家庭教師とお茶菓子

実は最近、また家庭教師の仕事を始めました。元々学生時代にたくさんの生徒を担当し、社会人になってからも、知人から頼まれたりして、本業の他にWワークのような感じで断続的にやっていた仕事ではあったのですが。

しばらく離れていたのに、また始めることになったきっかけは、自分自身があるソフトの使い方講座に参加したときのこと。そのときの講師の教え方を見て、教師という仕事には向き不向きがあるということを痛感したのです。

今までは、誰にでもできる仕事と思っていたけれど。もしかしたら、結構自分に向いているのかなと。実際、ほとんどの生徒の成績は上がって、喜んでもらえることが多かったです。例外は1名。今思うと、発達障害のあるお子さんでした。

昔の話で、発達障害に関する知識が私にも親御さんにもなく。ご両親は、「とにかくスパルタでお願いします」とのことでした。そして、そうした厳しさだけに特化した指導はあまりうまくいかず、最終的には子供が様々な様々な嘘をつき始め、(指導日の変更など)、結局お互いに苦い思いだけを残して、指導は終わりました。

ただ、その一人以外は全員、成績も上がり喜んでもらえて、皆さん長いお付き合いとなりました。向き不向きでいうなら、多分これは特技なのでは?と思うようになりました。

ということで、まず家庭教師の派遣業者に登録し、さっそく紹介を受けたのですが、この生徒さん(Aさん)を通じて、「お茶菓子の意味」を考えさせられました。

私は個人契約も業者を通じての契約も両方経験していますし、今まで20軒近くのご家庭を体験していますが、初めて、一切のお茶菓子が出ないお宅でした。

初めて家庭教師を頼むおうちでは、お茶菓子を出すのか出さないのか、出すならどのタイミングで出すのか、どんな内容で出すのか、迷われることが多いようですね。ネット上にも、家庭教師の茶菓子について、質問や回答があふれています。

私の個人的な見解ですが、お茶は絶対に出した方がいいです。

例えば、今私が担当している案件では、週に1度、2時間の授業をしています。ではその2時間、生徒の集中力が続くかといえば、はっきりいって無理です。

1時間に1度、休憩を入れるのが、結局は一番効率的なのだと思います。それは、生徒と教師が交流をはかる時間でもあります。いくら勉強を教わるだけの相手といっても、やはりお互いに信頼関係がなければ勉強もスムーズにはいかないですし、生徒からすると、親でも友達でもない大人と話す、悩みを聞いてもらう、意見を聞く、という機会は、勉強とは別の意味で貴重な体験にもなると思います。

悩みのない子供はいないです。私もこれまで、ちょっとした愚痴だったり、相談だったりをずいぶん受けてきました。休憩時間は、飲み物をのみながら、学校生活の話などができる、生徒にとっては必要不可欠な時間と感じます。

また、子供から、親に対する悩み、というのもずいぶん聞きました。誰にも話せない、話しづらいことなど。家庭教師を雇うご家庭は、間違いなく教育熱心です。塾以上の高いお金を投じるのですから、そこには子供に対する深い愛情があります。けれど、子供からするとその愛情が重く、親子の気持ちがすれ違ってしまうこともよくある話で。

そんなときに、ぼそっと家庭教師に話せる、また意見を聞ける、というのは、子供にとって救いになる場合もあるのではないかなあと思います。それから、いじめについても。親には話せないけど、クラスや部活の悩みなども。

Aさんのお宅では、初回、指導前に30分ほど現在の勉強進度の確認や、今後の方針、報告書についての話などしましたが、お茶は出ませんでした。また、その日の指導後も、15分ほど現況について話しましたが、何も出ず。

2時間の授業といっても、休憩時間は指導時間に含めないよう業者から厳しく言われているので、(個人的にはこれもどうかと思いますが)、5分ほどの休憩時間分、終了時間を繰り下げ、また、これは私がどの家庭でも行っていることですが5分は余分に教えているので、結局初日は計3時間、何も飲みものを口にせず話し続けることになりました。

