今夜の月は

今夜の月は、ぼんやりと雲がかかっている。どの季節も、月をみるとなぜか、昔のことが思い出される。

私にとっての昔のこと、とは、東京に住んでいたときの記憶のことが多い。夕暮れの風、光、散歩道で出会った人。

月をみていると、そんなことを思い出す。

独り暮らしをしていた部屋から、毎日通っていた職場、スーパー。

あの頃は、ものすごくよく歩いた。金曜日は、電車を使わず会社から家まで、歩いて帰った時期もあった。3~5時間ぐらいかかっただろうか。気になるお店に立ち寄りながら、ときには四谷でクレープ食べながら。あのクレープおいしかったな。

歩きすぎて、足の裏はひどく傷んだ。もともとハイヒールなんて履かず、歩きやすい靴を選んでいたけどそれでも。靴の底は擦り減ったり。なにより、自分の足の裏がひどく荒れた。白くなり、ひび割れ、まるでお年寄りのように。

油分が足りないのかなと思っていたけど、そんなに歩かなくなったこの頃の自分の足は、あの頃よりずっと綺麗だ。すべすべで、冬になっても白くひび割れることはない。

あの歩きすぎが、足をずいぶん痛めていたんだなと思う。今はもう、そんなに歩くことはなくなった。

昔と変わったのは、文章を書くペース。昔は憑かれたように文字を綴っていた。今は、書きかけては消し、書いては消しの繰り返し。

ブログの間隔も、ずいぶんあくようになった。昔は、言葉があふれてとまらなかったのにな。

昔は、歩くと気持ちが整理されたんだよね。だから歩いた。どこまでも、どこまでも。

今は。歩く代わりに、畑で土に触れているのかもしれない。畑で育てる野菜は癒しだ。農薬や化学肥料を使わなくても。自然の力だけで育つ野菜や果物はおいしい。

歩かなくなった私は、それだけ年をとったんだなあと思う。書くペースが落ちたのも、そうかな。ログインして何度も書きかけて、でも消している。

でも久しぶりに、今日は書けた。きっと月のおかげだ。

建築会社の質は現場に出る

我が家の畑のお隣では今新築工事が行われているのですが、もうすぐ完成です。ですが、ちょっと気になるのは、接地した農道にコンクリートのガラが置きっぱなしなのです。一山、無造作に積んであります。

もともとこの会社、農道を物置に使う傾向があって、これまでにも車両置き場にしたり、仕事の道具を置きっぱなしにしたりしていました。農道の管理者は、なんにも言わないのかな~と気になっていたのですが、これまではまだ工事中だし、と、いつかは片付けるんじゃないかと思っていました。

しかし工事の終わりが見え、仮設トイレも撤去された今、もしかしてあのコンクリートの山をそのままにするんじゃないかと、気になっています。工事が終わって引渡しが済んで、知らん顔されたらそれっきりじゃないですか?

農道の管理者も、管理が甘いんですよね。犬フン対策もそうだけど、草刈も怠っているから、ここでは何をしてもいいと思われているんじゃないだろうか。草もぼーぼー生えてるから、コンクリートのガラも草にまぎれて目立たない。これ放置していて、何年も経ったら責任追及できなくなるだろうな。そもそも、敷地内でなく農道に置いてる時点で駄目なんだけど。

全員、自分の仕事を果たしていないんだなあと思います。

  • 農道の管理者→ゴミの放置がないか等、農道を定期的に見回る
  • 建築会社下請→農道を勝手に物置き場にしない
  • 建築会社元請→時々現場チェックにきたときに、敷地外、周囲にゴミがないか確認する
  • 施主→建築を見学に来たついでに、周囲のゴミを確認する

4者のうち、誰か一人でもやるべき仕事をやっていれば、コンクリートのゴミを放置だなんてこと、ないはずなんですけどね。

今日行ってみたら、脚立が置かれていました。脚立は道具だから、必ず持っていくだろうけどコンクリートのガラはなあ。たぶん、このまま放置するんだろうなあ。

今週中に、農道管理者に連絡をとってみようと思います。

ところでこのお家、畑のお隣なんですけど、工事のときになんの挨拶もなかったんですよね。用水路を挟んでお隣さんで、なんなら上棟のときなどは、うちの畑の横にずらりとトラックが並んで、しかもうちが草避けに設置してあった豆板を踏んで1枚割っちゃったという(^^;

