自分で作った新茶を飲む

この季節、新茶を飲むのが楽しみです。作り方は簡単。

まず、新茶を摘みます。柔らかな新芽を指先でそっとつまみとります。陽射しをたくさん受けて、いままさに伸び盛りという、その緑色がとても美しいです。

量は適当でOK。保存せず、一回で飲みきれる分量にして、毎日作り立てを飲む、なんて贅沢がおすすめ。一回分なら摘むのも楽だし、製茶も楽です。

摘み終わったら、軽く水洗いしてテフロン加工のフライパンへ。弱火でさっと火を通します。水分を飛ばすのです。

コツは、とにかく弱火というところ。温度を上げすぎると焦げます。要は水分が飛べばいいので、できるだけ温度を上げすぎないよう気をつけます。

ある程度水分が飛び、葉っぱがしなしなになったら、火をとめて火傷しない温度にまで冷まし、両手でひたすら揉みます。

その後、またフライパンで水分を飛ばして、また揉んで、それを2~3回繰り返して出来上がりです。

フライパンさえあれば、ホットプレートなしでもできるので簡単です。本当は焦げ防止のために、キッチンペーパーを敷いた方がいいのかもしれませんが、テフロン加工のフライパンでやってみたところ、焦げませんでした。ただし、温度が上がりすぎると簡単に焦げそうなので、それだけは注意が必要です。

作っていると、台所にお茶のいい香りが充満して、それだけで元気になります。そして、作り立てのお茶の味は格別。

庭に、もっとお茶の木を増やしたいなあと思いました。今ある木は、樹齢30年くらい。寿命なのか土地が合わないのか、あまり勢いがありません。背も高くならない。枯れてしまってからでは遅いので、今年はせっせと挿し木に挑戦してみようと思います。

うちで作るお茶なら、完全無農薬。なにより、自分で作る喜びがあります。今度は発酵させて、紅茶も作ってみたいな。

どれが自分の荷物なのかわからないという夢

小さい頃によく見ていた夢は、追いかけられる夢で。足がうまく動かない、というのが定番だった。

今はもう、追いかけられる夢はみない。走る夢はみるけど。そのときはやっぱり、足が動かない。足が動かないことで、「夢なんだな」というのがわかる。

そして飛べない(^^;

飛べないことも、「夢だな」と気付くポイントである。正確には、飛べないというか、低空飛行しかできない。

手を思いっきり動かして、一生懸命集中して、できるできると言い聞かせて、それでも、低空飛行しかできない。ぎりぎり地面につかないくらい。そしてときどき地面に触れながら、進んでいく。これ、歩いた方が早いんじゃないかと思いながら。それが私のよくみる夢。

そしてもうひとつ。このところよくみる夢は、荷物の片付けの夢。自分の荷物を片付けなくてはいけないのに、自分の荷物と他人の荷物の区別がつかず、整理できなくて困ってしまうのだ。

先日見た夢も、まさにそれだった。場所は学校の教室。その日は卒業式。教室にはもう誰もいない。天気のいい日で、穏やかな日差しが窓から降りそそいで、時間は2時くらいかな。

荷物の整理を始めるんだけど、後から後から、どうでもいいような物があふれて、それが自分のものなんだか誰かのものなんだかわからなくなって、途方に暮れる。

人のものを持って帰るわけにはいかないし、かといってこのまま置き去りにすればゴミになるし、綺麗に片付けなきゃという責任もあるし。

完全に他人のものとわかれば、たとえゴミになっても、私の責任じゃないし、と思えるのだけれど。夢の中では、それが私のもののような気もするし、そうでない気もするし、微妙。もし自分のものだとしたら、そんなものを放置したら申し訳ない。