もちろん、念のためにカバンにペットボトルは入れてありますが、いくら休憩時間とはいえ、飲み物を飲まない生徒の前で、私だけ飲み物を口にするのは憚られます。

そして何より。

私がこのAさんの家で気付いたのは、子供の態度でした。これまで私が接してきた生徒はみんな、それなりに家庭教師には敬意を払っています。甘えることはあっても、いわゆる失礼な態度、というのはありませんでした。

Aさんは、疲れてくるといちいち指示に逆らいます。めんどくさー、と吐き捨て、あげくに消しゴムを目の前に叩きつけます。

失礼な態度に関しては注意しましたが、直りませんでした。そのうち、何度も注意する時間がもったいなくなったので、淡々と授業を勧めました。

勉強がわからない、と言われることはあっても、そうした、いわゆる「教師を見下げた態度」は初めてで、驚きでした。親がお茶を出さないことと何の関係があるのか、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、私は親の態度が子供に影響を与えていると思いました。

子供はよく見ていますからね。

Aさんのお宅も、親が私に対する態度は、私が今まで教えてきたお宅とははっきり違っていました。それは、「うちがお金を出している。雇っている」という態度です。

ものすごーく横柄な態度、というわけではないのですが。でもそういうことが、言動の端々に透けてみえるのです。だからこそ、お茶を出さないのも当然という考えにつながるのかと。お客ではない、仕事なんだから当たり前でしょ?っていう。

子供も、それを見て思いますよね。ああ、うちが雇っているんだから、と。

思うのですが、教師という仕事は、尊敬がないと務まらない仕事ではないでしょうか。自分が尊敬できない見下げた相手から、何かを習う気分になりますか?

当然のことながら、Aさんは学校の先生も汚い言葉で罵っています。聞くと、先生は一生懸命生徒にわかるようにと補修をしたり、プリントを用意したりしているのですが、Aさんは自分が勉強がわからない苛立ちを全部、学校の教師にぶつけているのです。

あいつは○○だ。(容姿の侮蔑)、大嫌いだ。

注意はしましたが、罵りは直りません。こんなに学校の先生を悪しざまに言う、というのは、家庭の中でもそれが当たり前になっているのだと思います。

私のことは直接罵ったりはしませんし、教わるようになってからテストの点も上がったので、それなりに評価してくれているところはあるのでしょうが、それでも、尊敬はないのでしょうね。なぜなら、言うことを聞かないからです(^^;

学校の先生を悪しざまにいうこともやめないし、指示にいちゃもんをつけるから(これも本当にびっくりですけども)

家庭教師が、生徒にお願いして勉強をしてもらう、というのは違うと思います。生徒が勉強したくて、(成績を上げたくて)、家庭教師を頼んだわけですよね。

ご機嫌をとって、平身低頭でお願いして勉強していただく、なんてことは間違っています。

ご機嫌という言葉で思い出したのですが、私が生徒を紹介してもらった家庭教師の会社は、研修でこんなことを言っていました。

「この生徒さんが好きなアニメは、○○と○○です。漫画だと○○が好きなので、あらかじめ調べていって、好きな話題で盛り上がってください」

えーと(^^;

中学生が、大人とアニメや漫画の話題で盛り上がりたいですかね? 好きな番組の話なら、同年代とさんざん盛り上がってるでしょうよ。家庭教師に来た先生と、同じ話題であら嬉しー、なんて、ならないと思いますよ。というか、その「媚び」を、彼らは敏感に、感じ取ると思いますよ。

結論として、私は家庭教師にはお茶を出すことをお勧めします。それは、親が家庭教師に示す心遣いであり、その心遣いを、子供がしっかり見ているからです。

私が親だったらどうするかなあ、と考えてみましたが。

2時間ほぼ喋りっぱなしで教えてる人なら、お茶は出します。のどが渇くのがわかるし。短い時間ならともかく、指導時間2時間なら1時間過ぎた時点で、お茶は差し入れるだろうなあ。