割る瞬間を見たわけではなく、何もクレームは入れませんでしたが。運転していた人は、踏んだ感触でわかったはずです。

工事のときって、こんなふうに近隣に思わぬ迷惑をかけることがあるので、ほとんどの工事関係者、建築業者は、工事が始まる前に必ず挨拶にまわります。うちも、他の家(畑に接した隣地では、過去に数軒新築工事がありました)からは挨拶を受けました。でもその家に関しては、挨拶がなく、無視です。うちは畑だから、住宅でないから挨拶いかなくてもいいだろう、なんて思ってるんでしょうけど。

コンクリートガラの放置といい、豆板を割っちゃったことといい、工事の挨拶がなかったことといい、あまり質のよい建築会社ではないなあと思います。ちゃんとした家が建つのかな?そのコンクリートガラも、地盤を掘り返したときに出てきたゴミだったんですよ。

家を建てる前に、ベタ基礎の工事で掘り返した地盤からゴロゴロ、コンクリート片が出てきて、それが最初はその家の敷地内にまとめてあって、気付いたら農道に置き去りという…

家を建てる時、その会社の工事現場を、何度か見学に行くといいですよ。現場が汚い会社は、やっていることもいい加減です。道路をゴミ置き場にしているようでは、他にも手抜き工事があるかもしれません。

それと、周囲への挨拶は必ずした方がいいですね。工事中って、駐車も含め、思いがけない迷惑をかけることがあるんです。工事の挨拶が事前にあれば「仕方ない」と思えることでも、挨拶がないと腹立たしいものです。

犬のフンは拾えばいいのではない

昨日、家の前で「逃げまんねん」を水で薄めたものをまいていたら、近所の奥さん(Aさん)が通りかかりました。

逃げまんねんは、水で薄める、というか、使い終わった容器に水を入れて、水にニオイを付けたものを使っています。

「あら、除草剤まいてるの?」

「いえ、犬がおしっこかけたりするので、時々犬の嫌いなニオイをつけてるんですよ。」

Aさんと、しばし立ち話です。そのAさんも、以前は自分の家の前にフンを置き去りにされたことがあるそうですが、即、張り紙をしたそうです。「お持ち帰りください」と。すると、翌日にはなくなっていたとか。

私はここぞとばかりに、これまでの犬のフン尿との戦いの日々を話しました。小さな活動ですが、私は犬のフン尿について、できるだけ知人友人に広めるようにしています。これだけ嫌な思いをしている人がいるということ、犬のフン尿はニオイがつくので次に来た犬も、追いがけでおしっこをしたり、フンをしたくなってしまい、被害が拡大していくことを力説しました(^^;

Aさんは継続的な被害を受けているわけではないので、そこまで犬のフンに敏感にはなっていなかったようですが、私の話を聞いて「そうなんだ~」と納得の様子。

Aさん「犬を飼ってる人って、おしっこならどこでしてもいいって思ってるよね」

私「そうそう。まさにそこが問題なんです! 皆おしっこしても乾くからいいと思ってるけど、ニオイが付くからフンもされるようになるし、通りがかりの犬がみんな臭いにつられてあっという間に犬の公衆トイレになって、100回のおしっこがあれば1回はフンの置き去りが発生しますよ」

まあ、この辺の回数は正確ではないかもしれませんが、でも、排泄される回数が増えれば、そのうちの100回に1回くらいは、放置されてしまうんですよ。そして犬のフンは、必ずきれいにとりきれるものでもありません。下痢している犬もいるし、細かいかけらで拾いきれないものもある。そうするとそれがまたニオイの原因となり、次に通りかかった犬の排泄を誘発します。