そして、荷物の区分がつかないというのに加えて、自分の持ち物の多さにも困り果てる。到底、歩いて持ち帰れる量ではなく。

これじゃ車持ってこないとなあ。しかも、1回でなく、2往復くらいしないと無理かも。ああ、私、どうして計画的に持ち帰らなかったんだろう。今日が最後だとわかっていたら、それまでに少しずつ持ち帰るべきだったのに。

後悔しながら、教室でひとり。荷物を前に四苦八苦する夢。

そんな夢を、よくみるようになった。

あと何度、桜を見るのだろう

桜は恥ずかしがり屋の花だと、どこかの本で読んだ。そう言われてみると、確かに、うつむいて少し体を傾け、必死にこちらの視線を外しているようにもみえる。まるでどんな賞賛の声も、聞こえないように、見えないようにと。

そして、桜はまた、ネガティブな気を持った花らしい。確かに、陰と陽で言えば陰なんだろうな。

明るい陽射しの下で見る満開の桜は素晴らしい。あまり人が来ない場所でみる桜は、ひときわのびのびと、素直な姿で寛いでいるように見える。人目に触れないから、リラックスしているのかな。今年はまた、素敵な場所をみつけてしまった。

人がほとんど来ない。静かな場所。そこに座って、ぼんやりと桜を眺めていた。ときどき、風が吹くと花弁が舞った。

思い出すのは、もう何年も前の、新宿御苑の光景だ。私はその近くの英会話学校に通い、帰りは新宿御苑で、習ったフレーズをぶつぶつと呟いて、復習に勤しんでいた。

桜が咲き始めるとそわそわして、一度は見ないと落ち着かない。2017年、今年も無事に、花見をすることができてよかった。

『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 感想

『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

村山由佳さんの本を読んだのは初めてです。天使の卵シリーズというのが気になってはいたものの、今だ読んだことがなく。初村山さんがこの、『ラヴィアンローズ』になりました。

単行本の拍子のピンクのバラが美しい。そして、花束を結ぶ細いリボンのような書体の、La Vie en Rose も素敵。表紙を見ただけで、わくわくします。

全体的に読みやすかったし、続きが気になってどんどんページをめくりました。そして、率直な感想は。登場人物がみんな、あまりいい人ではなかった(^^;

主人公の藍田咲季子の性格には、読んでいて苛立ちを感じました。モラハラ夫に翻弄される描写が長くあって、もしかしたら作者的には咲季子=可哀想な被害者 みたいな位置づけがあったのかなと思うのですが、咲季子は決して、弱者ではないんですよね。経済的にも恵まれていて、もし離婚しても生活に困ることはない。考慮すべき子供もいない。独りで暮らすだけの知性も、胆力も十分に持っている女性なのに。

仮にモラハラに気付かず、苦しんでいるならまだ理解できる部分もあるんですけど、咲季子ははっきり気付いてますからね。自分が夫に不満を抱えていると。なのに、そうでないふりをしている。

嫌なら別れるべきだと思いました。耐えることで咲季子=被害者、みたいな構図が成り立ってしまうのが、ある意味卑怯ではないかなあと。夫婦って、鏡みたいなものだと思います。咲季子が不幸なとき、夫の道彦もやはり不幸なのです。夫だって、コンプレックスを払拭できず、迷路にはまりこむばかり。一緒にいても、お互いを傷つけあっている。

むしろ、別れた方が幸せな二人。咲季子も、道彦も。なのに、なんとなくずるずると生活を続けている。けれど、その生活がいつまでも(お互いに老衰で亡くなるまで)続くとは思えなくて。いつか、破綻がくるのは目に見えている。どちらが我慢できなくなるか、たぶんそれは、咲季子だろうなあと。

結局、その予想通りになるわけですが。咲季子はデザイナーの堂本裕美と出会い、不倫関係になる。

読みながら、そりゃそうだろうなあと思いました。不満があって、心の底では白馬の王子さまを探しているときに現れた相手。ルックスが好みで、自分と美的センスが合う相手。芸術肌の咲季子にとって、こういう感覚的なものは外せない条件でしょうから。