お茶を出すデメリットは、何もないと思います。集中力が途切れるから、という理由で、指導中にお茶を出されるのを嫌う教師もいるようですが、指導中の姿を見られるのが嫌だからなのでは?と思います。監視されているようで抵抗があるのかも。

私はむしろ、授業の様子などは、親御さんにも見ていただきたい方です。親としても、どんな感じで授業が進められるのか、確認できて安心ですよね。

お菓子までは不要です。ただ、出して悪いものではないと思います。結局、そうやって家庭教師に気を遣っている親の姿から、子供が何を感じるか、というものはあると思うので。

勉強が苦手な子供の場合、お菓子の時間が楽しみだったりもします。私が以前教えていた生徒は、やはり1時間経つとかなり消耗してしまうので、休憩のときのお菓子を大変楽しみに食べていました。

以上、家庭教師とお茶菓子について、思ったことを書いてみました。次回は、家庭教師の雇い方について、書きます。個人契約か、業者経由か。迷われる方も多いと思いますが、両方を経験した経験から、気が付いたことを書いてみます。

秋の植物園へ行く

今年も秋薔薇の季節がやってきた。毎年春と秋には必ず出かける場所。今年はちょっと遅いかもしれないかもしれないと思いつつ出かけたら、やっぱり遅かったみたいで。

薔薇のコーナーはずいぶん寂しかった。盛りを過ぎたからなのか、秋だからなのか、春の日差しの中で燃え上がるようなイメージの薔薇はそこにはなく。ぽつん、ぽつんと隙間も多い。

秋の薔薇は、春の薔薇に比べて色が鮮やかだという。紫外線の関係らしい。けれど、私が見た薔薇はみんな、すこしくすんでいるように見えた。そんな中でも、存在感の大きかったのが、京成バラ園芸で1981年に作られた品種、『芳純』。ネーミングがいいね。芳醇じゃなくて、芳純。確かに、熟成した美しさというより、ピュアなイメージがある。

雨に打たれた薔薇はまた、その風情がなんとも言えず、心にしみる。晴れた日に見るのとは、また違う表情。立ちどまり眺めていたら、ホロリと花弁が何枚か崩れ落ちた。湿った地面に落ちるときには、やわらかな、湿った音がした。

薔薇とは別に、今回目を引かれたのが千日紅。ローズネオンという品種の色が、深い。ネオンという言葉から連想するイメージにぴったり。どこか秘密めいた、艶やかで、でも落ち着きも感じさせる色。


薔薇のような激しさはないけど、印象深い花だった。

この植物園は、春以外はあまり人気がない。平日の、まして雨混じりの日には、お客さんの姿もまばら。だけど、それがまたいいのだ。花がない、樹木のコーナーもまた、散歩道としては最高だ。目的も定めずゆっくりと歩く。空を見る。鳥の声を聴く。空気の匂いを嗅ぐ。
人気がないとはいえ、管理された場所だから、園内はどこでも安心して歩くことができる。広大な敷地には、池もあり、小川も流れている。楽園だ。

一角には温室があり、中には小さな人工の滝があって、それが透明な水のカーテンのようで見ていて飽きない。滝の前に立って、じっと目を凝らす。透明な滝の向こうにある壁の色。どこまでも透明な水を通して、その壁の模様を見る。水音に包まれて、そこにいるだけで、無心になる。非日常の、異世界にいるような気分になった。

鳳凰の雲

今年、夏祭りの夕暮れに、鳳凰のような雲を見た。あんまり綺麗なので、写真に撮った。

ずっと空を見上げていたら、不思議な気持ちになった。この世界は何なのだろう。時間も場所も、曖昧な概念。

私は誰だろう? こんなふうに考えている自分の本体は、何なのだろう。

盆踊りの音楽が鳴っていた。やぐらを中心に、みんなが踊っていた。その音に導かれるように現れた、鳳凰形の雲。
やがて空が真っ暗な闇にのみこまれるまで、ずいぶん長いこと、その雲は浮かんでいた。