そもそも、「犬のフンは拾えばいい」というのが間違っているんだと思います。

正解は、「散歩は排泄のためではありません。自宅で済ませましょう」です。

これがすべてじゃないかな? 犬のフンを拾うのがマナーだなんて時代は、昔のこと。粗相して拾うのは当たり前として、そもそも、散歩を排泄目的にするのがおかしいんですよ。

犬のフンにしろ尿にしろ、マーキングにしろ。やっていい場所なんて、自分の家以外にはありません。自分の犬に、排泄する場所を用意できないなら、飼ってはいけないと思います。いまや、外飼いの犬は激減し、どんな大型犬も室内で飼っている時代です。いまだに排泄のマナーだけ、昔のままというのはおかしいでしょう。

犬が外で排泄できないのは可哀想、とかいう人がいますけど、だったら自分がそういう場所を用意するべきだと思います。自分の犬なんですから。犬にしてみても、家でトイレをさせてもらえない。散歩のときしかトイレできないとなれば、散歩まで我慢することになりますよ。

自分の家の庭、室内のペットシーツ、などなど。他人に迷惑をかけない場所で、犬のトイレを用意するのはこれからの常識だと思います。公園も道路も他人の土地も、犬のトイレではありません。

ドッグランはどうしてるんだろう?と思って調べてみたら、やっぱりドッグラン内では排泄は禁止されてるところが多いですね。ドッグランに入る前に、トイレはすませるとか。オムツをはかせるとか。

ドッグランだって、「どうぞ自由に排泄してください。片付ければOK」ではないということです。そもそもドッグラン内では排泄をさせないという前提があって、その上で、もし粗相したら片付けてね、ということです。

だったらなおさら、公共の道路や公園、他人の家の前だって、同じことじゃないですかね? そもそも、犬に排泄させてはいけない場所です。「排泄しても片付ければいい」というのは間違いです。「排泄させてはいけないが、万一そうなったらきちんと片付けましょう」ということです。

これだけ犬を飼う人が増えたのに、室内で飼うのが当たり前になったのに、社会の常識として、「散歩は排泄のためではありません。自宅で済ませましょう」が浸透しないのは、本当に不思議です。

「犬のフンは持ち帰りましょう」だなんて言っているうちは、犬のフン尿被害はなくならないです。社会全体の常識として、「散歩は排泄のためではありません。自宅で済ませましょう」が広まればいいなあと思います。そしたら、犬のフン尿被害は一気に解決するのでは?

米が高い

お米が高いですね。今年の1月に農協直営のお店に行って、対面販売のお米を買おうと思ったらなかった_| ̄|○

農協でお米がないってどういうこと?と思いましたよ。値段がどうとかではなく、その時(2025年1月)には米そのものが存在していなかったのです。張り紙がしてあって、しばらく米の入荷がないことが告知されていました。対面販売で計り売りしてくれるので、それをその場で精米してもらうのが楽しみで、10年ほど前から利用していたけどこんなことは初めて。

まあ、量り売りのお米はないとはいえ、それ以外の、すでに精米して袋詰めされた普通の商品は売ってましたので、困ることはありません。それを2キロだけ買って帰りました。

3月の頭にもう一度、出かけたのです。そしたら今度は量り売りのお米がちゃんと入荷していました。びっくりしたのはその値段。1キロ800円でした。これは玄米でのお値段なので、精米すると実質はもっと高くなりますね。5キロで4000円を超えるお値段です。去年の同じ時期の、2倍近いです。

これは政府の失策ですし、このままじゃダメだと思います。大問題です。だって、お米は日本の主食だから。嗜好品と違って、高いから食べるのをやめる、というわけにはいかないんです。

代用品として、パスタやうどんを食べてる方もいらっしゃるようですが、小麦粉はお米とは違って、グルテンがあるから日本人には向かない食べ物だと思います。日本人の腸にはお米が一番合っていますし、お米を食べている限り健康でいられます。

東城百合子さんの「自然療法」という本をご存知でしょうか?すごくいい本なので、お勧めです。

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私はこれを読んで、玄米を食べるようになりました(^^)毎日、玄米と、精米したお米を混ぜて食べてます。スーパーで売ってる白米を食べるときもあるし、農協直営のお店で、好みで精米してもらって(3分づきなど)、お米の大切さにも、あらためて気づけたし。日本人はたぶん、お米さえあれば大丈夫。

