、映画は肝心なところが改変されていたり端折られていて、惜しいなと思いました。原作そのままを映画にするというのは無理としても、押さえていてほしいポイントがずれていたのが残念です。
小説は、孤児だった七歳の飛鳥と、それを引き取って育てた青年祐也、その友人史郎、彼ら3人の感情の移り変わりを、丁寧に描いた作品です。
原作を読んで一番驚いたのが、最後の最後で祐也が、飛鳥の口から本当の気持ちを無理やり語らせる場面です。私は映画を見たときには、「自分は黙ってるくせに、飛鳥にばかり喋ることを強制して、ずるい人だな」と思ったのですが、そういうことじゃなかったんですね。
飛鳥に「偽善者」と言われたその日から、祐也は自分からは何も言えない立場になってしまっていたんだと。そのことが初めてわかったのです。
そうだったんだ~!!と、目から鱗がポロリ。
信頼していた母代わりの家政婦さんから、ひどい言葉を聞かされて飛鳥は傷ついただろうけど、それと同じ位、祐也だって傷ついていたんだなあと。もうそれ以上、一歩も動けないくらい。だから、飛鳥には何も言えなかった。飛鳥から言ってくれなければ、魔法は解けない。
ここに至るまでの過程が、映画では端折られすぎているのです。映画は時間の制限があるから、そこまで細かいところが描けないのは仕方がないことかもしれませんが、これはこの物語の要の部分なんですよね。
映画を見て、祐也をずるい人だと思った私の印象は、このたった一言であっさりと覆されました。
>「偽善者と決め付けられた時からおまえに近づけなくなったのだ」
小説の中では、祐也は飛鳥ほどには饒舌ではなくて。だけどこの一言で、これまでの寡黙さを許せてしまう。そうかー、そりゃそうだよな、という納得。
もし自分が祐也の立場なら、きっとそうしていた。
「偽善者」と言われて、誤解を解こうとして飛鳥の腕をつかんで、それを冷たく咎められて。その瞬間、今までとは違う自分になったんだと思う。
気軽に笑い合える関係ではなくなったというか。ちゃんと、距離を置かなきゃいけない存在になったというか。そりゃあもう、今までとは段違いの慎重さで、飛鳥を見守るようになったはずだ。
このシーンが、映画だと全然違うんだよなあ。
偽善者と告げるのは、電話越しだし。シャワー浴びてたうんぬんの、意味不明なセリフとか、斉藤由貴ちゃんのデコルテのサービスカットとか。
それに、映画だとそこまで様子がおかしい彼女に対して、出張中の彼は、悠然と構えすぎ。慌てて帰ってくるのが当然の反応だと思うんだけど。映画の場合、彼女の「偽善者」という言葉を聞いてなお、平然と他の女性と食事を続けていて。受けたショックの大きさが全然、表現されてないんだよね。
腕をつかんで、飛鳥の思わぬ拒絶にあい、それを気まずく離すシーンは、小説と違って空港になっている。これは、小説通りに、朝の食卓のシーンのままの方がよかったと思う。日常が、日常でなくなってしまう決定的な場面だから。毎日繰り返される平凡な光景が、その日を境に変わってしまうというのが肝なのに、空港だとインパクトが弱い。
映画の雄一(小説では祐也)は、人間らしさのない、顔のない人物として描かれていたように感じたけれど、小説はもっと、身近な存在だった。神様じゃなくて、そこには苦悩もちゃんとあって。私の好きな表現は、たとえばこんなところ。
小説の中で、史郎のプロポーズを受けることを、飛鳥が祐也に告げるシーン。
>祐也さんの声がかすれて聞こえたのは自分の耳のせいだと思った。
そりゃ声もかすれますって。自分の好きな子が、自分の親友と結婚するって宣言する瞬間だもの。飛鳥の耳のせいなんかじゃなくて、祐也は実際ショックを受けたのだろうし、飛鳥を失う現実を目の前に突きつけられて、でも冷静を装うために必死に自分を立て直していたんだと思う。
映画よりも小説の方が人間ぽく描かれていて、私は小説の方がいいなと思いました。一方、映画のいいところはキャスティングのよさ。
斉藤由貴さん、榎木孝明さん、世良公則さん、イメージはそのまんまなのです。
ただ、映画の中では榎木さんはほとんど、偶像的な撮られ方しかしていなくて。感情の揺れは、あまり表現されていなかったのが残念です。本当は祐也だって十分に、悩んだり苦しんだりしたのですが。飛鳥と暮らす、日常の中の祐也の、微妙な表現が見たかったなあと思いました。
映画で原作の改悪だと思ったのは、世良さん演じる大介(史郎)のテトラポットのシーンですね。これ、小説では出てこないし、これを映画に入れる必要性が、全くわかりません。史郎って、そんな人ではないと思う。これじゃ、史郎がただの弱虫で、死を盾に愛を請うような卑劣な人間に見えてしまう。
それと、時系列が違っているところ。
映画だと、史郎の死の直後に、飛鳥の渾身の告白、ラストシーンがあるわけですが。これはどうかと思いました。飛鳥、いいのかそれで・・・。 相変わらず、このときの祐也は全く顔が撮られていないし。わざと撮らないことで観客の想像力を煽ったのでしょうが、ここは榎木さんの演技が見たかったな。
小説の方が、納得のいくラストでした。史郎がああいう選択をした気持ちがわかったし。
>「いつわかったのだ?高校二年の冬じゃないか。大学受験を放り出した時だな?」
>おだやかな笑顔が、叱られてすくみ上がっていた私をほぐした。
この描写を読むと、史郎の絶望がわかります。顔は笑顔なんだけど、全部終わったことを悟った瞬間というか。このとき、史郎は幕引きをはっきりと決めていたんだと思います。その笑顔が想像できて、ゾクっとしました。凄みがある。
映画だと、気持ちはいつも切り取られた状態で表現されているというか、断片的で。そこに連続性がないから、共感しにくいというか、わかりにくかったです。でも小説だと、細かい心理描写があるので理解できました。
飛鳥が、絶対言えないと思っていた気持ちを告白するシーン。それは、小説の中では、厚子との往復書簡があったからこそです。飛鳥が姉と慕う厚子と手紙のやり取りをする中で、徐々に気持ちが変化していくのが丁寧に描かれていました。
映画だと、まるで史郎のことがきっかけで、祐也に告白したような流れになっているのですが。それはちょっと無理があるかなと。飛鳥のことだから、逆に史郎のことがあれば、ますます口を固く閉ざしたんじゃないかと思います。
映画よりも、私は小説の方が好きです。美しいファンタジーとして楽しめました。