『あの頃へ』安全地帯

『あの頃へ』安全地帯、玉置浩二さんの曲を聴いてます。

家へ帰る途中、神社の脇で微かに、金木犀の香りがしました。

空を見たら満月。すこし離れて金星がキラキラ光っていました。角ごとに、あちこちから虫の音が聞こえて。なんだかこの季節は、胸が痛いですね。わけもなく、感傷的な気分になります。

閉園後の公園の芝生で、寝転がって星を見たいです。

虫の声を聴きながら、空を見上げたら、不思議な気分になれそう。

11月のしし座流星群、公園の芝生の上だったら、ほぼ360度、空全体を見ることができるのになあと。

公園じゃなくても。廃屋の庭でもいいなあと夢想してます。

大きなお屋敷の、日本庭園なんかも素敵。月が池に映って、ときおり跳ねる鯉が水面を揺らして、風が涼しくて、想像すると泣きたくなります。なんだろう、この感覚は。

玉置さんと石原真理さん(改名して「子」をとったそうです)が破局とのニュースを聞いて、思わず石原さんのブログを見に行ってしまいました。

世界をめぐる新婚旅行の途中。ある島で、玉置さんは『あの頃へ』が、石原さんを歌ったものだと語ったそうなのです。

なんてロマンチックな告白なんでしょう!!

でもどこかで、やっぱりねー、と納得していました。

当時、玉置さんは結婚していましたから、奥さんを思って歌った曲だという解釈だって、可能だったわけですが。

初めてこの曲を聴いたとき、やっぱり石原さんのことを思いましたから。

奥さんじゃないだろうなあって、それはわかってました。

もしこれが奥さんだったら、曲にはなってなかったような気がするのです。もし奥さんであれば。思い立ったら、すぐその手をとって列車に飛び乗って、二人でそこへ向かうことだってできたんですから。

解釈は、人によって違うとは思いますが。

玉置さんが、懐かしい景色を見せたかった相手は、きっとそれが叶わなかった相手なのだろうと。もうそれができない相手だとわかっているからこそ、歌になったのだろうと思いました。

芸術作品て、基本的にそういう要素があるのではないでしょうか。相思相愛の相手がいたら、そこだけで完結すると思うのです。語り合って、わかりあって、二人の中で完結すれば、それをあらためて、形にする必要性がなくなるというか。それだけで、十分幸せだから。

満たされない思いとか、届けたい気持ちとか、そういうものが、いろんな形で結晶化したものが、作品なのかなあという気がします。

ちなみに、作詞は松井五郎さんなので、玉置さんが直接詞を書いたわけではないのですが。

でもあのメロディがなければ、あの詞もなかったでしょう。

不倫でバッシングされているとき、石原さんが一人で記者会見していて、泣いたのがすごく印象に残ってます。あのときの玉置さんには幻滅してしまいました。どうして好きな人を矢面に立たせて平気なんだろうと、不思議でした。

不倫はいけないことだと、石原さんもわかっているんだろうなと、それを感じさせる会見でした。

当時の石原さんは大人っぽくみえたけど、まだ21歳だったわけで。それを考えると、やっぱり玉置さんの責任は大きいなあと。それだけ若い子に、強引にせまった既婚者の男ってどうよ?と思うわけです。

不倫で大騒ぎになって、結局玉置さんは離婚して。

じゃあ二人は結婚するのだろうかと、当時世間ではそれを噂したものですが、そのまま別れてしまった。

今年になって電撃結婚したのは、二人とも、嫌いになって別れたわけではなかったんでしょうね。

ただ穏やかに、仲良く暮らせたらいいねえ、と思っていましたが、無理でしたか・・・・。

でも、玉置さんや石原さんは激しい部分を持っている人だと思うので、ひどく傷つけあう前に、お互い納得して別れたなら、これでよかったような気もします。無理して一緒にいても傷つけあうだけなら、早く決着をつけたほうがいいと思うし。