でも、その相手との出会いにも、なんとなく咲季子は自分の立場を利用しているように感じてしまいました。可哀想なモラハラの被害者、としての自分を。

本当に弱い人なら、モラハラから抜け出せないのも気の毒だと思いますが。咲季子は力を持ちながら、敢えてその立ち位置にとどまっているように思えてならないのです。可哀想な被害者、としての心地よさ。そこでは自分が被害者だから。救われるべきお姫様だから。

デザイナー堂本と、咲季子は、薄っぺらさも似ているなあと思いました。心よりも体で結ばれている相手のような。結局、大事なのは自分なのです。相手への思いやりは二の次。

堂本は最初こそかっこよく描かれていましたが、すぐにボロボロと仮面がはがれます。危険性も考えず、自分がもらうプレゼントのために、ルールを守らず電話したりとか。私だったら、その時点で堂本にげんなりするけどなあ。だって、相手を大事に思えば、慎重になって当然の関係性なのだし。もしかしたら咲季子が逆上した夫から暴力受けたりって、簡単に想像できてしまうではないか。なのに、その危険性より、自分がもらうプレゼントの方を優先するって、その時点で咲季子はちっとも大事にされてない。ATMって、このことなのかと思う。

危険を承知で、それでも送られてきたメッセージの内容が、「プレゼント1つじゃなくて、複数でもいいかな?」とか、私ならその瞬間に冷めるなあ。ああ、この人の愛情って、こんなものだったのかと。

まあ、そもそも不倫関係の始まりからして、咲季子の緩さがありましたが。どうしようもない感情の昂りでそうなったのなら仕方ないかなとも思いますが、車で自宅に戻ると言われた時点で、じゃあ降ろしてくれときっぱり言えばよかった。降ろしてくれないなら、信号でとまったときに降りればよかったし。そもそも車から降ろしてくれない相手なら、その後は2度と二人きりにならなければそれだけで、以後は危険性を回避できる。

ずるずると、そういう沼地の関係に陥ったのには、咲季子にも罪がある。堂本にも罪がある。

結局、夫の道彦もモラハラ最低夫ではありますが、咲季子も似たようなものだし、堂本も同じレベル。堂本を紹介した川島も、似たり寄ったり。咲季子を良く知っている川島には、咲季子と堂本を仕事で結び付けたら、結果どうなるかわかってたはずだしなあ。

ドロドロな不倫関係の末に起こった悲劇。その醜悪さと、咲季子の作った庭の美しさの対比がドラマチックです。薔薇が美しく咲けば咲くほど、その影で複雑に絡まる人間模様。人工的な薔薇には、素朴な美しさはない。プライドで塗り固めた、表向きの清潔さ。

咲季子も人工的だなと思いました。庭に道彦を埋めて、平気でいられることがまず、理解できない。まるでロボットみたいに感情がない。本当に庭を愛していたら、そこに人間を埋められるはずがない。見るたびに思い出してしまうでしょう。手塩にかけた大切な庭に、最大の罪の片棒を担がせるだろうかっていう。

夫婦関係も友人関係も仕事関係も。出会う相手、縁のある相手はみんな、同じレベルなんだなあということを思いました。とんでもない相手とは、そもそも出逢わない。そのことを考えさせられた本でした。

歌作りと人生経験

私は村下孝蔵さんの曲が好きだ。

最初はあの有名な『初恋』で村下さんのことを知り、その後、カラオケで先輩が『踊り子』を歌っていたのを聴いて、素敵な曲だなあと思って注目するようになったのだ。

『初恋』や『踊り子』以外にも、いい曲がたくさんある。『かざぐるま』や、『春雨』、『ゆうこ』などなど。

46歳という若さで亡くなってしまった村下さん。私が生前の村下さんに対して持っていた印象は、穏やかそうな普通のおじさん、というもの。バリバリの二枚目というわけではないし、芸術家特有の気難しさみたいなものもなく、いつもにこにこしていて温厚そうな人だなあと。あくまで、私が抱いた個人的な印象だが、激しい恋愛をするようにも、上昇志向があるようにも見えなかった。