だからこそ、お米が高いのは困るし、これは何とかしなきゃいけない。今は、お米はどに行っても買えるし品不足というわけじゃないのよね。ただ、高い。去年の約2倍。主食が去年の2倍って、どういうことだろう。

備蓄米の放出が決まっても、入札が終わっても、備蓄米が3月下旬にはスーパーなどの小売りに出回るだろうと言われても、値段は下がりませんね…

主食が1年で2倍になるって、そりゃダメでしょう。嗜好品じゃないんですよ。誰もが安心して、いつでもお米を買える世の中でなければだめです。世の中貧富の差はあるけれども、どんなに貧しい人だって、日本人である限りお米だけはいくらでも自由に買える世の中であってほしい。

お米の高騰を招いた、政治ももちろん悪いけど。

でも私には、お米に関して、日本人に関して、少し思うことがあるのです。

日本人も、一部の人たちはお米に対する敬意を忘れていないか?ということ。

日本人が、お米に対する感謝を忘れたことが、今日のお米不足、高騰を招いている原因の一つではないか?

私の周囲では、次々と田んぼが埋め立てられて、それが野立ての太陽光発電に変わったり、住宅に変わったりしています。そんな中で残った田んぼは、本当に貴重ですし、大切な日本の風景です。だけどその田んぼ道に、平気で犬にフン尿させている人たちが多いんです。

見かけると、本当に嫌な気持ちになります。うちの畑の前を犬のトイレにさせろと、とんでもないことを言ってきたいつかのおじいさんも、田んぼには犬のフンを投げ捨ててましたよ。投げ捨てるというか、自分がついている杖で、犬のフンを田んぼに弾き飛ばすんです。

そういう光景をみて、本当に腹が立ったのを覚えています。今はそのおじいさん、犬が老犬で死んだのか、この頃は姿をみかけなくなったけれど。

お米を作る田んぼに、散歩している犬のフンを放り込むなんて、あまりに傲慢な行為です。もちろん、フンの他にも、尿やマーキングは、し放題ですよ。田んぼの周りは、ちょうどよく草が刈りこんでありますからね。でもその草、お米を作っている田んぼの持ち主が、一年を通して一生懸命刈ったものなんですよ。そこを、犬の散歩の人たちが、自分の犬のトイレにしてしまっている。

私は、自分の畑の前を犬のトイレにされたのも腹立たしかったけれど、田んぼ道で犬の散歩中の人が傍若無人にふるまうのも、本当に許せなかったですよ。だって、お米ですから。人が食べるお米、それを作る場所への経緯が何もない。草が生えているから、犬の散歩の人はそこを自分の犬のトイレと決めて、毎日自由に振る舞わせているわけです。いつかバチが当たるんじゃないかと思ってました。犬のフンは、拾えばいいってものではないですし、尿は回収できないですし、そもそも田んぼでさせるべきではないです。

このお米の高騰がその、罰という側面も、あるんじゃないかな?と、ふと思ったりするんです。荒唐無稽ですかね?でも、因果は巡ります。

犬を大切にしすぎる世の中も、間違っているのでは?よその土地を、そしてお米という神聖な食物の場を、「都合のいい犬のトイレに使っている人」。私の周りだけではないと思うんです。

犬のフンという究極に汚いものを、人間の口に入る食べ物を育てる場所(田畑)に置く。これは、罪深いと思いますよ。犬や猫は、あくまで犬や猫だと思います。可愛がるのはいいけれど、だからといって、人間とは全然違う。

世の中、少しおかしいのではないか?と、思っていた今日この頃です。お米が高くなったのを見て、なんとなく、因果が巡ってきたのかなとおもいました。犬に、田んぼ道で、フン尿マーキングさせていたツケが、きているのでは?

日本は豊かになりました。貧しくて、食べていくのに精いっぱいだった時代とは違います。だけど豊かになったとき、食への感謝、お米への感謝がなくなってしまったんじゃないのかな?