いろいろあった末で、やっと結婚(実際、入籍してないという話もありますが)できたのだから、その点では、お互い気持ちの上で、満足したのではないかと。

『碧い瞳のエリス』『熱視線』『マスカレード』、あの頃生まれたいくつもの名曲の中に、二人の幻が透けてみえるような気がします。作品の中では時間がとまったまま、永遠に幸せな二人がいるのでしょう。

運命のカップルだったとは思いますが、運命のカップルがそのまま、夫婦として幸せに添い遂げるとは限らないのですね。ハリネズミのジレンマを思いました。

『スーパースター』東京事変

今日は、東京事変の『スーパースター』をずっと聴いてました。東京事変といえば、椎名林檎さん。この曲は、椎名さんがファンであるイチローさんを想って作った曲だそうです。

疲れたときに聴くと、元気がでてくる曲だなあと思いました。今週はかなり忙しくて、家に帰れば寝るだけの毎日だったんですけど、土日にこれでもかとばかり睡眠をとったら、すっかり回復して。

わかりますーと、曲を聴きながらうんうん、とうなずいてしまう。自分を誇れないうちは、逢いたくないですよね。その人の目に映る自分を、恥じてしまうから。それくらいなら、逢わない方がいい。というか、もし万一逢ってしまったら、私は逃げ出してしまうでしょう。全速力で。

強くなりたいなあと。

もうこれは、ずっと昔から思ってたなあ。今だ発展途上です。心も体も、強くなりたいと願い続け、努力もしてきた。でもまだまだ、足りないなあって、自分で思う。

強い人は、美しいです。尊敬します。

強くなければ、優しくなれない。

優しい人はみんな、強さを持った人です。だから他人のために、手を差し伸べられる。

考えてみると、私が今まで好きになった人はみんな、とても強い人だった。その人の視線に戸惑い、憧れ、そして、自分も同じだけの強さを持ちたいと、目標にしてきたような。

「僕らの音楽」という番組で、椎名林檎さんと対談したイチローさんは、「スーパースターって言葉は大嫌いだけど、スーパースターの前に『私の』ってついてたのがよかった」、みたいなことを話していました。

大嫌いって言葉を、とても強調していて。激しい嫌悪感をにじませて。でも、「私の」ってついていたから・・・と。

この感覚、すごくわかるような気がします。

万人のスーパースターじゃなくて。求めるのは、「私の」スーパースターなんですよね。

憧れるだけじゃなくて、少しでも恥じない自分になりたいっていうその感覚。

スーパースターも、きっと自分自身と戦い続けた人で。だから、たやすく口にする「スーパースター」という軽い響きには嫌悪感を覚えるけれども、「私のスーパースター」になれば、話は別で。

きっと、イチローさんにも、誰かを目標にがんばってきた過去があって。だから、椎名林檎さんが「私のスーパースター」に捧げた曲を、がっしり受けとめたのかなあって。遠い昔の自分を見るように。

明日もがんばろうって、そう思える曲です。

『茜さす帰路照らされど』椎名林檎

不安定な印象の歌手、ということで言えば。

たとえばCOCCOだとか、鬼束ちひろさんなどがいるわけですが。

COCCOは子供を持ってから、だいぶ印象が変わったなあと思います。落ち着いたというか、大地にしっかり根をはったイメージ。もう、フラっと倒れたり、急にどこかへ消えてしまいそうな、危うい印象はなくなりました。

鬼束さんは、迷いの森をさまよってる感じですね。鮮烈なデビューで、美しいメロディと、悲鳴をあげているような歌詞が胸に響きました。それから出口を探し求めて、そのまま森の中へ入ってしまったような印象を、受けました。

そして椎名林檎さんは。

最初にその名を耳にしたのは、『ここでキスして。』だったんですが、瞬間的に、受け入れられないと感じたのを覚えています。

本当に個人的な感想ですが、私はカップルが街中でいちゃつくのを見るのが嫌なので(^^;