去年、村下さんの前妻のゆうこさんと、長女の露菜さんが共同で運営しているブログの存在を知った。ゆうこさんが綴る、村下さんとの出会いから結婚までの経緯は、まるで小説のようにドラマチックで運命的で、そのお話を読んでからあらためて曲を聴くと、しみじみと感慨深い。

結ばれるべくして結ばれたお二人、だったのだと思う。離婚してしまったのは悲しいことだけれど、その結婚があったからこそ、村下孝蔵さんが数々の名曲を作り出したのは確かなことで。前妻のゆうこさんが綴る、「太郎と花子の日本昔話」を、私は夢中になって読んでいた。

ところが、連載は途中で急にとまってしまった。露菜さんが今年に入って書いたブログによると、おばさん(村下さんのお姉さん?)が、ゆうこさんの書く物語を売名行為だとして怒っているらしい。書き続けるなら、自分が持っている露菜さんの幼い頃の写真一式を渡さないということを言ってきたようで、ゆうこさんはそれを気に病んで筆をとめてしまったとのこと。

露菜さんは、写真アルバムを諦める、という方向で考えているようだが、私はアルバムはきっちり返してもらうべきだと思った。

売名うんぬんは、人によって考え方は違うだろうけど、私は、子供が親の名前を使うのはとても自然なことだと思う。使うも使わないのも、その人の自由だ。

その人の子供である、というのは嘘でもなんでもない、単なる事実だから。それを表明したところで、結局は自分の実力が勝負となる。先入観を持たれたくないという理由で、有名人の子供であることを隠す人もいるだろうけど、逆にその名前を、人に知ってもらうきっかけにしたって、誰かに非難される筋合いではない。

そんなことより、新生児の頃の写真が全くないというのは、あまりに気の毒な話。写真を撮ったのは実の両親なのだし、いくら親戚とはいえ、当事者以外が持っていて本人に渡さないというのはどうかと思う。

妥協点としては、写真をブログに載せないということで、なんとか返してもらえないかなあと、そんなことを思った。写真はブログに載せない。その代り全部、娘さんが受け取る。(だって自分の赤ちゃんの頃の写真だからね)

ただ、「太郎と花子の日本昔話」は、ぜひ続けてほしい。誰かを悪く言うお話ではないし、「書くな」と言われる筋合いはないと思う。村下さんのイメージを傷つける、という人もいるみたいだが、私はむしろ、村下さんの過去を知ったことでもっともっと曲が、好きになった。

ありえないような奇跡の連続の末、結ばれたお二人なのだと思うと、その歌にもまた深みが増すような気がする。ゆうこさんとの出逢いがなければ、生まれなかった曲の数々。

若くて、野心があって、葛藤があって、優しさがあって、もがいてもがいて、その上につかんだ名声。シンガーソングライター村下孝蔵ではなく、夢を追う若者の姿。初めての結婚。村下さんがゆうこさんに語る言葉のひとつひとつが、とても心に残った。その姿と曲が、重なりあう。

「太郎と花子の日本昔話」、もっと続きを読みたいなあ。

『かざぐるま』という曲に関する話も、興味深かった。昔、村下さんが奥さんに語ったという、かざぐるまのイメージ。そうか、そういう印象を抱く言葉を、曲にしたのかと。

歌作りの影に、人生経験あり、ということをつくづく思う。激しく感情を動かされたからこそ、できあがった曲の数々。それらはみんな、村下さんの人生そのもの。だからこそ、人の心に響くんだろう。きっとこれからもたくさんの人が、それぞれの場所で、村下さんの曲を聴き続けるのだろう。