『累犯障害者』山本譲司 著 感想

『累犯障害者』山本譲司 著 を読みました。以下、感想です。

これは良著です。世の中の真実に光を当てた本だと思いました。私も今、知的に問題のある親戚の面倒を見ていますから、書いている内容にはとても共感しました。著者の思いには、すべて同感です。差別にならないよう、とても気を遣って書いているのも感じました。そうなんです。すぐに、差別だ差別だと叫ぶ団体も世の中にはいます。そしてそういう団体こそが、結局はこうした気の毒な障害を持つ人たちを、追い込んでいるのだと思います。

ホームレスの多くが、知的に問題があったり、精神障害があったりする人達なのは、見ていてすぐにわかります。本当に重度の人は福祉の手が差し伸べられますが、病気や障害でも軽度なら、福祉の手から滑り落ちてしまう。自由という名のもとに、不衛生で非人間的な生活を強いられていて。私はホームレスに関しては、以前からそう思っていましたが、この本で刑務所の実情も知り、これはなんとか、改善していかないといけない問題だと思いました。

ホームレスも刑務所も、結局一緒なんですよね。行き場がなければ、そのどちらかをうろうろさまようしかない。誰も導いてはくれず、そして原始的な本能は残る。お腹は空くし、人にバカにされれば腹が立つし、誰かに持ち上げられれば嬉しくて、善悪の判断もつかずに、騙されていることにも気付かない。

そして、親子二代、三代にわたって問題を抱える家族の話も、身にしみました。結婚相手も、生まれた子供も、自立した生活をしていく能力に欠けていたり。いくら結婚や出産が自由とはいっても、不幸が連鎖していくのは残酷な話です。私が面倒をみている親戚A(80代)も、知的に少し問題があります。けれど結婚し子供を複数もうけました。そして今、かつての結婚相手や子供達がどうしているかといえば、決して幸福な生活はしていません。Aが結婚し、子供をもうけたことを、私はよかったとは思えないのです。生きていれば命があればいいという話ではない。幸せに生きてこその人生だと思います。

一人で生きていけない人。判断力のない人を、ほいっと世の中に放り出せば、不幸でしかない。
管理者がいる生活を、福祉で実現することができたらいいのになあ、と思います。決められた生活が幸せという人もいるのです。自由は、自由を理解し選択する能力がある人にとって価値のあるもので、そうでない人にとっては逆に管理や束縛の方が幸せなこともあるのです。

人生は自己責任とはいっても、認知や判断力に問題のある人に対して、至れり尽くせりではなくても、基本的な部分だけでも手助けするシステムがあればいいなあと思います。後見人のシステムや、生活のための施設を作るということ。そして、弱者を守るための法の整備も、大切なことです。

知的に問題がある人が、性産業に従事するということには、胸が痛みます。自由だから、ではすまされない問題です。この本の中にその一端が書かれていますが、これが現実なんだと思います。

こんなこと言ったら失礼なのかもしれませんが、タレントの坂口杏里さんを見ても、せつないものがあります。ホストクラブで借金があったといいますが、返済能力のない人に貸す、貸し手側の責任も大きいです。あまりにも法外な借金には、法律で規制をかけたり、専門家の相談窓口を設けたりといった救いがないと、自己責任の一語で片付けるにはあまりにも気の毒で。

過去、社会問題化したサラ金も、金利のグレーゾーンにきちんと罰則を設けることで、被害が激減しましたよね。なぜ最初からそれをしなかったのか、法整備に時間がかかったのは、それまでに甘い汁を吸った人がいるのかなと思います。法で縛れば、闇にもぐる業者が増えるだけ、という意見もあるでしょうが、少なくとも簡単で気軽な借金は防げます。

刑務所の中というのはなかなか知ることのできない世界ですが、そこに存在する障害者の問題に、鋭く切り込んだ深いノンフィクションでした。著者の山本さんに敬意を表します。大変なテーマを、よく書いてくださったと思います。