手をつないでるのを見るだけでも、「そんなもん家でやってくれよ」と思ってしまうので、まして公衆の面前で、街中でキスかい!!と、当時反発を感じたのをよく覚えております。

そして次に林檎さんの名を聞いたのは、『歌舞伎町の女王』で、(リリースの順番は逆ですけども)、その激しいタイトルにまたもや拒否感を覚えたんですよね。曲も歌詞も、ちゃんと聞いたことはなくて、ただそのタイトルをテレビのランキング番組かなにかで耳にして、ああ、そういう歌を歌う人なんだと。

後に、ちゃんと『歌舞伎町の女王』を聴いたときに、こんな曲だったのかと驚きました。イメージしていたような、ちゃらちゃらした軽いノリのものではなくて、胸に響く物語があった。

林檎さんの曲で、『茜さす帰路照らされど』という作品が好きです。

イギリスでもアメリカでも、ノルウェーでもなくアイルランド。そこがいいなあって。縁もゆかりもない異国の少女の声が耳に届いて、夕陽に照らされていて。

あふれ出す、なんともいえない不安感とか寂しさがじんわりと、伝わってくるのです。

約束に、果たして意味があるのかなあ、なんて。

それは、紙に書いた約束でも、口にした約束でも、未来は幻想にすぎなくて。明日があるのかさえ、誰にもわからないわけで。

沈んだ夕陽が、明日はまた朝日となって昇ることでさえ、誰に保証できるのかって話です。

約束を求める気持ちは、すごくわかるけれど。

安心感がほしいから。嘘でもいいから、安心させてよって願う気持ちは、よくわかるのです。

約束は、思いやりなのかもしれないですね。本当は、確かな明日なんてそんなこと誰にもわからないけれど、相手の心に沿うための魔法の言葉。

確かなものは、今この瞬間にしかないのかなあと、この曲を聴きながらそう思います。過去は記憶の中にしかなく、未来は不確定の、幻想でしかない。

今、ここにいる自分。今、ここにいる感覚。それ以外に、なにも持っていないのだと、この曲を聴くとそんなことを思うのです。

『碧い瞳のエリス』安全地帯

石原真理子さんと玉置浩二さんが結婚したと聞いてビックリ!! そんなことってあるのかなと。ちょっと、考えられないような展開です。

ということで、今日は、久しぶりに安全地帯の『碧い瞳のエリス』をBGMに書いています。

腰の骨を折るほどの暴力・・・はショックでした。玉置さんがそういう人だったとは、信じたくなかったけれど。そのことを知ってから、見る目が変わってしまったのは確かですが、それでもなお、『碧い瞳のエリス』は美しい曲です。しみじみ、聴き入ってしまいます。哀しいメロディには、松井五郎さんの詞がよく似合う。

そして、玉置さんの声。

当時、生み出した多くの曲の影に、真理子さんがいたのかな、などと想像してます。

深く深く、内側に閉じこもって楽園の夢をみる、的な。自分の逃げ場所っていうか、そこに座りこんでただ、夢をみてる。それはきっとセピア色で、つらいことなんかなんにもなくて。

女性名の言葉の響きがいいなあと思います。想像が広がっていくのです。

ちなみに私は、『碧い瞳のエリス』から、森鴎外の『舞姫』を連想します。『舞姫』は村下孝蔵さんの『踊り子』へ繋がります。そして、一連のイメージの中に、ドガの『踊り子』の絵がチラチラと浮かんだりもします。