そんなことを思いながら、この米騒動を考えています。これだけ長期的な大問題になったのには、それだけの根がありますし、複合的な原因があるでしょうね。お米について考え直す時が、きているんだと思いました。

映画「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」感想

映画「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

もうこの映画、最初のシーンから全力で引き込まれてしまった。

イイ(*^-^*)。主人公の福士蒼汰さん演じる南山高寿(たかとし)が、もっさりしてて、あか抜けない感じでとてもイイ。その純朴な青年が恋に落ちる瞬間が、すごくイイ。一目惚れを映像化した作品の中で、一番だと思う。目が離せなくなっちゃって、戸惑って、困って、ドキドキしたまま彼女をみつめる、心臓の鼓動の音まで聞こえてきそうな演出。

そして高寿の一目惚れの相手、福寿愛美(えみ)役の 小松菜奈さんがこれまたイイ!(^^)! コートを着てるけど、電車の窓から入る陽射しはもう春なのよ。扉の横で立って、本を読む姿がハッとするほど綺麗で、可愛くて、吸いこまれる。もう高寿の気持ちがそのまんま、自分の気持ちになる。愛美ちゃんの姿に、吸いこまれちゃうのよね、魂ごと。

一目惚れです、と初対面の相手に声をかけるなんて、冷静に考えたらできないことだけど、そこが若さ。若さは許される。(^^)高寿の不器用な感じも、いいのよね。もっとシャレた言葉や、上手い言い方はあったかもしれないけどさ。そうじゃない感じがいいのよ。もっさりしてるところがとてもいいのです。

電話番号じゃなくメアドを聞くところも奥ゆかしくて。メアドなら、電話より心理的に遠いもんね。プライベートにずかずか踏み込む感じがない。高寿が、愛美に携帯電話を持ってないと言われて、婉曲に断られたと思ってじわじわと落ち込む感じも微笑ましかった。若い二人の出会いが、可愛いなあ。

初心な高寿に、恋のあれこれを指南する親友役を、東出昌大さんが演じているのも、あまりにピッタリで笑ってしまいました。東出さん、いろいろあった役者さんですけど、実際女性には慣れてるんだろうなあと思いますし。演技というか、素かな?なんて思いながら見てました。

高寿が愛美の秘密を知ったとき、自分達の運命に気付いたとき、その苦しさが一度は二人の関係を壊しかけるけど、すべてを知っている愛美はただ、時間が流れるのを待つしかなくて。逆方向に時間が流れるカップル。いったいどちらがマシなのだろう、楽なのだろう、と考えてしまいました。

結論。やはり、高寿の方が楽だろうな。互いに20歳で会えるのがたった30日間なら。だんだん関係が深まる方が嬉しいし、自然だから。初日がピークで、後はどんどん他人行儀に、遠ざかっていくのはせつなすぎる。

1日が終わるごとに、高寿との思い出が生まれるごとに、泣く愛美の気持ちを思うと気の毒で。どんどん遠ざかるんだもんなあ。まだ高寿の立場の方がましだと思う。途中で真実を知らされたって、まだ先があるもん。一緒に共有できる思いも、時間もさ。愛美は独りで、それを抱えなきゃいけないから。

20歳の30日の、大切さを思いました。25歳と15歳は、男女がどちらであれ、恋人にはなれない。その点、同い年で20歳って、いいですね。夢いっぱい、希望がいっぱい。

福士蒼汰さんと小松菜奈は美男美女ですが、画面から伝わるのは、本当に平凡な、どこにでもいそうな若いカップル。そこがいいんですよ。特別じゃなくて、誰にでもあるはずの、若い日の光景だから。二人の気持ちをまるで自分のことのように感じられる。二人が嬉しそうにしているときはこっちまで嬉しくなるし。悲しんでいるときには自分のことのように心が痛かった。

「ヤバイ、抱きしめたい」

「抱きしめたらいいんじゃないかな。」

この辺の流れも、キュンキュンしますね(*´ω`*)