ドラマ『コントレール~罪と恋~』 感想

 ドラマ『コントレール~罪と恋』の感想を書きます。以下、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。『運命に似た、恋』についても、触れておりますので、ご了承ください。

 『コントレール』は、NHKで4月15日から6月10日まで放送されていたドラマです。なぜ今さら、という感じですが、感想を書きたくなった理由は、『運命に似た、恋』の第1回放送を見たから。運命…の方を見て、改めて『コントレール』の良さに気付いたというか。

 描き方によって、ドラマって全然違うなあっていう。

 私は断然、『コントレール』の方が好き。大人なドラマで過激なシーンもあり、決して昼間に家族団らんで見るタイプの作品ではありません。ただ、本当に綺麗です。主役お二人が、とにかく綺麗。眼福。

 『運命に似た、恋』を見たいと思ったのも、主役二人の名前に惹かれたからだったのですが、第1話が終わったとき、がっかりしてしまいました。原田知世さん演じる桜井香澄の、軽さ。斎藤工さん演じる小沢勇凜(ユーリ)の薄さ。ドラマの世界に入りこめず、白けてしまって。
 共感もできなかった。クリーニングのお客さんから、あっさり高額なお下がりをもらう香澄や、いくら誘われたとはいえ無関係な世界のパーティーへ、しかもコスプレして出かけてしまう浅はかさ。

 そして何より、ユーリが駄目すぎた(^^;
 好きな相手が騙されて変な服装させられ、ピンチだというのに、笑うかなあ、そこでっていう。なんの救いにもなってない。自分が香澄だったら、あの場で助けてくれるどころかみんなと一緒になって笑ってるユーリには、一瞬で冷める。その後どんなにとりつくろっても、愛情が蘇ることはないだろう。

 原田知世さんも、斎藤工さんも、影や寂しさを感じさせる俳優さんで。斎藤さんは、ガラスの家での好演が印象深かった。『運命に似た、恋』はもっと、静かで激しい恋愛ドラマなのかと思っていたら、予想を悪い意味で裏切る展開でした。

 
 その点、『コントレール』は凄かったです。もうね、第1話が、最高潮だから。こういうドラマも珍しいなあと思う。

 あらすじはといいますと、石田ゆり子さん演じる青木文(あや)と、井浦新さん演じる長部瞭司(りょうじ)が偶然出会い、お互いに惹かれあうんだけど、実は以前、あやの夫を不可抗力の事故のようなもので死に至らしめたのが瞭司ということがわかって…という、なかなか重い話です。
 
 でも、第1話はとにかく、主人公二人の演技に引き込まれてしまいます。

 石田ゆり子さん美し~。思わず実年齢を確認してしまいましたが、そりゃ瞭司もカレー食べに来るだろうなあと。あんなオーナーのいる店だったら、毎日通う常連さんがいっぱいいそうです。
 あやの役がとても合ってます。もう石田さんがあやなのか、あやが石田さんなのか。そのものになりきってました。

 これ、石田さんがあやの役じゃなかったら、ドラマの魅力が半減してたと思います。ただ綺麗なだけじゃなくて、そこに不幸な影や、だるさや、事件へのやりきれなさや、周囲へのうんざり感をそこはかとなく漂わせた女優さんじゃなきゃいけないから。
 そして適度に肉食、適度な色気。過剰だと引いちゃうし、少なすぎたら魅力がない。