そしてエリスといえば、Sound Horizonの楽園幻想物語組曲のことを、思ったりもします。

どれも儚く哀しい、けれどとても美しい、手を触れればたちまち消えうせてしまうような、淡い憧れを描いていますね。心を打つ作品の数々です。

『FLY ME TO THE MOON』

仕事が終わった後は、必ず階段を使って帰るようにしている。エレベーターは待つのも面倒だし、誰かと乗り合わせるのも何となく気詰まりで。

重い扉が閉まる音を背後に聴きながら、無心になって階段を下りる瞬間が好き。誰もいない空気。白い無機質な壁。ひたすらゆっくりと、下っていく。

さっきまで頭を占めていた仕事のあれやこれや、数字なんかも、たちまち頭からこぼれていってしまう。そして空っぽになる。

かび臭い、とまでは言わないけど。使われていない場所の匂い、とでも言うんだろうか。微妙な埃臭さのような。あるいは、微かな塗装の残り香。

そういう、人の来ない場所特有の、淀んだ空気の感じが、私は好きなのである。そう、この階段は非常用ともいうべきもので、みんなは通常、エレベーターを使う。

階段は1階から最上階まで、つながった空間だ。たまに、どこかの階で誰かが扉を開けると、とたんに階段を駆ける靴音が響き始める。その音の大小で、自分のいる場所と、その人との距離感が計れる。

たいてい、階段を利用する人は1階分、もしくは2階分くらいの昇り降りをするだけだ。響き始めた靴音は、すぐにまた、別の階の扉が開かれる音と共に、消えてしまう。そんなときのその人の靴音は、とても無防備で。私はなんとなく、微笑ましく感じる。たぶん、私がいることを、そこに他人の耳があるということを、全く意識していない靴音だから。素の音っていうのかな。

疲れてるような足音もあるし。少し怒っているような、乱暴な足音もある。誰もいないと思うからこそ、足音にはその人のそのときの気持ちが現れるような気がして、興味深い。

そして私は、なるべく足音をさせない。

特に意味はないけど。なんとなく。ここに自分がいることを、気づかれたくないって、そういう気持ちがあるのかもしれない。その場の空気に溶けこんでしまうのが、心地よくて。

慎重に、足音を忍ばせて階段を下りていく。だからヒールのあるパンプスは履かない。コツコツいう音が嫌だから。

ここのオフィスビルの何がすごいって、階段の空間に、低く音楽が流れているということだ。粋だなあと思う。ビルの共有部分を音楽で満たす、そんなささやかな贅沢さって、いいなあ。ビルのオーナーが誰なのかは知らないけど、きっと素敵な人なんだろうな。だって、テナント募集に、特別有利な要素とは思えないから。階段に音楽を流してますって、それは売りにはならないだろう。そもそも、階段使う人が、ほとんどいないんだから。

音楽は日によっても、時間によっても違う。穏やかな、自己主張のないものが多い。楽器だけのときもあるし、人の歌声が入っていても、声が楽器と一体化して溶け込んでしまっているような、そんな感じのものばかりだ。

今日は、扉を開けて階段に滑りこんだ途端、懐かしい音が耳に飛びこんできた。

『FLY ME TO THE MOON』だ。うわぁ~!!と、思わず心で叫んでしまった。

これ、初めて聴いたのがエヴァンゲリオンだった。エンディングテーマに使われてて、それがまた番組によく合っていたんだよなあ。真夜中に、部屋の電気を消してよく見てた。物憂げなメロディと、暗喩の歌詞にこめられた媚態。そのバランスが、なんとも言えない味だと思う。

曲中のおねだり。どんだけ可愛い我儘だよと(^^;

そういえばその頃。私が、真っ暗な部屋でよくエヴァンゲリオンのエンディングを見てた頃。向かいの部屋には、きれいなお姉さんが住んでいた。お姉さんの元には、ときどきカッコイイ彼が訪ねてきていた。