性的同意書がどうこう言われるこの頃ですけど。性的同意書なんか、意味がない。セクハラや強制がダメなだけで、恋人同士の自然な流れって、古来からあるわけで。セクハラや強制をなくすために性的同意書は全く無意味というか、むしろ害悪では?この頃の若者たち、特に若い男性は、臆病にならざるをえなくて気の毒すぎる。

今の法律では、後で女の子が心変わりをしたら、アウトになってしまうから。「本当は嫌だった」「本当は同意していなかった」女性のその一言だけで、罪を作り上げるのはおかしい。そこにセクハラや強制性があったのかどうかなんて、状況を総合的に、客観的に判断するしかないのにね。

この映画の、二人の初めての一夜を見ながら、そんなことを考えていました。二人の時間が、本当に素敵だなあと思いながら。お互いをとても大切に、拒絶されることを恐れながら、二人がおずおずと近付いていく。

映画のちょうど半分ずつで、「知らない高寿」「知っている高寿」が描かれるのが興味深いです。最後にネタバレして派手に終わり、とかいうのではなく。知ってからの彼が何を考え、どう行動し、最終的にどんな自分を選ぶのか、後半が丁寧に描かれているから。

大好きな人と、どんどん関係が深まっていく。大好きな人と、どんどん関係が離れていく。どっちがつらいのか、それがわかったときに高寿はふっきれて、乗り越えた。不思議なタイトルの意味が、この映画の意味が、わかったときに、ああー、そういうことだったのかと思う。タイトル上手だなあ。

昔、私は映画化されるより前に、原作の小説を読んだ。面白いタイトルだから読んでみただけで、アイデアは面白いと思ったけれど、そんなに感動はなかった。だからこのブログにも、本の感想は書いていない。だけど今日見た映画は、原作の小説を超えてはるかによかった。それは俳優がはまり役だったことと、映画で映像で見る二人のデートが、とっても微笑ましかったから。

伏見稲荷や、鴨川や、もちろん初めてのピザや、事前準備の高寿の緊張っぷりも、笑えた。本人が素で、台本なしで出てるんじゃないかと思える、東出くんの親友っぷりも自然でよかった。

とてもロマンチックな映画だけど、でも人生の半ばを過ぎた私は思った。20歳の30日だから盛り上がるけれど、この先ずっと一緒に暮らせば、もしかしたら別れたかもしれないね(^^;家族になって、最後まで仲良く暮らすのか、それとも長い時間を一緒に過ごしたら、案外相手の嫌な部分が見えて、気が合わない部分に気付いて別れてしまったか。それは誰にもわからない。

高寿にとっての最後の日。愛美を絵に描く高寿が、かつてないほど自信にあふれ、愛美との関係性が逆転していることが面白い。愛美が好きすぎていつも、愛美を気遣っていた高寿が、なぜか上から目線みたいで(笑)愛美は初日だから、すべてを知ってる俺余裕、ということなのかな。

15歳の愛美を演じた、清原 果耶(きよはら かや)さんも、物語に深みを与えてましたね。映画の中で出演時間は短いけれど、15歳の愛美がどれだけ高寿に惹かれたのか、20歳の再会をどれだけ楽しみに待ったのか、わかる映像でした。15歳の愛美が会ういろいろあった末の25歳の高寿は、20歳の時より、ずっと大人で。そんな高寿を好きになってしまう、ちょっと寂しそうな、影のある清原 果耶さんの表情がよかったです。

35歳以降の二人は、どんな人生をたどったのかな? 案外、愛美は高寿のことを大切な思い出としたまま、別の人と別の人生を送っていそう。高寿の方が、愛美を引きずってずっと独身のまま過ごしてそう。エンディングに流れるback numberの「ハッピーエンド」が、映画にぴったりでした。20歳で大好きな人と結ばれて、最高の30日間を過ごし、35歳で別れる運命は、ハッピーエンドでしょうか?

愛くるしい愛美の表情も、優しい高寿の表情も、街の風景も光の加減も、すべてが美しい映画でした。

青いまま枯れていく

あなたを好きなままで消えてゆく

backnumber 「ハッピーエンド」

この曲が流れるラスト、聴き入ってしまいました。