 石田ゆり子さん、奇跡のバランスでした。この役ができるの、石田さんしか考えられない。

 そしてそれは瞭司役の井浦新さんも一緒。井浦さんでなければ、このドラマは成立しなかった。正義感と、もろさと、ピュアなところを言葉じゃなく、全身で表現してた。
 
 寂しい同士の恋愛。生き物の本能なんだと思います。異性に救いを求めてしまう瞬間。

 ただ、私が思うに、愛情の深さはあやの方に軍配が上がる。瞭司はたぶん、引きずられた。あんな美女が、ぐいぐい迫ってくるのですから、事情はよくわからずとも、恋愛とか抜きにしても、「キスして」って言われたら、抱きしめることがあやを助けることになることはわかったはず。
 そして瞭司自身も、罪の意識から人との接触を避けながら、本当はずっとぬくもりを欲していただろうから。両者の利益が一致する、なんていうと、身も蓋もない言い方かもしれませんが。

 あやは、瞭司に一目ぼれしたのだと思います。顔が好みのどストライクだったのでしょう。理由も理屈もなく、初めて目を合わせた瞬間に、魅入られてたのが伝わってきました。

 対する瞭司は。そこまであやに、運命を感じたとは思えなくて。

 たぶんですけど、弁償の封筒持ってきたときは、別にあやのことをどうとは思っていなかったんじゃないかと。ただ、看板を壊した責任感で訪ねてきたわけです。それで、会ってみるとあやはいい人そうだし、美人だし。夜、仕事帰り、疲れてちょうどお腹もすいていたところに、カレー食べていきませんかと言われたらそりゃ食べるでしょう。

 このお話は、あやがぐいぐい行かなかったら、成立しなかった。瞭司は引いてますからね。決して自分からあやのところへ、向かってはいかない。次の日にドライブインに食事に来たのも、通り道だったというのが大きかったと思う。わざわざ回り道はしてないはず。

 本当なら、カレーを食べた夜で終わっていた。だけどあの日、家を飛び出したあやが泣いてて振り返ったとき、瞭司がいた。そこからの急展開は強引なんだけど自然で、お互いに相手が必要で、親しくなることで痛みが緩和されていく感じが伝わってきました。

 このドラマ、盛り上がりという点では、1話が最高潮です。後は、そこからどう着地するか、ですね。

 結局、別れを選んだ二人でしたが。私はそれがよかったと思います。瞭司が声を取り戻し、ひこうき雲のトラウマを乗り越えたのはあやのおかげですが、じゃああやと結婚して彼が幸せになれるかというと、それは違うような。瞭司は純粋な恋愛対象としてあやに愛情を感じていたのではなく、あやに助けられたというその事実が、感謝や思慕をごっちゃにして恋愛もどきの一時的な感情の昂りを生み出していたような。
 声が出なくなり、袋小路にはまっていた瞭司ですから。どちらに歩いていけば出口があるのかわからず、暗闇でもがいていたのを導いてくれたのがあやで、でもそれは本当に恋愛なのか?っていう。

 思うに。恋愛は条件ではなく。なぜだかわからず、だけどその人と一緒にいたい。ただそばにいるだけで幸せ、というものではないかと。理屈ではなく。
 あやの姿には、それを感じました。瞭司に引き寄せられてる、見えない糸の磁力。

 瞭司は、違っていたような気がします。桜の下であやを久しぶりに見たとき。綺麗だと思い、見とれはしたけれど、抑えきれないほどの「近付きたい」衝動はなく。涙を流したのも、静かな涙で。もし本当に心底好きになっていたら、あんなに静かに泣くのではなく、もっと激しく感情を爆発させていたと思うのです。

 どうせ結果として二人は別れるのに、短い付き合いに何の意味があったのかと一瞬思ってしまったけれど。でもその短い付き合いが、あやをまた新しい人生に押し出す力となり、瞭司の声を取り戻す治療薬となったわけで。

 ただ一つ、このドラマで残念だったのは、原田泰造さんが、瞭司のライバルである佐々岡滋役を演じたこと。佐々さんのイメージ、泰造さんだと何かが違うのです。しっくりこない。泰造さんだと、泰造さんにしか見えなかった…。

 とにかく石田ゆり子さんと井浦新さんの組み合わせが抜群で、その他の気になる点を全部、見えなくするぐらいに輝いてました。この二人だから、魅力的でした。余韻を残す、ドラマです。