たまに2人とすれ違い、会釈を交わすとき。美男美女のカップルだなあ、なんて思った。まるで絵に描いたように完璧で、幸せそうな恋人同士だった。

だけど、2人は表に見えてるような普通の関係ではなかったのだ。ある日の真夜中。私は下の道路から聞こえる怒鳴り声で、目を覚ました。

「なんだよ。馬鹿にしやがって!! 人をなんだと思ってやがる!! チクショーッ。このままじゃすまさないからな!!」

夜中だというのに、まったく辺りのことなど気にしていない怒声。ただ事ではない。それがいつまでも続くものだから、私は窓を開けてベランダに出て、下の様子をうかがった。私だけでなく、近所の人たちも家から出てきて、こっそり様子を見ているようだった。

怒鳴っているのは、40代くらいのおじさん。おじさんの前で途方にくれているのは、私の向いの部屋に住む、あのカップルだ。おじさんは、辺り構わず、自分の思いのたけをぶちまけ始めた。事情がわかった。

おじさんは長距離トラックの、運転手をしているらしい。お姉さんと付き合うようになり、彼女にねだられるままに高価な宝石やバッグを買い与え、あげくには部屋までも、おじさんの名義で借りてあげたとか。つまり、あの部屋はお姉さんのではなく、おじさんの部屋だったのだ!!

おじさんは幸せだった。彼女を信じていた。美しい彼女が自慢で、大切だった。仕事がら地方を車で走ることが多く、あまり彼女を住まわせる部屋には来れなかったけれど。この部屋で彼女が幸せに、自分の帰りを待ってくれるとばかり思っていたのだそうだ。

今日、連絡なしに突然この部屋を訪ねると、なぜかその部屋には彼女と男がいたと。結婚してないとはいえ、おじさんにとっては間男同然。しかもその男は、ちゃっかり自分の荷物などを部屋にいくつか置いていたようで、それがおじさんの怒りに火を注いだようだ。オレが借りた部屋なのに、なんでお前の皮ジャンがあるんだ?とか、そんなことをわめくおじさん。最初は興奮して怒鳴りまくっていたおじさんだったが、勢いがいいのは言葉だけで、実際には間男?を殴ることもしなかった。これ、手が早い人なら本当に大喧嘩になってると思うんだけど、おじさんは口で罵るだけで、手を出すことはなかった。

固唾を呑んで様子を見守る近所の見物人(私を含む)たちは、次第におじさんに同情し始めた。そりゃ腹も立つわな。

間男は言い訳もせず、神妙な顔をして、彼女と2人、並んで俯いていた。その姿が余計、頭にきたらしく、おじさんは怒鳴りまくる。一度、興奮するおじさんをなだめようと、若者がおじさんの肩に手を触れようとして、思いっきり払いのけられていた。

そりゃそうだ。他人がまあまあと止めに入るならわかるが、腹を立てているその、根本的原因である若者がおじさんをなだめたなら、火に油を注ぐようなもの。

しかし。第三者的な立場から見ると。おとなしそうな様子のお姉さんと若者は、やっぱり似合いのカップルだった。おじさんは結局、利用されていただけなんだろう。その似合いの様子を目の前で見せられるからよけいに、おじさんは収まりがつかないんだろう。

最初は若者、男の方をターゲットにしていたおじさんであるが、やがてその矛先はお姉さんへと向かった。未練なのか、お姉さんに対してはやはり遠慮があるのか、おじさんの口調は少しだけ、男に対するものよりは優しいものに感じられた。

おじさんは語った。どれだけ信じていたか。大切だったか。お姉さんのために、あれも買った。これも買った。なにが不満だったのかと。お姉さんの声は聞こえなかった。たぶん、黙っていたんだと思う。おじさんの声には、涙が混じっているように聞こえた。

エンディングでFLY ME TO THE MOONを聴いていたあの部屋。ベランダで、そんな喧嘩の一部始終を聞いたのも、懐かしい思い出である。

耳に残るメロディを、心で口ずさみながらビルを出た。空には、まるで狙いすましたかのような丸い、大きな月。こんな日にはふさわしい、綺麗なお月様である。